第六話 仕事が終わって

 部屋に戻ったとき、時刻はすでに二時を過ぎていた。閉店後にひとりで音楽を楽しみすぎたツケだ。

 せっかく早く閉店したのに、いつもより遅い帰宅になってしまった。


 おれはCDをオーディオコンポに入れ、プレイボタンを押す。

 今取り出したのは『チェット・ベイカー・シングス』というアルバムだ。中性的な声が魅力の、けだるく都会的な歌声が部屋に流れる。


 シャワーを浴びて出てくると、そのタイミングでスマートフォンからメールの着信音が響いた。

「やっときたか」

 こんな時間に送ってくるのは、ひとりだけだ。日本が深夜で、おれが寝たあとかもしれないという気遣いなどしない。


「まあ、それも無理はないな」

 伝えたい気持ちが生まれたら、時刻なんて関係ない。

 日本と違い、向こうはまだ夕刻だ。時差の壁を越えるために、メールで連絡を取ることを選んだのはおれたち自身だから、文句を言う筋合いではない。

 それよりも、普段は無頓着なくせに、今日という日に送ってきたことが驚きだ。


 ソファーに座りやっと届いたメールを開くと、絵文字や顔文字の一切ないシンプルな文字が表示された。

 女子力などという流行りの言葉は、彼女には縁がない。


 ――今朝、バレンタインのプレゼント届いたよ。ありがとう。


 距離を計算して早めに送ったが、まさか当日に届くとは思わなかった。


 ――最近は日本でも、男性からプレゼントを贈る人が増えたんだってね。


「そうだよ。少しは本来の意味に近づいたかな」

 おれはメールを読みながら、玲子からもらったウイスキーボンボンを口に入れる。


 ――ところでこの前の話だけど、次に会ったときに返事をするって言ったよね。実は来週の水曜日、仕事で日本に帰ることになったんだ。

 だからゆずるのところに行って、直接返事をするからね。逃げないでよ。


「なんだって? 来週の水曜日って……そんな急じゃないか」

 口の中で、チョコレートの甘さとほろ苦い洋酒の味が広がった。


 毎年一度、年末年始だけをともにすごすおれたちだから、返事をもらうのは一年先のことだと思っていた。

 長すぎる猶予期間が悩みの種でもあり、気持ちを見つめ直す余裕でもあった。


 だが、あの時点で一時帰国の話は決まっていたのだろう。それを教えもしないで「次に直接会ったときに返事をするね」などと返事をしたに違いない。


 突然すぎる話に、おれの動悸が激しくなる。

 いつものサプライズだと自分に言い聞かせるが、どうにも落ち着かない。

 大事なことほどギリギリになって告げてくる彼女の悪戯心には、いいかげん慣れたつもりだった。だがまだまだ彼女のほうが、一枚も二枚も上手だ。


「本当にきみらしいやり方だよ」

 おれは苦笑しながら、返事を打つ。


 ――こっちは日付が変わったけれど、そっちはまだ十四日だろ。ハッピー・バレンタイン。会えるのを楽しみにしている。それから、いい返事が聞けることを期待しているよ。


 送信したらすぐに返事が届いた。

 一言『フフフ』と意味ありげに笑う顔文字が表示される。ギリギリまで本心は悟られたくないようだ。


 スピーカーから『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』が流れてきた。

 女性が男性に向けて歌っている曲だが、男女を入れ替えても気持ちは同じだ。


 ――マイ・ファニー・ヴァレンタイン。きみは本当に愉快で不思議な女性だよ。


 一日待ち続けたメールが、おれの平穏を奪う。

 オーバー・ザ・レインボウの曲を聴いたときとはちがう昂奮が、しばらくおれを支配するだろう。

 その果てにあるものは天国か、はたまた地獄か。少年のようでコケティッシュな笑顔が、おれの心を惑わせる。


「今夜は眠れそうにないな」

 おれはソファーに体をあずけ、部屋を満たすけだるい歌声に耳を傾けた。

 遠く離れた地に住む「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を思いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ライブ喫茶ジャスティのバレンタインデー 須賀マサキ @ryokuma00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説