第14話

★ 日比野蓮 十歳 秋


「まーたこんなに泥だらけにして……。蓮お嬢様も若松家の人間なのですからもっと節度を持った──」

「えへへー、ごめんなさーい」


 婆やはいつも口うるさい。若松家とかなんとか言ったって子どもなんだから外で遊んだっておかしくないじゃない。それにアタシはこの家の人間だって認められてないもん。十歳のガキンチョだってそれくらい分かるわよ。今だってお花や植え込みの手入れをしてるメイドさんが呆れたようにコッチを見てるし。だからアタシはその視線から逃れるように駆け出した。


「あ、こらお嬢様、お待ちください!」

「そんなトコにいないで深雪も来なよー」

 婆やに手を繋がれている深雪は幼稚舎でも屋敷の中でもおとなしくてイイ子ちゃんだ。体力がないこともあって服が汚れるような遊びなんて絶対しないし、はしたないからって大きな声を出すこともない。今もオロオロとしながらアタシと婆やのあいだで視線を往復させるばかり。


 まだ四歳なのにピアノ教室や習字といった習い事をさせられていてお父さんが屋敷でお偉いさんや取引相手と挨拶をする時にもお呼ばれしたりと、遊び呆けているアタシとは何もかもが正反対だ。でもちっとも羨ましくない。むしろちょっとカワイソウ。その年で自分を殺さないといけないなんてアタシには絶対無理だもん。

 そうこうしているうちに婆やは深雪を連れてどこかへ行っちゃった。きっとまた何かのレッスンだ。そうじゃなければ時間的に舌の教育も兼ねたティータイムかな。その歳からお高く止まっちゃってさぁ。ヤんなっちゃう。

「……アタシもお腹すいたなぁ」

 ちょっと体を動かしすぎたかも。気付けば周りにいたメイドさんたちの姿も見えなくなってる。太陽もぼちぼちオツトメを終えようとしてるし、たくさん走って掻いた汗が冷えちゃってなんだか肌寒い。


「へくちっ!」

 ……帰ろ。でも自分の部屋は好きじゃない。大して物が無いくせにスペースだけは有り余ってるから余計に寂しい。これなら屋根裏部屋とかメイドさんたちの休憩所のほうがいいくらい。自分の部屋で出来ることなんてせいぜい宿題と昼寝くらいだから。

 とはいえお腹が空いてちゃ寝るにも寝られないし、宿題するにも集中力が沸かない。腹が減ってはなんとやらだから台所に忍び込んで何かつまんじゃお。台所って言ってもちょっとしたレストランの調理場くらいの広さがあるから上手く目を盗めばそうそう見つからないし、冷蔵庫にさえたどり着ければコッチのもんよ。


 そんな風に計画を練っていたら窓のほうから小石をぶつけるような音がした。見ると、キジトラの猫が前足で窓をカリカリとかいてる。首輪もしてないし耳が少し欠けてるから野良かな。どこから忍び込んだろう。中に入りたそうにしてるからとりあえず入れてあげようと思って窓を開けたらアタシの腕の中に飛び込んできた。ずいぶん人に慣れた野良猫だ。毛がフワフワでお日様みたいな甘い匂いがする。ブスッとしててちょっと婆やに似てるけどカワイイ。


「ねぇアンタ、どこから来たの?」

 キジトラはアタシの質問には答えずにアクビをして毛づくろいを始めた。なんて自由なヤツ。

「もしかしてアンタもお腹減ってる?」

「にゃあん」

 “にゃあん”じゃ分かんねー。けどつまむモノがあったら食べるでしょ。


「よし、一緒に行くわよ。静かにしててね? いらんところで鳴くんじゃないわよ」

 こうして配下を加えたアタシは抜き足差し足ナントヤラで台所へ向かった。けどタイミングが悪かったみたい。そっと中を覗くとちょうどメイドさんたちが一息入れていて、バレずに冷蔵庫へ到達することは無理だと分かった。うーん、前途多難。一旦引くか、それともここでチャンスを窺うか。


 とはいえ今は静かにしてくれてるこの猫ちゃんがいつ鳴くか分かんないしなぁ。自分で連れてきといてなんだって話ではあるけどさ。仕方ない、引き返そ。

と、その時だった。メイドさんのうちの一人が「ホント、蓮お嬢様には困ったものよねぇ」と呟いたのは。よせばいいのにアタシは足を止めて聞き入ってしまった。

「そうね。この前だってご学友の男の子たちとサッカーや鬼ごっこで服を泥んこにして帰ってきたし。あのシャツ、一枚いくらするのか知ってるのかしら」

「洗濯するのは私たちなのにねぇ。ちょっとは深雪お嬢様を見習ってほしいわ」

「それだけじゃ足りないわよ。爪の垢を煎じて飲んだってバチは当たらないわ」

「汚れても気にしないのはやっぱり母親のDNAが生きてるって感じ。あの人、掃除する時でも植木の手入れをする時でもいっつもメイド服やエプロン汚してたから」

「私、蓮お嬢様の母親のことは知らないんですけどどんな人だったんです?」

「あなたはまだ若いから知らないのも無理はないわ。それにあの母親のことは知らなくていいの。卑しい人間だったから」


 ……やっぱり聞くんじゃなかった。アタシの気分は一気にブルーになって食欲も失せてしまった。なによ。アタシだって好きでこんな家に産まれてきたわけじゃないのに。

「ニャー」

 あ、もう! なんでよりによってこのタイミングで鳴くのよ! 

「何かしら今の。猫?」

「どこから入り込んだのよ」

やばい、絶対バレた。メイドさんたちがこっちに来る。話を盗み聞きしてたのが知られたらお互いに気まずいってレベルじゃ済まない。とにかくダッシュで逃げないと。猫の重みが若干ツライけどそうも言ってられないから勢いよく駆け出したアタシだったけど、その瞬間なにかにぶつかった。

 真っ白で大きなカーテンみたいに見えたそれは柔軟剤の香りがして頭上から「走ると危ないですよ蓮お嬢様」と、いつもなら口うるさく感じるのに今に限ってはやけに沁みる声が。


「婆や……」

 婆やは鼻を鳴らすような溜め息を吐いてアタシを見たあとに何食わぬ顔で台所に入っていく。背中越しにパンパンと両手を鳴らす音が聞こえた。

「はいはい。いつまでくつろいでいるんですかアナタたち。夕飯の支度を始めますよ」

「ゲッ、メイド長……」

「ゲッとはなんですかゲッとは。ほら、さっさと手と足を動かす」

「はーい……」

 若いメイドさんたちがブーブー言いながら仕事に戻っていく。一人くらいこっちに来るんじゃないかと焦ったけど、みんなすぐそこにいる婆やを避けていったからホッとした。

「まったくあの子たちは……。ちょっと目を離すとすぐにサボるんだから」

 婆やがひとりごとをこぼしながら戻ってくる。そしてアタシを見つけた途端「まだいらしたんですか」と。

「またずいぶん珍妙なお連れ様ですね。どこから連れて来たんです」

「分かんない。部屋の窓のトコにいたの」

 答えると、婆やは屈んで猫の頭を一度撫でた。


「はじめに言っておきますがウチでは飼えませんよ」

「えー……」

「当たり前です。早く逃してきてください」

「でも……」

 まごついていると婆やは問答無用といった様子でアタシから猫を取り上げてしまった。できたばかりの友達を奪われた悲しさで目と鼻の頭が熱くなってくる。

「なんでみんなアタシにばかりイジワルするの……」

「これもお嬢様のためです」

 なによそれ。意味ワカンナイ。いいもん、だったら泣いてやる。大声を出して泣けばメイドさんたちが集まってくるはず。アタシに好意的じゃないのは知ってるけど多分、みんなはこの猫を気にいるはずだ。毛並みが綺麗なのも人に慣れてるのも実はメイドさんたちがこっそり面倒を見てるからだと思う。そうやって味方につければ……なんて卑怯なことを考えていると、この屋敷にメイド以外で一人だけいる若い女の人が現れた。深雪のお母さんだ。でもアタシ、この人は苦手。体温が伝わってこないから。


「あら、婆や。イジメは感心しないわね」

「千鶴様……。いえ、決してイジメでは……」

「いいじゃない、猫の一匹や二匹くらい。その子だって遊び相手が欲しいでしょうし、ペットを通じて命の尊さを知るのも教育のひとつよ?」

「ですが蓮お嬢様に猫は……」

 おぉ、婆やが困ってる。いいぞ深雪のお母さん。苦手だと思ってたけど実はイイ人なのかも。相変わらず目は冷たいけど。


「まぁ、最終的な判断は婆やに任せるわ。私は子どもを泣かす趣味なんてないけどね」

 それだけ言って深雪のお母さんはドレスみたいなスカートの裾をブワッて咲かせながら来た道を引き返していった。

「ねぇ婆や。深雪のお母さんもああ言ってるんだし、いいでしょ?」

「ダメです」

「ええっ、なんでー?」

 絶対イケる流れだと思ったのに……。


「じゃあいいもん。婆やなんてもう知らない!」

「あ、お待ちくださいお嬢様!」

 アタシは猫を抱っこしたまま自分の部屋に向かった。途中で他のメイドさんたちと遭遇しなかったのはラッキー。ドアに耳を当ててみても足音は聞こえないし、婆やも追うのは諦めたみたい。でも走ったらまたお腹が空いてきちゃった。晩ご飯までまだ一時間以上はあるし、どうしよう。


「にゃあん?」

「アンタは自由でイイわね。アタシもアンタみたいに猫になりたかったなぁ」

 そしたら縛るものなんてないし、もっと可愛がってもらえるし、出ていきたくなったら出ていけるし。

「アタシも家出しよっかなぁ」

 行く当てなんてないけどね。それに人間の子どもは親がいないと物理的にも社会的にも生きていけないんだ。めんどくさいったらありゃしない。アタシはいつこの鳥籠から抜け出せるのかな。そんな風にドアを凝視していたら急にノックされたからビックリして猫を強く抱きしめちゃった。不満を訴える猫が身を捩る。ヤバい、ちょっとピンチかも。婆やと深雪のお母さん以外にこの猫が侵入してるのは知らないから隠さなきゃ──

「蓮お嬢様? いらっしゃいますか?」

──なんだ婆やかぁ。良かったぁ……いやいや良くない。今は婆やの顔なんて見たくないもん。


「開けますよお嬢様」

「え、ちょっ」

 コッチの意思は無視なの、と怒りたくなったけど婆やの手には紅茶とお茶菓子が乗ったお盆が。

「やはりコチラでしたかお嬢様。お腹が空いてるんでしょう? 夕飯まであと少しですからあまりたくさん食べないようにしてくださいね」

「……なんで分かったの?」

 婆やはふたつ用意したカップにお湯を注ぎながら「私がどれだけアナタのそばに居たと思ってるんです」と言った。

「ただでさえメイドたちが多く行き交う台所に蓮お嬢様が用もなく向かうとは思えませんでしたから。おおかた遊びすぎて空腹を訴えたか、お連れの方に与えるミルクでも探しに来たのでしょう」

「凄い……婆や、大当たり!」

「当たり前です。さ、お茶にしましょう。お連れの方にはこちらを」

 ホットミルクとマグロの缶詰まで。蓋を開けたら猫はアタシの腕から飛び降りてムシャムシャと食べ始めた。現金なヤツ。


「お嬢様。言っておきますがお連れの方にはそれを食べたら出ていってもらいますからね」

「えー……これ飼っていい流れじゃないの? 婆や、もしかして猫嫌い?」

「えぇ、嫌いです。蓮お嬢様が飼うことを嫌になっても私では変わってあげられないからこうして口を酸っぱくして言っているのです」

「むぅ……」

 嫌になんてなんないもん。そもそも嫌いならなんでエサとか与えてんのよ。こういうのって中途半端が一番いけないんじゃないの。

「もう名前まで考えてたのに」

「……念のため聞いておきますがどのような名前で?」

「バーニャ。なんか婆やに似てるから」

「……私、ケンカ売られてます?」


 ☆


「んぁ……?」

 ここどこ? 畳と襖と天井に見覚えはあるけどアタシの部屋とは痛み方やシミが違う。ってことは──

「ようやく起きたか。飽きもせずに他人の部屋でよく寝るヤツだな」

──やっぱり治の部屋だった。ご丁寧にタオルケットまでかけられて。

「アタシ、なんでここで寝落ちたんだっけ」

「知らん。暇だからって邪魔しにきて構ってもらえずに不貞寝したことくらいしかな」

 治はキーボードを叩くことにお熱でアタシのほうを見もしない。撫で肩とナヨっとした体はどこかの仏像みたいだった。


「ねぇ治」

「なんだ」

「アンタ、子どもの頃の夢とか見る?」

「どうした急に」

 振り向いた治の前髪はもう何ヶ月切ってないのよと言いたくなるくらい長く、深雪のお母さんが身に付けてたスカートみたいになびいた。

「なんとなく」

「……見ない。思い出したくなるような過去でもないしな」

「あー、分かる。治の子ども時代ってつまんなそーだもん」

「大きなお世話だ。それに子ども時代が退屈だったのはお前も同じじゃないのか。おおかたその頃の夢でも見てたんだろう」

「……あんまりズバズバ当てすぎる男は嫌われるわよ」

「それも大きなお世話だ」

 それからアタシはさっき見た夢のことをとりとめもなく語った。会ったのはあの一度きりだった猫ちゃんのこと、婆やのことを色々。治は相変わらず相槌のひとつも打たないけど背中を見れば聞いてるんだってちゃんと分かる。アタシは何の気なしに骨が浮いてそうな背中をツーッと指でなぞった。


「よせ、ゾワゾワする」

「じゃあもっとさせてあげる」

 身を捩って抵抗する治がおかしくってつい嗜虐心が沸いたアタシは両手でくすぐり倒してやった。で、なんかの拍子で二人して倒れ込んじゃう。そのまま治の体の上によじ登るとここがアタシの故郷みたいな安心感がある。

「ってかアンタ、今日はやけに大人しいわね。全然抵抗しないじゃない」

「そういう日もある」

 どういう日よ。なんか腑に落ちないわね。


「時に蓮」

「なによ」

「話の中に出てきた猫というのはああいうのか」

 顔だけ外に向けてる治の視線を追うと、窓の桟に行儀良く座る猫ちゃんに辿り着いた。しかもその猫ちゃんは十年以上前に見たあの子にそっくりなキジトラだったからビックリ。こちらをジーッと見つめるガラス玉みたいな瞳も面影がある。

「もしかしてあの子……なわけないか」

 猫の寿命、とりわけ野良だとあの日触れ合ったキジトラはもうこの世にはいないと考えるのが普通だ。でもこんな日に偶然会うくらいだからきっと何かのお導きなんだと思う。だからアタシはごく自然に猫ちゃんを招き入れた。いつかみたいに綺麗な毛並みで腕の中にすっぽり収まってくれたから口角が上がるのを抑えられない。


「ねぇ治。ウチってペット禁止だったっけ?」

「いや、京子さんは何も言ってなかったが……飼うのか。そこまで人に慣れてるくらいだからどこかの飼い猫だと思うんだが」

「でも名札はおろか首輪すらないわよ」

「じゃあ地域猫ってところか。僕は見たことないが」

「そりゃアンタが外に出ないからでしょ。まぁ、アタシも見たことないけど」

 そもそもこの辺りで野良猫を見ることすら稀なんだけど。

「しかしアレだな。お前、そうしてると聖母マリアに見えんこともない」

「ちょっとやめてよー。アンタからそんなこと言われたらくすぐったくてしゃーないわ」

 なんだか体がむずむずする。……変ね。目も痒くなってきた。


「おい、あんまり目ぇ掻きすぎるなよ」

「分かってるわよ。オカンか」

 とはいえ痒いものは痒い。寝過ぎて目ヤニでも付いてたかしら。そう思った瞬間、目元を掻いていたアタシの腕を治が強引に掴んできた。

「え、ちょっ、なになに」

「お前、目ぇ真っ赤だぞ」

「へ?」

 まさかと思って部屋にある鏡を見たら確かに充血していた。さっきまで違和感なんて全然なかったのに。


「蓮、お前もしかして……」

「な、なによ」

「猫アレルギーなんじゃないか」

「ま、まっさかぁ……へぶしっ!」

 鼻までムズムズしてきた。しかも一発でおさまらず二発三発と続く。う、嘘でしょ。アタシって本当に猫アレルギーなワケ? 二十三年生きてきて全然知らなかったんだけどそんなことある? でもこうやって猫ちゃんを抱っこしたのなんてそれこそ婆やに止められた日以来だ。触れてこなければアレルギーなんて分かりっこないし……。


「というわけで猫を飼うのは諦めろ」

 大人しく腕の中にいた猫ちゃんが治に取り上げられた。暴れることなく窓際に連れていかれてる最中も綺麗なガラス玉みたいな瞳をこっちに向けてくるから罪悪感が凄い。

「そっか。婆やが言ってた代わってあげられないってこういうことだったんだ……」

 直接言わなかったのはアタシがショックを受けないための配慮だったのかな。

 軽やかに飛び降りてトテトテと去っていく猫ちゃんの背中を見送りながら呟くと久しぶりに婆やに会ってみたくなった。もう七十近いはずだけど今でも元気でやってるのかしらもっとも、家出同然で屋敷を飛び出したアタシに気にする資格はないんどけどさ。

「あーあ、自由を手に入れても欲しい物って案外手に入らないモノなのね」

「なにシケたツラしてるんだ」

「うっさい、見んな」


 今はこのモヤシで我慢してやるわ。

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下宿たると崩壊 黒瀬 木綿希(ゆうき) @ikarita_kuma

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