第一章 七

 達磨服の釦を留めながら、額に汗すら浮かべて小柄な男は庁内の一室に飛び込んできた。目的の人物を奥のほうの机の前で見つけて、駆け寄る。椅子に腰掛けずに、机に手をついて眉間に皺を寄せているの青梅であった。背後にある硝子の窓はいつも朝日が差し込むはずなのに、巨体が邪魔して部屋の中はなんとなく薄暗い。

「あ、兵藤さん」と駆ける横で若い巡査が声をかけた。「青梅さん、ちょっと」

「わかってる」

 怒っているだろうな、と兵藤は思っていた。

「すまん、青梅」

「――こんな時間まで仕事か」

 小さく兵藤にしか聞こえないように言うのは心遣いだろう。

「ああ、いや。仕事は夜半すぎには終わっていたんだが、使いがきたことを今朝知らされたんだ。まつがまだ子どもで夜はどうしても起きてられんようでな」

「多喜どのは」

「――それより。またやられたんだそうだな」

「そうだ。今回も胸をひと突き、正面から。同じ手口だな」

「今度はどこだ。また大川か」

「仙台堀だ。夜半に仕事をしていた猪牙船の船頭が見つけた」

 机の上に広げられた地図で一点を指しながら、青梅は言った。脇にある水路に小川橋がかかっている付近のようだ。

「よく分かったな」

 この辺りの夜など、墨で塗りつぶしたようなものだ。特に昨夜は新月で、月の光はあてにならなかった。

「乗せる客を捜すために提灯をかざしていた。それで見つけたらしい」

「身元は分かっているのか」

「いや、まだだ。榊たちが今、調べに行っている。身なりからして、表店の、なんぞの店の女房だと思うんだが。年は三十路ぐらいか――といっても、おれも女の歳はわからんが」

「この辺りの表店だとすれば、帰ってこない女房がいれば、届けが出るだろう」

「そちらも何か入ればすぐに報せてくれるように言ってある」

「待ちはおまえも気詰まりだろう、出るか」

「闇雲に出ても何か捉えられるとは思えん」

 青梅が厳つい顔をますます岩のようにさせた。そうか、と兵藤は頷いて質問を続ける。

「傷口は同じか」

「見たところな。短刀か脇差しか分からんが」

「おれたちと違って、士族は脱刀勝手たるべし、だからな」

 この時代、政府はまだ士族の反感を恐れてか、刀の帯刀は各人の自由ということになっている。そのため、町中を往来する侍崩れの腰から刀が消えることは無かった。

「で、亡骸は?」

「とりあえず、引き上げてからは黒江の第二署に運ばせた」

 確かに見つけた場所からすればあそこが一番近い。

「明け方とはいえ、まだ暗い時分であったから見とがめられることは無かったが、前回のお仙の件も小新聞のいいネタになっている。人の口に戸はたてられん。隠しおおせるものではないだろう――このまま何の手がかりもなければ、本庁が乗り込んでくるぞ」

「それは鬱陶しいな」

 兵藤が頭を掻きつつぼやく。

 維新があってようやく八年。警察機構もなんとか形になり、動き始めたとはいえ、まだ各庁は馬車の両輪のようにとはいかなかった。ましてや第一本庁は、喧嘩の仲裁や幼児の往来での小便を取り締まっているに過ぎないというていどの評価を分庁に下しているのだ。人殺しがあって、それが何件も続けば彼らが乗り込んでくるのは時間の問題と思われる。だが、川向こうと呼ばれる本所・深川は六大区として八名川に分庁が建っているのだ。ましてや青梅にとっては、江戸の頃からここを番していた義父の跡を引き継いでいるとの自負があった。

「――何故、正面からなのか」

 普通、不審者がいれば近づく前に人は逃げるだろう。背後から刺されているほうが納得いく。

「まず、不審に思う相手ではなかった、ということか。顔見知りか、それとも他に何か」

「そして手練れだ。短刀なり脇差しなりを抜き身で持っていれば、どう考えても相手は警戒する」

「……ああ、居合いか」

 抜き身を見せぬ抜刀術であれば、それも考えられるかもしれない。

「夜の中で、女は提灯を掲げて道を急いでいる。そこに声を掛けられる、あるいは姿を見せてくる。まず驚く、が、そこまでだ。女は近づく、警戒はない――近づく? いや、近づくことはない。ただ、そこに立っている。たぶん――男がさりげなく近寄って抜刀する――そうか、脇差しを持っているのか。つまり、持っていて不審ではない相手、あるいは隠し場所がある相手」

「士族か。だが、お仙に関係のあった男に侍はいなかった」

「そうだ」

 青梅が渋い顔のまま兵藤の言葉に同意した時だった。

「青梅さん、兵藤さん」と名を呼びながら、若い巡査が駆けてきた。「榊」

「分かりました。数矢丁の指物師・与助の女房で名はおりんです」

「そうか」青梅が踵を返す。兵藤もその後に続く。

「何故分かった?」

 青梅の問いに、若い巡査――榊は青梅と歩調を合わせながら「明け方になっても女房が戻らない。土左衛門で流れている女がいると聞いたと、亭主の与助が黒江まで駆け込んできまして」

「……なんだ、どこから漏れたんだ。もう噂になっているのか」

 兵藤が呆れたように言うと、仕方ありません、と榊は答えた。

「人数を使って聞き込みましたので」

 うむ、と唸りながら青梅は、分庁の二階から階段を下る。一階は取調室と留置所になっていた。もっとも階段すぐ下には外への扉があり、奥のことなどは気に留めず、そのまま外へと飛び出す。

「で、その与助とやらは間違いないと言ったのか」

「はい。女を見るなり認めました。話を聞こうとしているのですが、自失しているのか、まだ何も聞き出せてません」

 仙の時は身内はいなかった。同じ長屋の連中も惜しんではいるようだったが、さほどの感情の吐露は無かった。拍子抜けもしたが、聞き込みをするのは比較的に楽であったのだが。


 黒江丁の分署――邏卒の駐屯所でもある――で待っていたのは、三十を少し過ぎたばかりと思える職人の男であった。

 木造一階建ての分署内には、入ってすぐに小さな白州がある。男はそこで薦にくるまれた亡骸を前に坐り込んでいた。

「与助か」

 青梅が問えば、顔を上げて木訥と頭を垂れた。「はい」と小さな声が聞こえるが、思っていたよりも言葉の音ははっきりしていた。

「話を聞かせて貰えるか」

 青梅が言ったときには、兵藤が亡骸の前にかがみ込んで、薦をぴろりとめくり、女の顔を確認している。

「はい」と、そんな兵藤の行為を横目で見つつ、与助は頷いた。断髪令が出たとはいえ、まだザンギリ頭にしているのは四人にひとりほどだ。与助も例に漏れず、町人髷のままで、それが少し乱れている。

「誰ぞに話を聞いてきたのか」

「それもありますが。今日はおかしいと思っていたんで」

 青梅がどういうことだ、と問うと与助は亡骸から視線を外さぬままに答える。

「おりんが夜に出かけることはよくあることなんですが、あの時分まで帰ってこないことは今まで無かったんで。油はもったいねぇですが、いつもあれが戻ってくるまでは仕事して待つんでサ」

 それで印半纏に股引姿なわけだ、と青梅は納得する。

「あんな時間によく出かけていたのか」

「へえ、まあ」と歯切れ悪く与助は答える。「最初は昔馴染みに会うとか、実家に顔を出すとか言ってやしたが、最近は開き直ってました。たぶん、男に会いにいってたんだと思います」

 青梅の近くへ来た兵藤が囁いた。「美人だな」

 そんなことは仙台堀からの引き上げに立ち会った青梅は承知している。頷くだけに留めた。

「男がいるのか。どこの誰か知っているか」

「おれが知る限りでも何人かいます。ですが、昨日、誰のとこに行ったかまでは」

 与助の口調は淡々としていた。諦観さえ感じる。

「――随分な女だな」

 珍しく兵藤が口を開く。与助は声の主を見てから、薄く笑った。

「まぁ、あれは病だとでも思わなきゃやってられません――普段はそれなりに良い女房なんで」

 青梅は与助から女房の浮気相手の名前を聞き出した。与助が知っているだけでも四人の男が女にはいたようだった。

「その」と与助は言った。「連れて帰っても、ようございますか」

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