優しい彼は幼なじみ
木曜日御膳
優しい彼
「お邪魔します」
自分の家よりも過ごしているこの部屋。右手には部屋の主から渡された合鍵、左手には晩御飯を作るために足りないものが詰まったエコバッグ。
今日は豚肉が安かったので、美味しいカレーでも作ろうかと思って、豚肉も野菜もたんまり買ってきた。
前に読んだ雑誌で良さそうなレシピも見つけていたのも思い出し、いつもよりもワクワクしながら、扉を開けて、中に入る。
扉の風圧か、ふわりと風に乗って、ホワイトムスクのルームフレグランスが香った。
「お帰り、りえちゃん。今日も来てくれて助かるよ」
私の名前「
彼は、私が3歳の時からの幼なじみで、今は同じ26歳。実家がお向かいさんで、お互い一人っ子。そのため、姉弟のような感じで、幼稚園から大学までずっと一緒に生活をしてきた。
そんな彼は現在在宅ワークの仕事をしており、いつものようにラフで着やすそうな服を着て、ダボッとしたカーディガンを羽織っている。緩いウェーブが特徴的な彼の黒髪は、切ってない分だけ伸びてきていた。
人見知りな彼に変わって、そろそろいつもの美容院を予約したほうが良いだろうか。
そんなことを思いながら、私はいつもの癖で彼の顔色を伺う。
「大丈夫? 顔色は比較的良さそうだけど」
「ああ、少し体温高いけど大丈夫だよ、ご飯の袋持つね」
私の心配にも優しく返し、彼の生白い腕が私のエコバッグを自然に奪っていく。
「重いよね?」
「大丈夫だよ、本当にいつもありがとう。りえちゃんは優しいね」
いや、優しいのは決して、私ではない。例え今日の顔色が良くても、病弱な彼。つらいだろうに、こうして気を遣ってくれるのは、彼くらいではないのだろうか。
部屋に入れば、生活感のない家具の少なさ。彼の仕事用に使っているパソコンとディスプレイが美しく無駄なくレイアウトされていた。彼は冷蔵庫に、エコバッグの中に入っていた食材を入れていく。その間に、私はいつも使うエプロンを、洗濯バサミから取り外し、身に着けた。
(今日は仕事、進められたかな……ん、あれ)
彼の机には、いくつかの調剤薬局の袋があり、吸引器も置かれている。
(もしかして)
私は冷蔵庫に物をまだ入れている彼に近づき、耳を凝らして彼の呼吸音を聞く。
ひゅーっ ひゅーっ
僅かながら聞こえた音は、彼の不調を訴える音だった。
「まって、呼吸苦しいんじゃない?」
「え、いや、今日は、そ、ぅでもないよ」
「ヒューヒューしてる、もう何年の付き合いだと思ってるのよ。つらいの我慢しなくていいから。横になってて、食べやすいご飯作るから」
彼は申し訳無さそうに眉をハの字にし、私の両手を手に取り、きゅっと握りしめる。昔から彼は私に甘える時にする癖だ。
「ありがとう、少し休むね、理恵ちゃんのご飯楽しみにしてるね」
少しばかり熱く感じる手、そんな彼の癖に何時まで経っても慣れない私の鼓動。熱くなる頬は空調のせいにして、私はその手を握り返す。
「うん、待ってて、美味しいものを作るから」
布団に向かう彼を見送り、私はキッチンに立つ。調理器具や食器は私が揃えたものだ。
溶いた卵と人参、大根、長ねぎを柔らかく煮たおじや。豚肉はあたたかくて優しい味付けの塩肉じゃが。本当は彼の好物であるカレーを作りたかったが、香辛料は彼の腫れている気管支には毒だ。
「少しはよくなるといいな」
布団で寝ている彼を思いながら、私は食卓の準備を進める。
ただでさえ、東京の空気は地元に比べてよくはない。気管支喘息持ちで、幼い頃何度も悪化して入院した彼にとっては、地獄のような場所だろう。
上京した私を追ってきたような彼を、放って置くことはできなかった。
「わあ、美味しそう! いただきます!」
今日もまた嬉しそうにご飯を頬張る彼は、昔と変わらない笑顔で私も嬉しくなる。
「美味しい!」
「よかった」
彼のために覚えた料理。最初は失敗ばかりだったけど、よく我が家に食べに来ていた彼を喜ばせたくて、昔は弁当も作ったものだ。
彼は美味しいものは美味しいと伝えてくれるし、不味くても食べきってくれる優しい人。その優しさに、私の心はついつい癒やされてしまう。
「りえちゃん、食器洗うね」
食べ終わった皿を運び、食器を洗うのは彼の役目。それくらいはしたいと、彼の希望だった。といっても、食洗機に入れるだけだけど。
部屋にある椅子に座ったまま、私はいつものように仕事の愚痴をぽろりぽろりと口からこぼす。
「ねえ、私、今日また上司に怒られちゃったんだ。新人教育ちゃんとしてるのかって」
「りえちゃん、がんばってるの僕は知ってるよ、よしよししてもいい?」
「うん」
彼の腕が後ろから回されて、背中に熱いくらいの体温を感じ、パウダリーなホワイトムスクが強く香ってくる。彼も私も大好きな香りだ。私の頭を彼は優しく撫でる。思えば、昔から彼はこうして、私を慰めてくれる。中学生の時、初めてクラスメイトたちから仲間外れにされたことがあった。その時も悲しくて泣いている私を、彼がこうして慰めてくれた。
(彼より私に優しい人なんていない、この時間が続けばいいのに)
大好きだ、誰よりも。この膨れあがって何度も爆発した気持ち。いつだって私を踊らせてしまう。
今も、ほら、また。
パーン
膨れた心が弾けた。
「私、好きなんだよ、ずっと」
暫しの静寂が流れる。
「うん」
やっと返ってきた彼の声は、いつものように優しいのに、どこか固い。
「こんなに優しくするなら、付き合ってよ」
「ごめん」
ああ、私は馬鹿だから、もう幾度目の間違いを起こしてしまう。もう耳がタコに成る程、彼は聞いただろう私の告白に、毎回苦しそうなのだから。
破裂して破れた心は、痛みと共に中に溜まっていた涙を流し続ける。
「私、気にしないよ。二人で暮らせればいいんだよ、それに……」
「りえちゃん」
悲しそうな彼の声が響く。わかっている、何度だって彼は私の気持ちに答えてくれることはない。
「僕の夢は、りえちゃんの子供を抱っこすることなんだ」
震える彼の声。私を抱きしめる腕はさらに力を増す。
聞きたくない、何度だって聞いた彼の夢と。
「でも、僕じゃ、その夢を叶えることができないんだ」
彼の諦めの言葉を。それは、ただでさえ、病弱な彼から
「そんな理由、納得出来ないよ」
「りえちゃんのママも、パパも、孫を楽しみにしてるの僕は知ってるんだ。うちの両親もね、りえちゃんのこと大好きだから」
「ずるいよ、そうやって、いつも」
「ずるくて、ごめんね。でも、僕もりえちゃん大好きだから」
そうやって、私を抱きしめる彼の腕に込められた力の苦しさに、呼吸も忘れそうだ。フラれた数を数えるのをやめた私、それでもこんなに痛くて、涙は流れていく。諦めたいのに、諦めさせてくれない。
私は彼の腕をゆっくりと外すと、椅子から立ち上がった。そして、椅子の後ろにいた彼の方へと振り返る。
「じゃあ、なんで……追ってきたの」
大学の卒業式後にした30回目の告白も敗れた私。それを最後の告白にしようと思っていた私は、彼に黙って東京に上京した。彼への気持ちが時の中で砂のようにさらさらと消えていけばいい。
この気持ちを断ち切るにはそれしかないと、忙しい都会のジャングルに身を投げたのだ。忙しい中、さっさと風化してしまえ。考える暇もないような毎日は、私にとっては有り難かった。
けれど、彼は一年越しに東京へとやってきた。
「りえちゃん」
相変わらず優しい声をした彼は私に会った途端、ぎゅっと両手を握ってきた。あの時の彼はなんと言っただろうか。
今現在、向き合っている彼は苦しそうな顔で、あの時と同じように私の両手をとって、ぎゅっと握る。
あの時の彼と、今の彼が重なる。
「りえちゃんが、いない生活は」
ああ、この彼の手を振りほどけたら、どんなに楽なのだろうか。
「寂しいから」
まるで捨てられた子犬のように、私を見てくる彼。ここで、彼への恋心を捨てられたらいいのに。
何度も願っているのに、私のやぶれた心はこの生活に縋り付く。
私も寂しかった。彼がいない生活は、すごく寂しい。
「りえちゃん、ごめんね。けど、僕はりえちゃんの幸せを願っているよ」
少しばかり苦しそうに笑う彼。
彼の寂しさを埋められるのは私だけなのだ。
それだけのために、私はまた優しい彼と離れられない。
優しい彼は幼なじみ 木曜日御膳 @narehatedeath888
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