第一章 四
明けきらぬ暁の空にはほとんど雲は見えない。おそらく、今日の天気も崩れることはないだろう。
永代橋が見える。
伊三郎の住む福住丁からはひとつ橋を渡り、正弾寺の脇を通る路を行けば、東京でもっとも大きな橋へ辿り着く。永代橋の左手は海だ。東西南北どちらを向いても風光明媚な景色が続く。天気がよけば、西に富士を望むことも出来た。
だが、今は日の欠片すら頭を出していない。薄暗いというほどではないが眩い光はまだ無く、日が照っていないというだけで、夏だというのに肌寒い。
永代橋を渡る人影もまばらだ。昼日中には祭りでもあるかと思うほど往来を意味もなく埋め尽くす人々もなく、商売物を担いでいく人を見るばかりだった。
伊三郎は朝のこの永代橋が好きだった。月に二度、小さな仕事箱を提げて必ず通る。ここを通らなければならないわけではないが、永代橋を通ってから大川沿いを上流に向かって歩いていくのだ。
大川の向こうは壱大区になっている。東京――日本――の中央たる官庁が建ち並ぶ地区だが、大川沿いを歩いていくかぎりは昔の町並みを残していた。川に浮かぶ猪牙も変わりない。上野の戦のときには少し鳴りを潜めたが、いままたぞろぞろと湧いて出ている。今の時刻では桟橋に繋がれた船に船頭の姿は見えなかったが。
ぼんやりとそんな風景を目に収めながら川沿いの路を歩いていく。
目的の場所は十二小区に割り振られた富松丁である。祖父の代から付き合いのある大黒屋の隠居が、そこに居を構えていた。祖父、父のふたりが造った自鳴磐がその隠居所にはあり、月に二回、伊三郎が時刻を合わせ、中の錘を調整するために通っていた。
それなりの距離はあるが、伊三郎の足どりは疲れを感じさせない。猪牙船も俥も使わない。歩かないと色々なものを見落とすよ、という祖母の教えゆえではない。単に勿体ないからだ。太市も長屋の連中も、伊三郎が何を考えているのか分からないと首を傾げるが、何故分からないのかが伊三郎のほうこそ分からない。
『本当に情の入らない人なのね』、と言ったのは死んだと言われている――その姿を見ていないので伊三郎も実感がない――仙だった。だが非難の色は露ほども無かった。伊三郎の周囲の人間は仙は年若い伊三郎に対して何かしらの情があるのだと思っていたが、その実は違う。あれほど男が嫌いな女はいなかった、と伊三郎は思う。女にとって心許せる相手は祖母の志摩だけだった。志摩の孫だから、目をかけていてくれただけだ。ただ、不幸なことに女は男がいなければ生きていけなかった。嫌いな男に媚びなければ明日の糧を得ることも叶わなかった。
そんな女だから、男のことはよく分かっていた。
『伊サさんはお志摩さんのお孫さんとは思えませんね』
どういうことか、と珍しく伊三郎から問いかければ、嫣然と笑って応えた。
『お志摩さんはいつでも誰かのことを考えて、情と理で動く人だけど、伊サさんは理でしか動かない。考えても仕方ないことは仕方ないですませてしまう。でも、投げているわけでもない。そのとっても良いおつむで瞬く間に考えてこたえを出してしまう』
そんなふうに言われたのは初めてで、へぇ、と言った。その言葉遣いがいつもの伊三郎と違うので、手を口にあててころころと仙は笑った。だが、少しでもうちとけて話をしたのはそれだけだった。
三年前に志摩が倒れ、寝込んだのは七日。その七日の間、時折目を覚ました志摩は病人とは思えぬはきとした口調で、伊三郎にあれこれと教えた。七日の間、その志摩の看病に通ってくれた仙にも、あんたは男で失敗する、わしがいなくなったら少しは慎みなさいと言った。そして八日目の朝、志摩は潔く逝った。最後の言葉はなく、泣き出す仙の隣で伊三郎は泣かなかった。
長屋の衆が駆けつけて志摩を惜しんで涙ぐむさなかも、伊三郎は泣かなかった。泣いて戻ってくるならば、いくらでも泣くのだが、と思っていた。ただそのとき、伊三郎が自分の最大の理解者を失ったことだけは確かだった。だが、伊三郎は理解者を全て無くしたわけではなかった。
陽は既に地平の向こうから頭を覗かせ、周囲からはもうすっかり薄暗い紗は拭われていた。いつもの感覚は、このぐらいになれば目的の場所はすぐだと教えてくれる。
大黒屋の隠居は祖父と祖母の昔馴染みだった。変わらぬ厚意を伊三郎に向けてくれる奇特な人物だ。派手で賑やかなことが好きな陽気な年寄りで、そのためにも壱大区の――俥でならばすぐに銀座通りに出られるところに居を構えている。もっとも、若いときほど派手に遊ぶ欲求もなくなったらしく、大川沿いという微妙な場所であるのが、老人の葛藤を物語っていた。
富松丁が見えてくる。一番手前に見える、塀に囲まれた邸宅に大黒屋の隠居が住んでいた。左へ折れて戸口のほうへ向かえば、俥が一台停まっていた。その俥にもたれ掛かるように煙管を吹かせている若い車夫が、伊三郎を認めて、どうもと頭を垂れた。
「お疲れさんです、伊サさん」
「お疲れさまです。今日も千夏お嬢さまの?」
「へぇ。今回はご隠居さまにお呼ばれしたのだと、大きな顔をなすっておいででしたよ。いつも伊サさんが来るときには、あの手この手の言い訳つきで、お
「そんなに無理なさらなくても、お呼びがあれば、わたしのほうから銀座のほうに伺いますのに」
はは、と車夫は笑った。
「銀座のお店には昔
伊三郎は笑って、木戸門を潜った。
「ねぇ、伊サさん、アイスクリンはもう食べた?」
隠居所の奥から、ぱたぱたと軽い足音がしたと思えば、伊三郎を認めた開口一句がそれであった。
「千夏お嬢さま」
「それと珈琲は飲んだ? とっても苦いの。お薬みたいなのよ。きっと伊サさんもびっくりするわ」
高い声で愛らしく囀る娘の年は十五である。銀杏返しに結い上げた髪と、はっきりした目鼻立ちの娘には赤紫の着物がよく映えていた。褄の部分を昇る蔦に絡まる花は朝顔である。良い生地に良い柄の着物は、さすがに呉服屋の娘だけはあった。
「アイスクリンに珈琲ですか。いえ、どちらもまだ頂いてはいません」
「じゃあ、食べに行かない? まずはアイスクリンから」手を叩いて目を輝かせる娘に伊三郎は心のうちで苦笑した。すぐにでも行こうと言い出しかねない千夏に笑顔を見せる。
「そうですね。ご隠居さまもご一緒に、機会があれば是非――ご隠居さまは奥でお待ちですか?」
玄関の式台にどんと立ちふさがっていることに千夏は気づいたらしい。途端に顔を真っ赤にした。
「いけない。お祖父様にきちんとお出迎えしなさいって言われたのに」
「お嬢さまきちんとお迎えくださいましたよ」
千夏は少し恥ずかしそうに笑うと、しずしずと身を引いて「お上がりください」と今更のように取り繕った。
伊三郎は礼を言って隠居所へと上がった。
この小さな家は、それでも伊三郎が住む裏店に比べれば、二部屋は余分にある。奥座敷を左手に見て廊下を進めば、いつも老人が起居している部屋へと着くのだ。勝手知ったる家なので、千夏も案内するつもりはないらしく、伊三郎のあとについてきていた。
大黒屋の隠居がいる部屋は小さな坪庭を覗いている。いつも老人はその部屋の障子を開けて、茶を啜りながら庭を見ているのだが、はたしてこの日もそうであった。――だが、珍しく違うのもあった。そこに床が延べられていることだ。伊三郎を認めて、にか、と笑った老人はその床の上に夜着のままの姿でちょこんと坐っていた。
「ご隠居さま。もしかして、おやすみのところをお邪魔しましたか」
部屋の手前、庭を背に板敷きの廊下に膝をついた伊三郎が言うと、老人は違う違うと首を振った。
「お祖父さまったら、こんな季節にお風邪なんか召されたのよ」と、部屋へ入り、老人の手前に坐った千夏がそう言った。
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