自鳴盤屋伊三郎

序章

 伊三郎は幼い頃から寝付きが悪かった。十にも満たない子どものときから、床に入ってもなかなか寝付けず、じっと布団の中で大人しくしていることが多かったのだ。

 この日は特に目が冴えて眠れなかった。あとから思えば亥の刻は過ぎていただろうと思う。こんな時間にのこのこと起き出せば、いつも隣で寝ている母親が目敏く気づき、「厠か、伊サ」と小さく聞いてきた。子どもが首を振ると、墨色のなかで見えないはずなのに、伸ばした手で正確に伊三郎の腕を引いた。

 だが、この夜、隣に母親の姿は無かった。父親もだ。記憶は薄いが、おそらく母方の親戚のほうで法要か何かがあり、帰りは明日になると朝早く揃って出かけていたのだ。

祖母ばばさまの言うことをよく聞け。それで大丈夫だ」

 四角い顔の父親はその厳つい顔で笑うことはほとんど無かった。だから、その難しい顔も伊三郎にとっていつものもので、祖母と一緒に、いってらっしゃいと手を振った。

 あとはいつものように手習所に行き、それからは近在の子どもたちと遊んで過ごした。それもいつものことで、ただ夕餉時に膳を祖母とふたりで挟んでいるのだけが妙な感じだった。

 夜も更けてからの、早く寝な、の祖母の言葉に一度は頷いて床に入ったものの、やはり伊三郎はなかなか眠れずに起き出した。幸い祖母は父母ほど煩くない。夜中に起き出しても、怒られないことを子どもはよく分かっていた。

 床を這いだして、目の前の襖を開きに向かった。灯りがないために暗いままだったが、狭い部屋には布団以外何もないことを知っている。部屋の外はほのかな灯りが足下から差してくる。やはりと伊三郎は思った。まだ祖母は起きている。階下から漏れる灯りが証拠だった。

 伊三郎はなるべく音をたてないように階段を下りていったのだが、古い木造のそれはみしみしと音を立てる。祖母はまだ耳が遠くなかった。気づかれてしまっただろうと思っていたのに、行燈のそばで自分の掌を見つめているだけで、階段を下りてくる孫には視線を向けてこなかった。

 だが、「伊サかい」と呟く。「お祖母ばあちゃん」と伊三郎が近づくとようやく顔を向けた。伊三郎の父親はこの祖母に似たのだろう。四角く厳つい顔立ちに、吊り上がった細い目、その口は少し歪んでいて、誰が見ても醜女しこめであった。だが、伊三郎には見慣れた祖母の容貌だ。

「何、見てるの?」

「こちらにおいで」

 祖母の優しい言葉は潰れて枯れたような嗄れた声で発された。伊三郎は行燈の側へと寄って、祖母の隣にちょこんと坐った。その手元を覗き込む。祖母の掌には何か小さな丸いものが乗っているが、行燈の明かりは頼りなくしっかりと見えない。祖母は伊三郎によく見えるように、前に坐りなさいと言った。

 場所を変えて覗き込むようにすると、祖母が持っていたのは小さな機械の部品であった。

「雪輪だ。お父ちゃんの?」

 円形の真鍮には周囲に刻みが幾つも入っている。

「違うよ、これは伊助じゃない――伊平次、お前の祖父じいさんが造ったものだ」

「祖父ちゃん?」

 伊三郎は驚いた。祖母が祖父のことを言ったのは初めてだった。父も言ったことがない。――もっとも、父の場合はただ祖父のことを知らないだけなのだが。なんとなく聞いてはいけないのだと思ったし、それほど興味も無かったので黙っていた。

「これだけ、わしに残していったね、あの人は」

「……綺麗」

 伊三郎が祖母の手を覗き込んで雪輪を見つめる。その小さな――おそらくは直径一寸ほどの――雪輪の表面は、綺麗な水飛沫の毛彫りで飾られていた。

「そうかね。半端な人だったよ。自鳴磐とけい職人としては。どこの大名からもお声はかからなくてね。ま、その分、商人相手にはそれなりに商売できるものは造ってたけど。最悪なのは、わしと生まれたばかりの伊助を置いていったことかね」

 のちに伊三郎がいくら思い出しても、そのときの祖母の声に恨みめいたものは含まれていなかった。その低くてどこか聞き取りにくい声の中には、苦笑のようなものを含ませた諦観だけがあったように思う。

「お祖母ちゃん、おれ、この雪輪欲しい」

「駄目だよ。これは駄目。これは祖母ばばが死んだら、一緒に燃やしておくれ。それが一番いい」

 そうか、これは燃えてしまうのか、そう思うととても残念な気がしたが、伊三郎は祖母の言葉に逆らうなど思いも寄らなかった。祖母が駄目というならば駄目なのだとあっさり納得して、「じゃあ、よく見ていい? お祖母ちゃんが死ぬまでにちょくちょく見せてくれる?」と言うと、祖母はからっと笑った。

「本当に伊サは面白い子だ――よくご覧」

 伊三郎の手にその雪輪は移った。小さな指で掴んだそれを行燈の光に透かして見る。真鍮なのだから透けるわけがないのに、それをしてしまったのには毛彫りの紋様が本当に綺麗だったからだ。光を弾くことはあってもその紋様が光を透かすことはない。少しがっかりしたが、予想の範囲内のことだった。

 矯めつ眇めつしていると祖母の手が伊三郎の頭を撫でていた。

「それにしてもこの痣はどうしたものだろうね」祖母の声にあまり感情は乗っていない。伊三郎の襟足に掛かった髪がほんの少し掻き上げられた感触があった。

 場所が場所だけに伊三郎はその痣を直に見たことがない。後ろ首の髪の生え際には痣があるらしいのだ。祖母曰く、祖父の掌にも似たような痣があったと言う。少し歪んだ菱形の痣は、だが、目立つほど大きいものではなく、襟足を覆う髪にすっかり隠れるようなものだった。両親は男の子だから、と気にしてないようすだったし、祖母も普段は何も言わない。伊三郎も気にしなかった。だが、このとき不意に言われた祖母の言葉に、「なにか変?」と問いかけていた。

「何も変じゃないよ。伊サは本当に祖父さんに似たもんだと思ってね。伊助にも、とよにも似ていない。わしにも全く似たところがない」

 祖母は言いつつ手を向けてきた。伊三郎は持っていた自鳴磐の部品を返す。

「でもおれ、お父ちゃんとお母ちゃんの子どもだよね」

 祖母は小さなお守り袋に雪輪を仕舞いながら、びっくりしたような顔をした。祖母はいつもほとんど表情を変えない。ましてや驚く姿を見たことなど伊三郎も初めてのことで、逆に不安になった。

「どこの誰がそんな馬鹿なことを伊サに言ったんだい?」

「――おれ、うちの誰にも似てないって。みんな。今、お祖母ちゃんも」

「そりゃ、不安にさせてすまなかったね」祖母は笑った。「この辺りの若い者はお前の祖父さんを知らないからね。大黒屋の大旦那なんぞ、伊サを見るたびに祖父さんに似てきたと言ってくれてるだろう」

 うん、と伊三郎は頷いた。

「伊サはちゃんとわしの孫だ。なんも心配せんでいい」

 うん、と再び伊三郎は頷いた。何となく口元が緩んでいた。

 その伊三郎のようすに安堵したのか、祖母はそろそろ二階で休め、と言いかけたのだろう。だが、不意に畳の下から起こった微かな振動に、その言葉が発せられることは無かった。

 次の瞬間、どん、と音にならない音がして、地面が揺れた。ひ、と声を上げかけた伊三郎を祖母はしっかりと支え、そして、すぐさま闇がきた。真っ暗な中で慌てる伊三郎の身体を祖母がしっかりと抱きしめる。

 地面がぐらぐらと揺れていた。小さな地震ならばいくらか経験がある。だが、これは大きかった。何かが転がる音と、ぶつかって割れる音がする。それが何なのか見当もつかない。伊三郎はただぎゅっと祖母に抱きついていた。でなければ、自分も物と同じように転がりそうだった。抱きついた祖母は大きく暖かい。恐怖と安堵がないまぜる不思議な感じだった。

「……大きい地震だったね」

 祖母がそう言ったときには地面の揺れは収まっていた。

「さ。しゃんとおし」と祖母に言われた。行燈に灯りが点る。あとから考えれば、祖母は地面が揺れてすぐに灯火を落としたのだ。

「また多分揺れるだろうからね。伊サ、この上に何枚か着ておいで。褞袍も着るんだよ」

「どうするの、祖母ちゃん」

「本正寺さんまで行こうか。火がでるから急ぐんだよ」

「お父ちゃんとお母ちゃんもくるかな」

「そうだね」と祖母は言いながら、裏手の台所の三和土へと降りる。水屋の味噌壷の奥からさらに壷を取り出して中身を探っていた。伊三郎は行李から自分の着物をあるだけ取り出して、夜着の上へ重ね着した。

「草履をちゃんとお履き」

「――お父ちゃんたち、大丈夫だよね? いつも祖母ちゃんが何かあったら本正寺さんで会おうって言ってるもんね? 忘れてないよね?」

「大丈夫だよ」祖母は笑った。草履を履いた伊三郎のところへ来て、その手を握って言う。

「伊助もおとよもちゃんと来るよ。それより、祖母ばばの手を離すんじゃないよ」

 うん、と伊三郎は頷いて、祖母に引かれるまま、表へと出た。亥の刻も過ぎているというのに、もう方々の空は赤さがあった。――既に火は上がりはじめていたのだ。

 安政の江戸地震である。地震そのものの大きさもさることながら、それよりも江戸のあちこちを駆けた炎の勢いは凄まじかった。

 祖母と共に避難した伊三郎であったが、本所へ出かけていた父と母は、ついに戻らなかったのである。

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