第一章 一

「名は伊三郎であったな」

 問いかけた青梅あおうめの言葉に、はいとその若い男は物静かに応えた。

 仕事をしていたのだろう。藍の小袖には前掛けがあり、袖が邪魔にならぬようにたすきも掛けている。

 やや夕闇に近くなっているためか、それともこの長屋が元々日が差しにくく暗いためか、行燈の明かりが机の上を照らしていた。机には細かい機械の部品と思われるものが幾つも転がっている。小さな捻子、真鍮の輪、細い針などだ。何れも時計の部品らしいと青梅は思った。

「仕事中にすまんな」

「いえ。お役目ご苦労さまです」

 目前の机を慎重なようすで脇に避け、ぱんと裾を叩いて埃を払うと、相手は丁寧に頭を下げた。

 巡邏中の巡査というのは不思議なもので、警官の制服を着ているだけなのに、相対する相手の態度が露骨に変わるものだ。人によっては表情さえ卑屈さを出すというのに、目前で正座している若者の顔には感情そのものが乗っていないかのように無表情だった。

「どのような御用でございましょうか」

「三軒隣の仙というおなごを知っているな」

「お仙さんですか。はい、もちろん――今日は見かけてはおりませんが」

「昨日は見ただろうか」

「はい。夕刻にここを訪ねてくださいまして。お裾分けにと煮豆を持ってきてくださいましたから」

「どれぐらいの時刻だったか覚えているか」

「あれは、暮れ六つを少し――いえ、たぶん、夕刻六時か七時か」

 一昨年前に明治政府はそれまでの不定時法から西洋風の定時法へと改正している。

「時計がひとつ鳴りましたので、おそらく六時半だったのではないかと思います。木戸を七時には出ないといけないので急ぐと言っていました」

「何故急ぐかは聞いたか?」

「いえ」と伊三郎は首を振った。「いつもそういうことは話しませんし、わたしも聞きませんから」

「――それからはずっとここに?」

 よくある長屋の一軒である。間口二間半の二階建ての長屋は男のひとり暮らしには少しばかり広いが、一階の六畳の間を仕事場に使っているのだとすれば、それも少しは納得いく。

「はい」

 伊三郎は簡単に答えた。余計なことは問うてこず、俯き加減に顔を伏せた。

 ふむ、と青梅は唸った。裏手に並ぶ長屋に住む者たちの監視――もとい結束は固い。誰もが寝静まった深更でも無い限り、夜に長屋を出れば、壁も薄く筒抜けの家のこと、隣近所には丸わかりになる。ましてや治安も褒められたものではない昨今、暮れれば木戸もきちんと閉まり、簡単には表に出られない。嘘はないだろう、と思った。だが、違和感がある。伊三郎の面に感情が乗っていない。他の者たちであれば、巡査にこのように問われれば好奇心と不安がない交ぜになったような表情になる。だが、伊三郎からはどんな問いかけもなかった。ただ、ちらりと脇に置いた机を見た。

「忙しいところすまんが、もう少し聞かせて貰ってよいか」

「大丈夫でございます。如何ようなことでしょうか」

「お前は仙とは仲が良かったと聞いているが」

「良いかどうかは。普通だと思います。同じ長屋に住んでいますから悪いということはありませんが特に親しいというわけでは。亡くなった祖母の最後のほうではよくして貰いましたが。お仙さんのことでしたら、ご本人に確認なされば良いのでは? 今日はまだお戻りではないようですが」

「いや、仙はもう戻れんのだ。今朝早く、大川を流れているところを発見されてな」

 え、と伊三郎の顔が上がって、ここで初めてまともに青梅を見たようだった。

「もう死んでおった」

「……何故そんなことに?」

「それが分からんので調べておる」

「そう――そうでございますね。そうですか、お仙さんが」

「脇差しのようなもので胸をひと突きされている。不意打ちであったかもしれんが、真正面からでな。懐の巾着も盗られてないし、争ったようすもその姿からはないので顔見知りによるかもしれん」

 はぁ、と気の抜けたような返答があった。

「仙と何か諍いがあった者、恨んでいるような者に心当たりはないだろうか」

 若い職人は少し考えてから、かぶりを振った。

「残念ですが、思い当たりません。お仙さんは多少癖のある方でしたが、心根はしっかりした優しい方であったと思います」

「旦那がいたようだが」

 この場合は正式な――と言っていいかどうかは不明だが――妾のことを指さない。

「そういう噂は聞いたことがありますが、わたしは存じません」

「身持ちの良いほうでは無かった、と」

「その話も聞いたことはありますが、わたしは存じません」

「だが、おぬしほどの色男であれば、そういう誘いもあったのではないか」

 青梅は自分が鬼瓦のような顔をしているという自覚がある。そのこと自体には頓着しないのだが、背筋を伸ばし端然と坐している顔立ちの良い若者を見ていると世の中はなかなかに不公平だと思うのだった。

「同じ長屋で暮らす家族同然の仲でございますから。お仙さんにとってもわたしは息子のような――弟のようなものだったと思います」

 死んだ仙は四十手前の年増である。近在の者に聞いたところでは、伊三郎はまだ三十には手が届いていない。確かに当人の言うことはもっともであろうし、同じ長屋の者にも仙は伊三郎に執心していたと聞いたときには苦笑した。年の離れた姉弟のようなものではないかと思っていた。だが、確かに伊三郎はそういう疑いを持たれるほどにはようすが良かった。

 伊三郎は少し何かを考えているかのように首を傾げていたが、ややあって溜息をつくと頭を下げた。

「申し訳ありませんが、わたしには何も思い当たるところはありません。昨夜のお仙さんのようすもいつもと何も変わりませんでした」

「そうか。仕事の邪魔をしてすまなんだ。もし何か思い出したことがあれば、警邏の者でもかまわんし、警察に行ってくれてもかまわん、頼む。それとおれは青梅だ。そなたは伊三郎で良いのだな。姓は何と申す」

「まだ考えておりません」

 伊三郎は応えた。今年の二月に平民も姓を名乗るようにと触れが出たばかりである。すぐさま名乗り始めた者もいるが、伊三郎のように定まらぬ者もそれなりにいた。

「そうか」と青梅が頷いた時であった。

 突然、「伊サ!」という景気の良い声と共に外へと続く腰高障子が開いた。「聞いたか、お仙さんが大変なことに……!」

 突然の闖入者は青梅の姿を認めたのか、ぴたりと口を閉じる。しまった、という表情は分かりやすい。

「太市。話は今、こちらの青梅様からお聞きした」

 あ、う、と太市と言われた若者は数歩後ずさる。

「ああ、逃げんでもいい。それよりも同じ長屋の者か」

「はい。伊三郎の向かいに住んでます。太市です」

 年の頃は伊三郎より僅かに若いかと思われた。顔立ちは平凡で特徴らしい特徴がない。総髪を後ろで束ねていることだけがそれと言えぬことはなのだが、まだこの時、髷を落とす者自体少なかったためにやはり特徴であると強弁は出来そうにない。

「向かいというと別の者が話を聞きに行っただろう」

 青梅はこの長屋を廻っている同僚を思った。

「おれは、さっき帰ってきたばかりなんで」

「話は誰から聞いたのだ?」

「大家さんと木戸のところで会って。お仙さんは身内がいないから、手伝いを頼まれました」

 長屋の大家が采配することは珍しいことではなく、青梅は納得する。

「そうか。では何かと忙しくなるところをすまぬな。だが、太市と言ったか、おぬしも仙について何か思うところがあれば、手数ではあるがおれのところに報せに来てはくれぬか――ご一新があってから、治安もあまり良いとは言えぬが、このような無法は放置できんからな」

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