第四話 マイ・ファニー・ヴァレンタイン

 哲哉のピアノが終わり、店内の音楽がなくなった。

 おれはまた有線でジャズ専用チャネルを選ぶ。今日はなぜか女性ボーカルが恋しい。


「マスター、今流れているのはアニタ・オデイ?」

 ピアノを弾き終えて私服に着替えた哲哉が、カウンター席に座るなり訊いてきた。

「そうだよ。よく解ったな」

「マスターがしょっちゅう流してるから、解るようになったんだぜ。彼女も『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を歌っていたよね」

「ああ。今日はバレンタインデーだから、そのうち有線でも流れるんじゃないかな」


 おれは哲哉にレモンティーを出す。

 ピアノを演奏した後なので、レモンに含まれるクエン酸で少しでも疲労を回復してもらいたかった。


「すみません、お会計お願いします」

 沙樹ちゃんたちのグループが帰り支度をしている。


 おれは急に心配になってきた。

 今日の飲み会は、男子学生と沙樹ちゃんをカップルにしようという目的でひらかれたように思えて仕方がない。

 彼女にその気があるのなら口出しする気はないが、どう見てもその気配はない。


「あっ、西田にしださん。来てたんだ」

 ふたりは高校時代にクラスメートだったので、哲哉は今でも沙樹ちゃんを名字で呼ぶ。沙樹ちゃんも同じように哲哉を「得能とくのうくん」と呼んでいる。


「今日の演奏も素敵だったよ。あれで終わりなんて残念。あたし、もっと聴きたかったな」

「西田さんが聴きたいっていうなら、もう一度演奏してもいいんだぜ」

「ほんと?」

 沙樹ちゃんの表情が明るくなった。


 話し込んでいるふたりに「沙樹、行くよ」と女子学生が声をかけた。

 沙樹ちゃんは一度歩きかけたが、ふと歩みを止める。軽く握ったこぶしを口に当てて何かを考えていたが、吹っ切れたように口元に笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。


「先輩、あたし今夜はここで失礼します。得能くんのピアノがもっと聴きたいから」

 沙樹ちゃんが断ると、例の男子学生が急に肩を落とした。

 まじめそうで悪い子ではないと思うが、人の気持ちはコントロールできるものではない。心配なのは、彼よりも周りの人物だ。


 男子学生の気持ちを重視するあまり、沙樹ちゃんの気持ちまで気が回っていないようだ。お節介かもしれないが、今後もそれとなく見守ろう。


 先輩たちを見送り、店に残った沙樹ちゃんは哲哉の隣に座った。

 ふと店内を見回すと、半分ほどが空席になっている。今日はいつもより早い店じまいになりそうだ。


「西田さん、一緒に行かなくてよかったのか? あれ、先輩だろ?」

 哲哉は肘を立て、手の甲に頬を乗せる。

「いいの。マスターからカクテルの話を聞かされて、今日はこのままサヨナラしたほうがいいって解ったんだ。

 実を言うとね、三次会を断る口実をずっと探してたの。得能くんがいてくれたおかげで助かったよ」


「西田さんもいろいろ大変だな。人間関係が面倒だってんなら、いつでもやめてロック研に入りなよ」

「ありがと。でも大丈夫。前も話したけど、あたし、番組作りが楽しくて仕方がないの。今のサークルでもっと勉強したいんだ。

 第一、楽器の弾けないあたしがロック研に入って、何をするのよ」

「たしかにそうだ」

 哲哉が失笑すると、沙樹ちゃんも笑顔を見せた。


 そのとき有線から、アニタ・オデイの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』が流れてきた。

「この曲の『ヴァレンタイン』って、人の名前かと思ったら『恋人、特別な人』って意味もあるんだって」

「へえ、知らなかったよ。西田さん、物知りだな」

 哲哉が感心すると、沙樹ちゃんは目を細めて口元に笑みを浮かべた。


「この前放送研で作った番組で、この曲を使うことになったの。聴くだけじゃもったいないと思って、ネットで曲の意味を調べたらそう書いてたのよ」

 沙樹ちゃんはさすが英文科だけのことはある。そして勉強熱心だ。音楽一つでも探求心を刺激するのだろう。


「そうだ、マスター。ココアお願いします」

「了解。沙樹ちゃんと言えば、やはりココアだな」

「だってマスターの入れるココア、おいしいんですもの。あたしがいくら頑張っても、あの味は出ないから」

 うれしいことを言ってくれる少女だ。今夜はサービスして、大きなマグカップで出そう。


「そうだ、得能くん、受け取ってくれる?」

 沙樹ちゃんは紙袋から、かわいいラッピングをした透明な袋を取り出した。

「チョコレートはファンにたくさんもらってるでしょ。あたしからはチョコレートクッキーをどうぞ」

「サンキュー。紅茶にはクッキーがあうからな」

 哲哉は早速包みを開け、一口かじって笑顔になる。


「マスターにも。いつもお世話になってます。さっきカクテルのことでも、助けてくれてありがとうございます」

「いやいや、こちらこそ厳しいことを言ってごめんな」


「先輩たちったら、一次会でもお酒を飲ませようとしたんですよ。二十歳前でお酒は飲めないからって断ったのに、しつこくて。

 二次会で、ノンアルコールだっていってカクテル出されても、口当たりがよかったら気がつかないかもしれないでしょ。だから先手を打って、みんなを引っ張ってきたんです。ここならこの時間でも喫茶メニューがあるし、マスターは絶対、年齢確認しないとお酒を出さないでしょ。

 でもまさか、こっそりカクテルを注文してたなんて。やることが姑息だと思いません?」

 沙樹ちゃんは少し顔を歪め、ココアの入ったカップを勢いよくおく。


「なんだよそれ。たちが悪いぜ」

 哲哉は頬杖をつきながら、わずかに口元をゆがめた。

 バータイムでも喫茶メニューを残しておいて正解だった。未成年の学生も多い店だ。これからもずっとこの方針を貫こう。


「ところでワタルさんたちは、今日もくるかな?」

「ワタルと弘樹ひろきなら、顔を出すと思うぜ。バイトのある日はいつも夕飯食いにきてるし」

「武彦はこないだろうな。夕方、玲子がバイトを終えるのを迎えにきてたから」

 おれは武彦と玲子が一緒に出かけたことを話した。

「ほう。じゃあ今ごろはデートか。うちのバンドで彼女がいるのは、武彦だけだもんな」


 みんな好青年なのに、なぜか女子に縁がない。モテないわけではないが、つきあい始めても、音楽を優先しすぎて別れを告げられている。

 好きなことに夢中になりすぎると、恋人を二の次にしてしまうのだろう。音楽も含めて好きになってくれるような相手でないと、長続きするのは難しい。

おれも昔はそんな失敗を繰り返してきた。


「直貴さんは?」

「昼に女子三人組ときてたからね。あのようすだと、今ごろはオリジナル曲を必死で作っているよ」

 エアバンドのマネージメントも大変だろう。彼女たちは楽器が弾けないから、ライブでは裏で音楽を演奏する人物が必要になる。そんな役目を押しつけられた直貴の女難は、しばらく続くにちがいない。

 直貴も大変だな、と哲哉が苦笑していると、店の扉が開いた。


「マスター、こんばんは。腹が減って死にそうだよ。何か食わせて」

 リーダーでギタリストのワタルが、ふらつきながら登場した。うしろにいるのはドラマーの弘樹だ。バイト帰りに一緒になったのだろう。


 人数が増えてきたので、哲哉たちはカウンターからテーブルに移動した。

おれはワタルと弘樹がアルバイトの日は、夕飯をキープしている。

 今夜のメニューはビーフシチューだ。軽くトーストしたライ麦パンと、野菜サラダを添える。

 料理をテーブルに運ぶと、ワタルと弘樹は待ってましたと言わんがばかりに食べ始めた。男子は食欲旺盛だ。しっかり食べて体力をつけ、ライブでは元気にステージを駆けまわってもらいたい。


 放送研の部員といるときと比べ、沙樹ちゃんは遥かにリラックスしている。やはりこの子は、オーバー・ザ・レインボウと一緒にいる方が輝く。

 将来、この中のだれかとゴールインしてくれるといいなと考えて、おれはまた彼らの父親にでもなったような錯覚を起こし、照れ隠しに頭をかいた。

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