第一章 三
巡査が出て行くのを見送ると、扉の脇で手持無沙汰にしていた太市がいきなり伊三郎に突進してきた。三和土に立ったまま、畳に手を突き、身を乗り出す太市を背を仰け反らして避ける。
「伊サ、巡査さん、なんて言ってきたんだ」
「太市、近い。声も大きい。怒鳴らなくても聞こえる」
そう言ってから伊三郎は机を定位置に戻し、行燈も引き寄せる。
「いや。待てって。おれの質問に答えろよ。すぐ仕事すんなって」
「ああ、そうか」伊三郎は顔を上げて太市に視線を投げた。「男手がいるんだったな。わたしも行ったほうがいいのか」
「あ、いや。引き取りに行くのは大家さんとおれとあとふたりほど声をかけてたからいいと思う」
「しかしそれでは」
「明日の朝だからな。伊サ、確か大黒屋のご隠居のところへ行く日だったろう。大家さんもちゃんとそれは知っているから、野辺送りのときに手伝ってくれって――じゃなくて」
伊三郎と話しているといつも話の流れが変わる。今に始まったことではないので太市はへこたれない。
「お仙さん、どこで見つかったんだって?」
「大川って言ったかな。流れていたらしい」
伊三郎は鉄ヤスリをとって真鍮の小さな部品を削り始める。
「大川のどの辺?」
「聞かなかった」
淡々と答えるこの感情表現の乏しさにも太市は慣れていた。
「伊サ、もしかして疑われたのか?」
「そうかもしれないが。昨日はずっとここで仕事していたから」
ああ、そりゃみんなが知ってるからな、と太市は同意する。
「お仙さん、男のところだったのかな。だとすると、そいつが一番あやしいと思わないか」
「そうかもな」
生返事はあまり人の言葉を聞いてないことを意味している。
太市は手を伸ばし、ひょいと伊三郎の手の鉄ヤスリを取り上げた。伊三郎はこちらを見たが、それだけだった。
「お仙さんって綺麗なひとだったよな」
「そうだな」
「長屋の女衆はあんまり良い顔はしないけどな。おれは好きだったよ」
「太市、おまえはあまりお仙さんとは親しくなかっただろう」
「だけど、なんてぇのかな。おれもお仙さんも、お志摩婆さんに拾われたようなもんだったから。ちょっとこう、つながり? 連帯感? みたいなもんが互いにあったって言うか」
「
失せ物捜しのお志摩と呼ばれていたのは伊三郎の祖母である。伊三郎の職人としての名よりも祖母につけられた渾名のほうが有名であった。三年前、倒れる前日まで、他人の無くした物を捜し、揉め事を収めていた。お志摩さんはいるかい、と大家が訪ねてくれば大体が相談事で、伊三郎の祖母は面倒がらずに応えていたものだ。上野での戦のときに浮き足立つ長屋衆に苦笑して、「とりあえず飯でも食うかね」と周囲の毒気を抜いた。こちらまでは戦火はこないと断言した。実際に戦の火が大川を越えることはなかった。
伊三郎は手を伸ばしてきた。太市は渋々、手にしていたヤスリを返す。
「そういう話じゃなくて――なんか、伊サってホントに情緒ってもんをどっかに置いてきたみたいだな」
伊三郎は手元の仕事に没頭し始めた。こうなると、太市の話が耳に入っているのかどうかさえ分からない。聞いているにしろいないにしろ、とにかく反応が無くなるのだ。だが、太市は話し続ける。
「おれ、お仙さんが時々着てた白綸子の着物が好きだったな。褄と裾に小菊が白い糸で刺繍されてたやつ。覚えてるか、伊サ」
何でも話しかけてやっておくれ、と、かつて志摩が太市に言った。あの子はちょっと変わった子に見えるけど、照れ屋なだけだからね――伊三郎を知れば知るほどそうは思えなかったが。
「なんか、大事な人に会うのかなって思ってた。いつもよりもずっと薄い化粧だったけど一番綺麗だった気がして。凛と立って静かに歩いていくんだ――朝靄のなかで木戸を潜っていく。誰に会いに行ってたんだろうな」
「……」
「おれはその姿を見るのが好きだった。気が強くて逞しい人だったのに、そのときだけは透き通っているようで――ごめんな、伊サ。まだお仙さんの姿を見てないから実感が湧かないんだけど、おまえとふたりで弔いの言葉でも連ねたいと思っているんだ」
明日はきっとそんな時間は無いだろうから。
「――太市」
珍しく伊三郎が仕事の手を止めた。驚いて伊三郎を見れば、彼は部屋の隅にある――といっても狭い部屋だ。身体を伸ばせばすぐに手が届く――小箪笥の抽斗を引いて、掌に収まるほどの小さなものを取り出した。それは紫の袱紗に包まれている。
伊三郎の職人らしからぬ綺麗な、そして職人らしい長い指が布を取り除き、太市に中身を見せた。銀細工で、丸いが厚みはそれほどない。竜頭の対面に小さなでっぱりが出ていて、伊三郎がそれを押すとぽかりと蓋が開いた。時計の盤面が現れる。
「言ってた懐中時計か。出来たんだ」
「明日、ご隠居さまにお届けするつもりだ。その前におまえにも見て貰おうと思って。内蓋」
「手にとっていいか?」
どうぞ、という意味だろう。伊三郎はそれを渡してくる。袱紗に置かれたそれごと手にして、まじまじと内蓋の紋様を確認した。
「すいかずら、綺麗な彫りだ」
「
太市は黙った。
「いつか太市に着物の絵を描いてもらって、どこぞで染めてもらったら仕立ては自分でしようか、と。同じ意匠でわたしにこんな懐中時計を造ってもらえば、懐にいつも大事に抱いているのに、と笑ってらした」
「お仙さんだったら菊もいいけど、納戸色に秋草なんかもよく似合うだろうな。早く言ってくれたら考えたのに」
もちろんそれは冗談の域をでないことは知っている。絵ならばいくらでも描いたが、それを染める反物も染めてくれる職人もあてはない。長屋暮らしは懐事情も豊かではない。
やべ、と太市は言った。泣きそ、と。伊三郎が自分を不思議な表情で見ているのは知っている。伊三郎のほうがずっと仙とは親しかったというのに、泣くなどということは到底考えられないようだった。
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