血の才

 梅雨の走りの空を見ると、思い出すことがある。ひたすら修練に励んでいた、幼い頃のことだ。

 剣術の師範から初めて一本取ったのは、よわい七つのときだった。師範は二十歳で、いつも気さくな笑顔で接してくれた、親しみやすい家臣だった。私が稽古で何かひとつでも良くできたことがあると、必ず褒めてくれる。幼い私は、それが嬉しく、なお一層、修練に打ち込んだ。

「さすがは嫡流の御子息でいらっしゃる」

 齢十一の半ばを過ぎたとき、もう教えることは何もないと言われた。今の私の剣の腕は、師範である自分を超えている、と。

「天蓬の血の濃さに勝るものはありませんな」

 その言葉と、眩しそうに細められた師範の目を見たとき、私は、息が詰まるほどの寂寞を感じた。

「……では、もう、剣の稽古は……」

「私の務めは、終わりましたので」

 遮るように、師範は答えた。そこには、今までのような気さくな親しみの色は欠片もなく、明確に私を遠ざける意志が込められていた。せめて手合わせだけでもと、願いかけた唇を、私は引き結んだ。しかし師範には伝わったようで、首を横に振られた。

「一族の誰も、もう貴方様には敵いますまい」

 静かに放たれた声は、暗く、冷たい響きをしていた。

「私が師範に並べたのは、齢十八のときです。血の滲む努力をして、やっと……それを、貴方様は、その御年で、いとも簡単に成し遂げてしまわれた」


「貴方様の血の才は、私には眩しすぎて辛うございます」


 返されるきびす。離れてゆく足音を聞きながら、私は思った。

 修練に励まなかったなら、師範に勝てないままであったなら、ずっと親しんでもらえていただろうか――稚拙な考えだと、かぶりを振って打ち消す。それでもなお、胸の奥に、冷たい寂しさが墨のように滲んでいく。

 褒めてもらえるのが嬉しくて、親しみをもって接してもらえるのが嬉しくて、空いた時間はずっと、ひたすらに剣を振っていた。努力すれば努力しただけ強くなり、笑顔を向けてもらえるのが嬉しかった。

 その結果が、これか。

「……血の才……」

 血のなせる才能。

 私は俯き、剣を持つ手を握り込んだ。花冷えのする、強い風の吹きつける、晴れた日のことだった。

 それからしばらく、私は独りで修練を続けた。楓真は父親から指南を受けていて、私は彼らの木剣の音が聞こえないところまで離れ、修練場の隅で、独り、剣を振った。

 そして梅雨の走りの頃。

 今にも降り出しそうな空の下、修練場から戻った私は、縁側で木剣を握ったまま独り座る楓真を見つけた。頬を赤く膨らませ、全身から拗ねた空気を醸し出している。

「どうしたんだ? 楓真」

 声をかけると、楓真は、はっと顔を上げて私を見た。しかし再び俯いてしまう。行き場のない感情が、交互に揺れる小さな爪先に表れていた。

「楓真」

 隣に座り、促してみる。楓真は私を拒まなかった。むくれた頬はそのままに、くぐもった声で打ち明ける。

「父上の稽古は、嫌なのです」

「嫌?」

 私は小首を傾げた。楓真の父親も、皆が認める剣の腕を持つ。愛息子である楓真に、自ら稽古をつけたいと思うのは当然のことだ。

「稽古が厳しいのか?」

 そうは見えなかったが……と、私は思案する。遠目に彼らの修練風景を見たことがあるが、楓真の父親は楓真に対し、甘くはなくとも厳しすぎる様子はなかったように思う。

 楓真は首を横に振った。では何故、と、楓真を見つめて促すと、楓真は小さく口を開いた。

「……血の才」

 その言葉に、私の胸の奥が、さざなみを打った。

 一言目を口にして堰が切れたように、楓真は胸の内を話し始める。

「父上は、私を褒めてくださるときも、お叱りになるときも、私には血の才があるのだからとおっしゃいます。上手くできたときは、血の才があるのだから当然……上手くできなかったときは、血の才があるのだからできるはずだ……血の才、血の才……父上は、私の頑張りを見てくださらない。天蓬の血は、私も誇りに思っています。でも……生まれ持った才能を理由に、努力を認めてもらえないのはつらいです」

 天蓬の嫡流なのだから、これくらい、できて当然。

 天蓬の嫡流のくせに、こんなことも、できないのか。

「……楓真」

 膝の上で握り込んだ楓真のこぶしに、私は、そっと、てのひらを重ねた。楓真は唇を引き結び、肩を縮め、泣くまいと全身で堪えていた。

「手を見せてごらん」

 柔く手を握って促すと、楓真は僅かに途惑いながらも素直に頷き、私に掌を向けた。

 所々擦り剥けて、肉刺のできた手。

 私は楓真の頭を、ぽんと撫でた。

「剣術の努力は、その手に表れるという。楓真の手には、たくさん頑張った証がある」

 他の誰が認めなくても、私はお前の努力が分かるよ、楓真。

「……兄上……」

 楓真が、潤んだ瞳で、私を見上げる。私は微笑んで、言葉を続けた。

「強くなれ、楓真。私に並び立てるくらいに。そしていつか、本気の手合わせをしよう。お前と私は兄弟だ。血を分けた兄弟なら、血の才は互角。慢心も卑下もなく、努力の結果だけでぶつかり合える」

 五年という歳の差はあるけれどな、と私は軽く肩をすくめた。

 楓真は、じっと私を見上げていた。澄んだその瞳が、ふっと瞬きを打ったとき、楓真の手が、私の手を取った。

「……兄上の手は、私より、もっと……」

「そうだな。お前も、五年後には、こうなっているだろう」

 まじまじと掌を見られて、私は些かくすぐったい心地になる。

 そしてふと、思った。天蓬の血が濃いほどに強まるのは、霊力だ。剣の才は、元来、血の濃さによらない。それでも、師範は、血の才を理由にしなければ、心を保つことができなかったのだろう。血に心を縛られた一族なのだ。

 その血の誇りは、いつか傲りになるかもしれない。

「兄上」

 私の掌に目を落とし、楓真は、きゅっと唇を引き結ぶ。

「五年後、兄上は、更なる高みにいらっしゃるでしょう。でも私は、必ず追いついてみせます」

 だから、見ていてください、兄上。

 顔を上げ、私を見つめる楓真の瞳には、もう雫はなかった。ただ強く、眩しい光が灯っていた。

「ああ。お前には、私がいる」

 私には、お前がいる。

 微笑んで、頷いて。

 いつか、と私は思う。

 私を越えてゆけば良い、楓真。望まれ、愛され、いつか、お前が一族のいただきに立てば良い。

 お前にとって私が、目指すべきしるべであれるように、越えるべき壁となれるように、私も励んでいこう。


 お前のためなら、私も私の血の才を、呪わずにいられる。

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