第五話 閉店です

「そろそろ終電だから、あたし帰りますね」

 沙樹ちゃんがテーブルを立つと、だれからともなく「駅まで送っていくよ」という声が出た。

 あの三人になら、安心して沙樹ちゃんを任せられる。ああ見えてもオーバー・ザ・レインボウのメンバーはみんな紳士だ。


「マスター、おやすみなさい」

「また明日」

「今日もごちそうさまでしたっ」

 それぞれにおれも挨拶をし、扉まで見送る。

「おやすみ。気をつけて帰るんだよ」


 ふりむいて店内を見渡すと、仁がカウンターの上を片づけているのが目に入った。そうか、哲哉たちが最後の客だったのか。

 閉店までまだ時間があるが、今夜はもう店じまいにしよう。


「お疲れさま。今日は少し早いけど、これで閉めるよ。掃き掃除だけ頼むな」

「わかりました」

 仁はスタッフルームから箒と塵取りを取り出し、元気に掃除を始めた。


 おれはカウンターの中で大きく背伸びをして、店の外に出た。

 空気が凛と冷えて、背筋が引き締まる。店内にいると気がつかなかったが、今夜はとくに冷え込んでいる。


 夜空を見上げると、きれいに輝く星がいくつも目についた。残念なことにおれは、星の名前も星座もよく解らない。

 調理専門学校にいたときの仲間にひとり、星座に詳しい子がいた。彼女に教えられてやっと見つけられるようになったのが、オリオン座とカシオペア座だ。それ以外はいくら教えられても解らなかった。


 彼女も今ごろ、夜空を見上げているだろうか。

「いや、それはないか」

 日本が真夜中なら、彼女のいる場所はまだ夕方だ。


 時計の針がさす時刻が異なる場所に住んでいる相手とは、同じ夜空を見上げることもできない。

 おれはふと思いたち、ポケットの中からスマートフォンを取り出した。この時刻になっても、メールもメッセージもなければ、着信履歴も残っていない。


 開店時と同様にブラックボードの前で軽く柏手を打ち、心の中で「今日もおかげさまでいい一日でした」と礼をつげた。

 ボードをたたんで店の中に入ると、入り口にかけた札を「CLOSED」にする。そして鍵をかけ、店内のカーテンとブラインドを閉めた。


 仁の掃き掃除も終わったようだ。

「お疲れさま。シチューの残りをタッパーに入れておいたから、持ってお帰り」

「マスター、いつも助かります。じゃあ、お先に失礼します。おやすみなさい」

 出勤したときと同様に、元気いっぱいで仁は通用口から店を出た。


 仁も帰宅したら、バンドのために曲作りをするだろう。毎日少しずつ出来上がる曲は、まだまだプロの影響が強い。

 だがおれはそれを注意するつもりはない。

 何事も最初は模倣から始まる。そんなことは気にせずに、がむしゃらに作っていると、ある数を超えたところで、個性的なものが生まれる瞬間が訪れる。


 仁がこれまで聴いてきた音楽が、彼の中で新しい命となって誕生するのはいつだろう。才能が花開く日が楽しみだ。


 若いミュージシャンの成長を見ていると、おれはレコード会社で働いていたころを思い出す。

 新しい才能を探して多くのライブハウスをまわっていた時代が懐かしい。

 気持ちが十五年ほど昔に戻ったとたん、当時繰り返し聴いていたレコードが聴きたくなった。


 あのころのおれは、仕事で嫌になるほどロックばかり聴いていた。

 好きなロックでも、発展途上のものを大量に聴かされていては、それ以上聴けない日がだんだんと増えてくる。その影響でプライベートではほかのジャンルを求め、やがてジャズに落ち着いた。


 ラックから古いレコードを取り出し、ターンテーブルに乗せる。

 マイ・ファニー・ヴァレンタイン。哲哉がピアノで弾いた曲を、女性ボーカルで聴きたくなった。

 アニタ・オデイも好きだが、今夜はスカウトマン時代によく聴いたエラの歌声にしよう。


 レコードにそっと針を落とすと、溝に刻まれた音楽がスピーカーから響く。

 プチプチというわずかな雑音が心地よい。デジタル処理をされたCDのクリアな音もいいが、微妙なノイズが気持ちいいのはなぜだろう。


 古い曲は歴史を感じさせてくれる。

 ノイズまでもが愛おしく感じられるのは、誕生した時代を運んでくるタイムマシーンの役割を担っているからか。


 おれは軽く目を閉じて、日本中のライブハウスを駆け巡っていたころを思い返した。

 大好きだった音楽が、ただの商品になっていく。心から楽しむことができなくなったのを機に、あの業界から遠ざかることを決めた。


 それでも音楽からは離れられない。


 ひとりのリスナーとして音楽を楽しみたくて、ライブ喫茶を作った。

 聴く側に立つことで、損得勘定抜きで音楽に触れていたころに戻るつもりだった。そして実際に戻っていたのだ。


 それなのに今また、新人を探していたころと同じ興奮を覚えている。音楽が商品になってもいい。彼らの曲を、ひとりでも多くの人たちに聴いてもらいたい。


 結局おれはいつまでも、作る側、届ける側の人間でいたかったのだろうか。


 いや、違う。才能あるミュージシャンが、おれの中にある情熱に火をつけたのだ。

 勢いのあるものは、望むと望まざるとにかかわらず、周りを巻き込んでいく。


 それこそが、人を惹きつける魅力と呼ばれるものだ。

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