第一章 二
思った以上に長い時間話し込んでいたようだ。暮れるか、と思っていたが、考えていたよりもずっと薄闇が周囲を包んでいる。瓦斯燈の灯る街と違い、
青梅が伊三郎の長屋を出たと同じぐらいに、細い路地を挟んだ斜め向かいの長屋から出てきた同僚を認める。
「青梅か。どうだ? 何か収穫はあったか」
「何とも言えんな」言いつつ、ふたりして長屋を抜けるべく、狭い路地を進んだ。路地にいる間はあまり迂闊なことも言えまい、と口を噤めば、後ろについてくる男も口を開かない。
少し大きい通りに出たあとは、一色丁のほうへと向かって歩いた。
「しかしやっぱり話にはならん。色々聞いてはみたが、皆、驚くばかりで昨夜のことは知らんとそればかりだ。仙という女は、夜に出歩くことが多かったようで、昨日も出かけるのを何人か知ってはいたようだが、どこへ行くかと問うた者はいなかったようだ」
足取りが掴めんとなかなか難しいな、と男は言う。
「兵藤」と青梅は言って、隣で歩く男を見下ろした。
青梅は六尺はある大男だが、兵藤は五尺と僅かしかない小男であった。青梅は顔も長く馬面で、兵藤は丸顔である。容姿は何もかも違うふたりではあったが、昔馴染みで気はあった。
といっても、兵藤は青梅から見下ろされることはあまり嬉しくないようすで、「何だ」との返答は拗ねている響きがある。いつものことなので気にせずに青梅は続けた。
「女の昨夜のことを誰も知らぬとは思わなんだ。仙と関係のあった男のことでも分かればいいんだが」
「それだが。話にちょくちょく時計職人が出てきていたが」
「ああ。伊三郎だろう。話は聞いてきたが本人もよく知らぬようだし、確かになんというか、長屋の女と懇ろになるような男ではないと思う」
「いやわからんぞ。年増だが色気のある良い女だと、長屋の亭主たちは言っていたからな。若造なんぞ、ちょいとつまんでいるんじゃないか?」
うーむ、と青梅は唸り、腰に差した三尺棒の柄を掴んで揺すった。兵藤は、こんとその手を叩く。
「癖。出てるぞ」
「ああ、すまん」
昔、二本差しであった頃、青梅には奇妙な癖があった。考え事をする際に何故か刀の柄を掴んで揺すってしまうのだ。それでよく師に叱られたものである。
「確かにちょいと奇妙なところはあるが、そんな男には見えん」
「奇妙?」聞きとがめた兵藤が首を捻って、青梅を見上げる。ついでに急ぐかと言って足を速めた。
景色はどんどん墨色に染まっていく。月が出ている間は良いが、そのうちに真っ暗になるだろう。昼が長い時期とはいえ、暮れ始めれば早い。
「普通の反応ではなく、話をしているこちらが戸惑った」
まず、話を聞きたいと言ったときに、何の話でしょうかと言ったきり、その原因になる事柄には全く言及しなかった。まるで興味がないようすで、同じ長屋の者が死んだと聞いたときは確かに驚いてはいたが、それだけであった。下町に住む者は陽気で詮索好きな者が多い。こちらが話を聞きたくとも、矢継ぎ早に質問攻めに合うのが常であったのに、そんなようすは無かったのだ。
そういうと、兵藤はふむ、と呟いた。
「それはまた不思議な男だな。何か知っているんじゃないのか」
「そうかもしれんが、そうでないような気もする。興味がない、ように思えた――少し整理してみるか」
仙という女が見つかったのは本日の午前五時、発見者は牛乳配達の少年であった。牛乳の詰まったブリキ缶を抱えて、大川沿いを歩いていた少年は川を流れる何かに気づいた。ときどき大きな塵が流れることがあったので、そういうものだろうと思い、あまりきちんと見ていなかったが、やがて違和感を感じて目を凝らした。塵の形が人間のそれと酷似していることに気づいたからだ。
引き上げた遺体には傷らしいものはほとんど無かった。ほとんどというのは、川を流れた際に出来たらしい小さな傷が少しだけ残っていたからだが、殺された際につけられたものではないというのは警察の者たちの一致した見解である。身元はすぐに判明した。偶然というべきか、発見した少年が知っていたのだ。曰く、牛乳を配達した家で見かけたことがある、と。
伊三郎にはああ言ったものの、警察のほうでは仙が通っていた男の家は分かっていた。だからこそ、すぐさま女の身元も判明したのである。だが、通っていた男の家というのは一軒では無かった。正確には相手はひとりでは無かったのである。相手の男たちもそんなことは承知の上の遊びであるらしく、大体が茶屋で逢い引きであったが、稀に女房のいない間に女を引き込む男もいた。女房気取りでいた仙を牛乳配達の少年が見ていたという話である。といっても、昨夕にはその宅の男との約束は無かった。実際に男は出かけていなかったし、男の女房は自宅にいたので招いたわけではない。他の男に会うために出たのだろう、という結論ではあった。そこで身元は割れたし、女の住む近在へ聞き込みも出来たが。
「本当に会う予定の男が分かればいいんだがな」
「その辺りは如才無い女のようだ。おれが聞き込んだ長屋の連中は誰も知らないようだった」
それは青梅も同様だった。
「相手の男が分かれば、一気に片がつきそうだが」
「念のために、茶屋で待ち惚けくらった間抜けがいないか捜すか」
兵藤がやれやれというように呟くと、青梅を見上げた。
「お前、昔使ってた連中は動かせないのか」
「馬鹿言え。巡査の給金で出来るか」
元・同心とは言え岡っ引きを使うのは金がかかる。情で動いてくれる者たちではないし、彼らにも生活があるから無料で奉仕しろとは言えない。ご一新前の江戸であれば、俸禄以外に結構な付け届けが青梅宅にもあり、それで色々とまかなっていたのだが。
「……不便になったな」
「仕方ない」青梅はきっぱりと応えた。「事情が変われば世情も変わり、世情が変われば事情も変わる。止むなしだ」
く、と兵藤が笑う。「やっぱりお前は面白いわ、青梅」
「面白がっても何も出んぞ」
「期待してない」
「――しかし、ひと突き、か」
二人は朝から女の遺体を見ている。おそらくは脇差しのようなもので正確に胸を突いた腕のほどは想像に難くない。小さい道場とは言え、青梅と兵藤は師範代まで務めていた。人の命を一撃で仕留めるのは存外難しい、しかも、そのようすから、おそらくは本人も自覚せぬような一瞬の手際であったと思っていい。女の顔は驚きに目を見開いていたが、苦悶の表情はほとんど見られなかった。
そのことからも、職人や商人を疑うという観点は青梅たちには無かった。
「だが本当に、その時計職人は知らんのか。長屋の連中は知っているならば、その男だけだろうと言っていたぞ」
「いや。奇妙なところはあるがあれは本当に何も知らんだろう」
「にしては、連中は皆、そう言っていたがな」
「あれだけ男前だと、色々と噂もあるんじゃないか」
「そんなにか」
疑わしそうに兵藤が問いかけるのへ、ふむと青梅は頷く。
「おれは玄馬以外にあんな顔の良い男にあったのは初めてだ」
「馬鹿な」兵藤はへらりと笑った。信じないぞ、と言わんばかりの顔である。「玄馬の
「忌々しいも何も」
青梅は苦笑した。憎まれ口を叩く兵藤が、二人の昔馴染みであるもうひとりの友人を亡くしたときには、男泣きに泣いていたのを忘れてはいない。もっとも、今の口調にも彼なりの情が感じられるのだが。
「お、そうだ、青梅、もう今日の仕事は終いだな。おぬし、八名川まで戻るであろう」
「とりあえず報告せねばならぬからな」
「では、あとは頼まれてくれるか。おれは直帰にしておいてくれ」
おい、と青梅は呆れたような声を出す。何度も繰り返したやりとりを再び始めることになるのだ。
「一応、おれたちは巡査だぞ。他の仕事をするのはよせ」
「巡査の給金だけではやっていけん」
「そんなはずはないだろう。うちは子どももふたりいるが、何とかやりくりしてくれている。お前のところは夫婦ふたりじゃないか。小女など雇わずに多喜どのに頼めば、十分にやっていけるはずだ」
「多喜は元々、大身の家の出だ。水仕事などさせられん」
「おぬし、いつか身体を壊すぞ」
「心配いらん。おれは丈夫だ――それに何度も言うが、おれが多喜のためにしてやりたいのだ」
家族というもののために何かしてやりたい気持ちは分かる。だが、と思って青梅は黙った。この男が如何に頑固か、それは己が一番よく知っているからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます