菖蒲の頃

 私が十歳を超えた頃の、初夏の話だ。

 暑い日と肌寒い日が交互に続いたせいか、私は体調を崩して熱を出し、数日、寝込むことになってしまった。

 広い私室に独り。使用人たちが交代で看病に来てくれた。命じられていることとはいえ、ありがたいことだと思う。子どもの生まれにくい一族だから、嫡流の長男だから、無下にされずに済んでいるのだろう。

 母上が、この部屋に来られることはない。実の父は既に亡く、異父弟の父親に、私を見舞う理由はない。

 余計なことを考えないように眠ってしまいたいのに、熱の苦しさで寝つけず、私はただ目を閉じていた。暗闇の中で浮かぶのは、以前、楓真が風邪をひいたときの光景だ。ずっと楓真の傍についておられた母上。任地から飛んで帰ってきた、楓真の父親。

 閉じた瞼の縁が濡れる。瞳が潤むのは熱のせいだ。

 温くなった額の布を冷やし直そうと、私が重い上体を起こしかけたとき、閉め切られた障子の向こうから、声が聞こえた。

「いけません、楓真様……っ!」

「今この時間は父上も母上もいません! 見赦してください!」

 そして小さな影が障子に映る。私が瞬きをする前に、障子は片側だけ、ぎこちなく開いた。

「楓真、私のもとへ来てはいけな――」

 言いかけた私の掠れた声は、半ばで途切れた。開け放たれた障子から流れ込む涼やかな風が、部屋に停滞した生温い空気を払い、ふわりと爽やかな香りが立つ。

 私は起き上がりかけた姿勢のまま、弟――楓真を見上げた。

 楓真は両腕いっぱいに、菖蒲しょうぶの葉を抱えていた。

「兄上」

 楓真が、ぎゅっと眉根を寄せ、私の寝台に駆け寄ってくる。たらいの前に菖蒲を置いて、楓真は寝台の傍に膝をつくと、真直ぐに私を見つめた。

「兄上を見舞ってはいけないなんて、おかしいです」


「私は、兄上のことが大切で、お傍にいたいのに」


 きっぱり、はっきりと、言い切って、そしてまた、泣きそうな顔をする。

「私は風邪をひいたとき、とても心細くてたまりませんでした……伏せっているときに、独りでいてはいけないのです。でも……兄上は、お厭でしたか……? 私が来ては、ご迷惑でしたか……?」

 衣の袖を握りしめて、楓真は尋ねる。

「……楓真」

 上掛けから、私は手を伸ばしていた。楓真の頭に、そっと掌を置く。

「厭なものか……迷惑なものか……」

 楓真の袖や袴には、まだ乾いていない泥の汚れが付いていた。その小さな掌には、きっと、菖蒲の葉先で切った傷がいくつもついているだろう。病魔を祓うといわれる菖蒲を、楓真は抱えきれないほどに集めてきてくれたのだ。

「……ありがとう、楓真」

 私が微笑むと、楓真も顔を綻ばせた。私の額の布を取ると、たらいの水で冷やし直してくれる。

「私がいます、兄上」

 絞りの甘い布に、額が濡れる。端から流れた雫が、まなじりを伝う。けれど、今はそれが、ちょうど良かった。

 涼やかな菖蒲の香りの中、優しくいざなう穏やかな眠りに、私は、そっと、瞼を下ろした。

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星合残夜 ソラノリル @frosty_wing

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