螺旋図書館

鐘古こよみ

【三題噺】「運命」「トマト」「図書館」


 いつからこの図書館で働いているのか、覚えていない。


 二本の通路がとぐろを緩ませた蛇のように、揃って螺旋状の弧を描く。

 古代ギリシア神殿の列柱を思わせる細長い本棚たちが、その螺旋を繋いでいる。

 本棚の中央部には、半分まで水の満たされたガラス球があった。

 水面を見れば、それと垂直の下方向に重力が働いているとわかる。

 

 この螺旋図書館がどういう仕組みで浮遊しているのかは、私の知識が及ぶところではない。水面がゆっくりと傾きを深め、ある時反転し、今は天井と思っている上側の通路が、足の下に来る日もある。

 

 私たちは注文を受け、本棚に並ぶ書物をせっせと複製し、時には修復する。

 螺旋図書館とよく似た形の運搬機が空の本棚を運んでくるから、そこに複製した本を詰め込んで送り出すのだ。それがどこへ送られていくのかは、実のところよく知らない。

 確かなのは、私たちは決められた運命に従って、必要な仕事をこなしているということ。


 本棚に山と詰め込まれた書物の内容は、その全てが手順書レシピだ。

 この広い宇宙に、こうした螺旋図書館は無数に存在すると聞く。

 それぞれの図書館には、高い専門性が求められている。


 我が図書館が誇りを持って収める手順書レシピの全ては、一つの野菜に関するものだった。

 即ち、トマト。

 あの赤くて丸くて酸味のある、紅玉髄のごとき果菜だ。


 一口にトマトと言っても、その種類は千差万別。

 私はこの図書館で生まれ育ったから、他のトマトのことは噂で聞く程度だが、大きさが違うもの、形や色が違うもの、甘みが強いものなど、様々な個性あるらしい。

 

 我らがトマトの個性は、館長によれば、「皮が分厚い」「酸味が強い」。

 これは、さほど人気の出ない条件なのだそうだ。


「人気が出た方がいいんですか?」

 質問したことがある。館長は穏やかに微笑んで、首を横に振った。


「いや。我々には我々の果たすべき使命がある」

 それに……と、館長はつぶやくように付け足した。


「運命のバケモノは、突然やってくると聞くしね」


 館長の言う通りだった。それは、突然やってきた。


 ある日、いつものように運搬機を受け入れようとして、様子がおかしいことに気付いた。

 いつもは空の本棚が、今回は半分ほど、最初から埋まっていたのである。

 受け入れに集まっていた職員のうち、経験豊富な先輩が叫ぶ。


「まずい、退避しろ!!」


 その言葉が終わるより早く。

 運搬機の陰から突然、素早い動きで何かが飛び出してきた。

 あ! と叫んで私は転倒し、尻もちをついたまま頭上を仰いだ。


 それは、恐ろしく鋭い大顎を持つバケモノだった。


 姿を捉えることができたのは一瞬だけだ。

 そいつは目にもとまらぬ速さで空中を跋扈し始め、あろうことか、螺旋図書館の一部を破壊した。

 私は悲鳴を上げた。誰かが引きずってその場から離れさせてくれた。


 バラバラと零れ落ちる本たちが、きらめく鱗のように虚空へ散っていく。

 

 気付いた時には、大顎のバケモノは姿を消していた。


 破壊された図書館の一部に、様子のおかしい運搬機が近づく。

 不思議なことに、その運搬機の長さや形は、破壊の跡とぴったり一致した。

 失われた本は、運搬機に搭載された本が補う形となっていた。


 何事もなかったかのように、いつしか図書館は、元の静けさを取り戻している。


 ガラス球の水面が傾きを深め、私たちはふわふわと空中を漂って、それまで天井となっていた通路を足の下に収めた。

 誰もが無言のまま、引き寄せられるように、図書館の一部となった新たな本棚へ向かう。


 最初の一冊を手に取ったのは、館長だった。


 彼は無言のまま紙面に目を通し、続けて別の本を手に取った。

 別の本も。続けて別の本も。

 やがて目頭を押さえ、おもむろに顔を上げる。

 そして居並ぶ職員達に、感情を隠せない声で、こう告げた。


「皮を薄く、実を甘くする手順書レシピだ……!」


 一拍置いて、職員達の間からも、おおっとどよめきが上がった。

 一人、二人と駆け寄り、本棚に手を伸ばす。新しくもたらされた知識と情報を貪るように読み、さっそく複製しなくては! と駆け出す。

 図書館はにわかに元の、いや、元以上の活気を取り戻した。


 呆然としているのは私だけだ。

 他の職員に本を渡し、微笑んで様子を見守る館長に近づく。


「あの、今のって、何なんですか? 変なバケモノが来て、図書館が破壊されたのに、どうしてみんな喜んでるんですか? 今まで一生懸命守ってきた本が、なくなっちゃったのに!」


 館長は私を見て、すぐに視線を、さらに遠くへと移した。


「君は、ナイル川を知っているかね?」

「えぇ? エジプトにある、あの……?」

「そう。エジプトはナイルの賜物って、聞いたことがあるだろう。古代エジプトではナイル川が定期的に氾濫を起こし、周辺の土地は洪水被害に遭っていた。

 それは災害だが、実のところ、その洪水のお陰で常に土壌が改良され、よく作物の実る肥沃な土地が約束されていたんだ。一見災害にしか思えないものが、改良をもたらす場合もある。さっきのバケモノもそうだ」


 私はハッとし、感心した。そうだったのか。

 トマトたちはこうして、悠久の流れの中で、様々な個性を獲得していったのか。


 私たちが今までに複製し、送り出した手順書レシピたちは、今までの私たちが守ってきた図書館を、もっと遠い場所で継承してくれているはずだ。

 私たちはその役目を終え、今度はもっと新しい存在として、一歩を踏み出す時が来たのだ。


 感動と興奮に高鳴る胸に手を当て、私は館長にそっと尋ねた。

「あのバケモノ、名前はあるのですか?」

「もちろん、あるとも。あれの名は……」



     *



「先輩、先輩。起きてくださいよ!」


 背中をどつかれ、私はガバと跳ね起きた。

 白い天井。試薬品の独特な臭いが鼻を衝く。

 上から顔を覗き込んできたのは、今年から博士課程を歩み始めた後輩だ。院生の時から同じ研究室で顔を突き合わせているため、遠慮がない。困った顔で自分の唇の脇をトントン指さす仕草から察するに、涎が出ているのだろう。

 白衣の袖で大雑把に口元を拭い、私は時計を見た。夜の九時。


「わ、もうこんな時間?」

「片付けて帰りましょうよ。細胞が増えるの泊まり込んで待ってても、仕方ないでしょう?」


 目の前の机には、寝落ちの直前に作った実験用の寒天培地が並んでいた。

 トマトの遺伝子組み換え実験。それが今、私がメインで行っている研究だ。

 

 数年前にノーベル化学賞を受賞したゲノム編集技術は、この分野に飛躍的な革新をもたらした。簡単に言えば、DNAの好きな部分をカット&ペーストして、自分の思い通りの塩基配列に変えることができるようになったのだ。


 その名も<クリスパー・キャス9>。


 誰かにこの名を伝えなければいけなかった気がして、私はふと首を傾げる。


「もー、先輩、何やってるんですか。シャーレ早くくださいってば」


 温湿度管理された培養棚にテキパキとシャーレを運ぶ後輩。私も慌ててそれに加わり、何か夢を見ていたなと思い出す。


 なぜか、手に持ったシャーレの中に親しみを感じた。

 トマトの細胞に親しみ? 変だ。やっぱりちょっと、疲れているな。

 でも、どうしても言いたくなって、私は後輩に聞こえないよう、そっとつぶやく。


「頑張ってね。前よりもっと美味しいトマトになろうね」


 寒天の上で黙々と運命に従うトマトの細胞が、変に愛おしかった。



<了>

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