第一章 五

「夏風邪とは。大丈夫なのですか、起きられても」

「ずっと寝てばかりで腰が痛うてたまらん。伊サまでわしに気遣うな」

 憮然とした口調で隠居は言った。

 伊三郎の覚えているかぎり、大黒屋の隠居は決して小柄な男では無かった。だが、もうここ数年を思い出してみても、腰が曲がったためか背は随分縮んだように思う。顔に刻まれた皺は半月前よりもさらに深いものになったように感じられた。大黒屋の隠居は伊三郎の祖父・祖母よりも年が上なのだから、それは無理もないことなのだが。

 伊三郎は物心ついたときからこの老人にはいつも助けられていた。安政の江戸地震のときに、火事で焼け出された自分たちを捜しにきてくれた。この老人がいなければ、祖母とふたり、住むところから捜さねばならなかったし、伊三郎が自鳴磐職人の元への弟子入りを世話してくれたのも、この大黒屋の隠居であった。――もっとも当時は大黒屋の主人であったが。

「それにもう随分良いのじゃ。このまま寝ておっては倅に殺されかねん」

 うん、と千夏も頷いた。「お父さまはお祖父さまを薬漬けにするつもりだから」

 大黒屋はご隠居様大事な人間の固まりである。親は煙たくなるもの、が、この家だけは通用しない。

 伊三郎はそれならば良いのですが、と応える。

「まぁ、とりあえず自鳴磐を合わせてもらおうか。そのあとは少しゆっくりしていけるか。昼飯は用意させるから、一緒に食っていかんか」

 老人の傍らで千夏の表情が嬉しそうに綻ぶ。

「有り難うございます。ですが、今日はあまり長居ができませんので」

 伊三郎は軽く目礼すると立ち上がり、そのまま老人と千夏がいる部屋へと敷居を跨いだ。

 老人が寝起きしている部屋には自鳴磐がふたつある。ひとつは櫓自鳴磐であり、立ち上がった伊三郎の胸ほどまである大きさであった。これは父・伊助の作品だ。ほとんど飾り気の無い自鳴磐は櫓台の上に乗っている。台は前面に扉があって中には錘が吊りさがっていた。この重さを調整し、針の動きを制御するのだ。本来は明けか暮れに調整するものだが、伊三郎はここ数年、そんなことをしたことが無かった。あまりにも早く訪れるのも問題であるし、暮れ時は暮れ時で問題がある。今の東京は一部を除いて提灯なしに、夜出歩くことは出来るだけ避けたかった。

 それに伊三郎の父が造った自鳴磐は精巧だった。時間というものを正確に刻む以外に全く興味が無かった父は、その手で造った自鳴磐からも一切の装飾を排除している。――豪奢な昔自鳴磐は大名・豪商の所謂ステータスであったことを思えば、父・伊助の造った自鳴磐はその意義を全く成してなかったと言って良い。

「何か用でもあるのか」

「実は長屋で不幸がありまして。今日に通夜をするかどうかは分かりませんが、わたしもお手伝いをしなければなりませんから」

「それは、仕方ないかの――これ、千夏、そんな顔をするでない」

 自鳴磐の時刻合わせは二十四節気毎にせねばならぬとは言え、自鳴磐師にとってはそれほど面倒なことではない。ましてや慣れた父の自鳴磐である。伊三郎は手早く終わらせて、次の自鳴磐へと向かう。

「大体、そもそもさきほどのやりとりも聞こえておったぞ。嫁入り前のおなごがはしたない。伊サが分別あるゆえに良いものの」

「お祖父さまは古いのよ。これからは女もきちんと学問をして社会に出ていくべきよ。女だからってしちゃいけないことばっかりっていうのはおかしいわ」

「おかしいのはおまえじゃ。わしは学問することは悪いとは思っておらん」

 千夏がやってくると、大抵が老人と孫娘の言い合いになる。そして伊三郎はそれを背に受けながら自鳴磐の調整をするのである。

 部屋の柱に掛けられた自鳴磐は、父・伊助の造ったような木訥としたものではない。むしろ装飾の固まりと言って良かった。側板の彫り飾りも高彫りを中心に、天板に朱雀、右には青龍、左に白虎、そして底板に玄武が力強く彫られている。特に下から見たときに分かる玄武は、亀に絡まる蛇が底板の穴の部分に続き、そこから錘を吊した紐が垂れているために、まるで蛇がそこから出てきているような感じさえ与えた。

 正面からみれば、盤面の周縁には時刻を示す干支と数字が彫られている。時刻を示す針は細い。そして青く光っている。青貝の微塵塗りだ。自鳴磐に施してあるものは珍しい。

 伊三郎は溜息をつく。父・伊助の造った自鳴磐は半月放置していてもほとんど狂わない。だが、この豪奢な自鳴磐――伊三郎の祖父が造ったこの自鳴磐は一日もあればすぐに先に進みたがるのだ。どれほど調整してもまともに動いた試しがなかった。

 仕方がない。自鳴磐内部の細かい部品ひとつひとつがあまりにも杜撰な造りなのだから。

 祖母が祖父のことを半端な職人だったと言った、その意味が時計職人となってよく分かった。不器用なわけではなかったのだろう。むしろ手先は器用であったはずだ。でなければ、これほどの装飾は施せない。だが、飾ること以外には全く関心が無かったのだろう。

 そしてまた、父が飾りなど全く意にとめず、ただひたすらに正確さを目指したのは、祖父のこういう自鳴磐を見てきたからではないかと思った。

「――足して二で割れば」

 小声で呟いたつもりだった。だが、いつのまにか背後の喧々囂々は消えており、大黒屋の隠居と孫娘はふたり並んで伊三郎に視線を向けていた。

「わしはどちらの自鳴磐も気に入っておる。その自鳴磐は伊平次と伊助そっくりの性分でな」

 伊三郎は肩越しに老人を振り返る。

「さぞ祖父はいい加減な人だったのでしょうね」

 父を幼い頃に亡くした。祖父などは伊三郎が生まれたときには既にいなかった。――この老人は伊三郎の祖父母と両親を知る数少ない人間のうちのひとりであった。

「――本当に、祖母はそんな祖父の何がよくて夫婦めおとになったのでしょうね」

 ぷ、と突然大黒屋の老人が噴き出した。「お祖父さま?」と小首を傾げる千夏に、なんでもないわい、と応えながら、伊三郎に視線を向けて、再び、ぷぷっと笑う。

「どうしましたか、ご隠居」

「伊平次を知るもんは皆、なんでお志摩さんなんぞを嫁に貰うのか、貰ったのかと散々言っておったのを思い出した――そうか、おんしにとってはお志摩さんのほうが上か。いや、確かに、確かにそうじゃ。わしもそう思う。お志摩さんほどの人が、あんな男の元に嫁いでくれたもんじゃと今ならば思う――なんせ、伊平次の取り柄は顔だけだったからな」

 いやいや、と隠居は首を振る。

「まだあるな。性根は良かった。素直で明るくて、しかしおつむの出来はひどかった。見かけ倒しめ、と、わしなどもよくからかったもんだ」

「……」

「手先は器用だが、ここが」と老人は自分の頭をとんとんと叩いた。「おいつかんでな。伊サも知ってるとおり、自鳴磐師は頭が肝心だ。計算した部品を組み合わせていく。一年かかってひとつの自鳴磐をつくるんだが、あれは型どおりのもんしか作れなんだ。外をどれだけ飾っても中身は実は全部同じであろう? 工夫して計算できる頭がないんじゃよ。だからまぁ、お志摩さんのような頭の良い人がいいとあの人を嫁に貰ったんじゃがな」

 確かに、祖父の遺した数少ない自鳴磐には似たようなものが多い。というか、同じようなものしかなかった。それに比べて、父・伊助の自鳴磐は工夫に満ちている。なるほど、父の頭が良かったのは祖母の血であったわけだ。

「まぁ」と老人は囁くような小声で言った。「ひとつだけ、変わったもんを造ったがな」

 え? と首を傾げた伊三郎に、何でもないわ、といつもの笑顔を老人は造った。好々爺の顔はそれ以上の質問を受けつけておらず、伊三郎はそれ以上問いかけることはしなかった。

「それより、伊サ。あれは出来て、持って来てくれたんじゃろ」

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