第一章 六
「忘れるところでした」
伊三郎は仕事道具を容れた手提げの抽斗奥から紫の袱紗に包まれたものを取り出した。
「ご隠居さまから頼まれた時計です。お気に召していただけるといいんですが」
「千夏」
大黒屋の隠居に促され、孫娘は明るい表情で伊三郎の手からそれを受け取る。包みを解いて中から出てきた懐中時計にぱっと表情を綻ばせる。蓋の表はいたって質素で、ただ磨きぬかれた銀色であった。
「ご隠居さまのお言葉通り、表にはあまり彫りを入れませんでした。内側をご覧ください。その、下のほうの出っ張りを押してみてください」
ぽかりと開いた内蓋に、綺麗に花が彫られている。繊細なそれがすいかずらだということが千夏には分かる。
「花は数ありますが、千夏お嬢さまにはその花だと思いまして」
「どうしてわたしにすいかずらなの?」
「あの凛とした形がお嬢さまのようだと思いました。わたしの好きな花でもありますし、つい。お気に召さないようでしたら、彫り替えてきましょうか」
「ううん」慌てて千夏は首を振る。「わたしもすいかずらは好き。とっても綺麗。お祖父さま、伊サさん、ありがとうございます」
「伊サの時計が欲しいというたときにはどうするかと思うたが。
「そんなことはございませんよ、ご隠居さま。近頃は学校の先生になる女性の方が、時間を確認するのにこのような時計は持つようです。わたしも幾つかそういう方の時計を作らせていただきましたから」
「ほう。世の中はそんなものか。江戸の頃とは随分変わってきたの」
確かにわしも古いと言われても仕方ないかもしれんな、と老人は嘆息する。
「で、伊サさん。この自鳴磐も半月毎に調整がいるのよね。わたしも伊サさんがここにくるときに来たらいい?」
伊サは口の端を軽くあげて笑った。
「そんなご面倒なものを千夏お嬢さまに作ってはおりません。盤面をご覧ください。一から十二の数字が並んでいるだけでしょう? この時計の時刻は今の時刻に合うようにつくってあります。いまさら昔時間での暮らしなどしますまい? 昼ドンのときに正午に時刻が合っていることさえ確認なさればよろしいのです。時間が狂ったときには、もちろん調整にも伺いますが、その右手に出ている捻子で針の調整は出来ますから、ご自分でも合わすことができます」
え、と千夏の動きが止まる。千夏お嬢さま? と不審そうに伊三郎が問えば、何でもない、と千夏は首を振った。
「――でも、昔時間のでも良かったのに」
「いまさら流行りませんよ。これからは陸蒸気にも乗ることがありますでしょう。だとすると、大切なのは西洋時間ですから」
伊三郎はそう言って笑った。大黒屋の隠居だけが不憫そうに苦笑している。
辞去する伊三郎に、そこまで送ってくる、と千夏は立ち上がった。
「すぐに戻るから、お祖父さまは寝てて」
「ほんにそこまでじゃぞ。通りまで連れていってあいすくりんとやらなぞ、食べにいくんじゃないぞ」
お祖父さま、発音がおかしいと笑いながら、はーいと高い声で囀って、千夏は伊三郎の後を追った。
門を出たところで、待っていた車夫が「お嬢さま、もうお帰りですか」と頭を下げる。千夏は首を振った。
「ううん、伊サさんのお見送り。すぐそこまで一緒に行ってくるから、まだ待ってて」
「ですが」
おそらくお店の主人からは千夏を決してひとりにしないように言われているのだろう。
「すぐ戻ってくるから。もう日も高くなっているんだし、大丈夫よ。ここで待ってて」
「ならばお供いたします」
「いやよ。ここで待っててって言ってるでしょ」
「そこの川沿いまで見送って頂いたら、すぐにお戻しします」
伊三郎は言った。千夏は一度言い出したら人の言うことはなかなか聞かない気性だ。家族ならばとにかく使用人の言葉に耳を傾けない我が儘さを彼女が持っていることは承知していた。
「真吉さんはこちらから千夏お嬢さまを見ていてください。川に突き当たるその路までですので、見失うことはないでしょう」
真吉と呼ばれた車夫は、伊三郎と指された川沿いを見比べた。確かに三十間も無い短い距離だ。
車夫が「お願いします」と頭を垂れたあと、はいと伊三郎は応えて歩き出した。千夏は笑って、木履をコロコロと音を立てながらついてくる。短い距離のせいか、「伊サさん、少しゆっくり歩いて」と懇願した。
伊三郎が歩調を揃えると、千夏は立て板に水のように話し始める。
「伊サさん、わたしね、今マンテルを作ってるの」
「――マンテルですか」
言ってみたものの何のことか分からない。伊三郎の顔を見上げていた千夏にもそれが分かったのだろう。
「西洋の羽織なの。羽織と違って、もっと厚い布で作るのよ」
「ああ、自身番の人が着ているあれですか」
「そう。あれのことよ。あんなに、その、趣味悪くないけど。基本は冬用ね。でね、それを縫うにはミシンっていう機械を使うのよ。こーんな大きさでね」と千夏は両手を広げ、「それにとっても太い針がついていて、足で下にある平べったい鉄のところを踏んで動かすのよ」
千夏の説明はよく分からなかったが、そうなんですか、と伊三郎は頷いた。
「でも、職人さん用ので、わたしだと足が届かなくて。あまり使わせて貰えないから、なかなか進まないんだけど」
「お家のお手伝いをしているのでしょう?」
「もちろんよ」
千夏は慌てたように言った。
「色々と家の仕事のことは知ってなくちゃいけないでしょ。兄さまがいるから、わたしに出来ることは少ないけど」
「でも、大黒屋さんではどんなものを作っているのか聞かれたときには答えられないといけませんからね」
「そう! そうなのよ、伊サさん――で、それでね、時間かかると思うんだけど、マンテル、出来たら」
千夏が俯いた。伊三郎が不審に思って視線を向けると、何故か千夏の耳が赤い。
「試しに作っているだけだから、たぶん、失敗すると思うんだけど。失敗したら、伊サさんにあげようと思って」
「わたしに?」
「失敗したものなんていらない?」
「いえ。よく出来たものは頂けませんから、もし処分に困るようなことがあれば頂きます。千夏お嬢さまのお手製と思えば、価値は上がりますね」
「良かった」
千夏はほっとしたように表情を崩した。
「さ、千夏お嬢さま。もうここまでで結構ですよ。真吉さんがお待ちです。ほら、とてもご心配なようすだ」
視線を向ければ、車夫の真吉は俥の傍らで好きな煙管も噴かさずに、こちらを見ていた。千夏は頬を膨らませる。
「これだけの距離なのに」
「千夏お嬢さまをとても心配しているんですよ、有り難いことじゃないですか。あまり我が儘を言うと罰があたります」
はい、と千夏は素直に頷いた。
伊三郎には不思議だが、千夏は自分にはとても素直である。
「わたしがここで見ていますから、気をつけてお戻りください」
「伊サさん、じゃまた」
「本当にお気をつけてお戻りくださいね」
「はい」と千夏は頷いて、「それと、時計、大事にします」と言い添えた。
伊三郎は微笑んで、こちらを何度も振り返る千夏を隠居所に入っていくまで見送った。
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