『異界のおみくじ』

渦目のらりく

『異界のおみくじ』

 ……それは京都の至る所に現れるのだという。

 目撃情報は京中に渡り、上京区にあったという者から下京区の端で出会ったという者。繁華街の中に見つけたという者から伏見稲荷の中腹で招かれたという者、晴明神社の裏手の細道から迷い込んだ者から、清水寺の境内から彷徨い込んだという者……といった具合に、実に現実味を欠いている。

 目撃者の語る『異界のおみくじ』の所在地は一致しない。ただし不思議なのが、そのおみくじがあるという境内の様子だけは、皆が口を揃えているかの様に一致するのである。


 ――そのに彷徨い込んだ者はまず、細い細い石畳の路地に出る。そこから道はまっすぐに伸びていて、両傍には何も記されていない赤いのぼりがびっしり立ち並んでいる。夜に入り込んだ者なんかは、その上に赤い提灯が等間隔で提げられていた、なんて言う。――そうしてその先を行くと、小さな赤いやしろが一社あり、木彫りの狐像が一体と、その手前に、小ぶりなお賽銭箱が据えられているのだとか。

 そこから視軸を右手側に移動していくと、麻の紐で作られたおみくじ掛けがある事に気付く。劣化もせず、妙に真っ白いままの紙が幾つも結ばれている。

 ……はて、それでは何処でおみくじを引くのかと辺りを見回してみると――

 良く探してみると、赤いのぼりの連なる元来た道。自らが彷徨い込んだその道の始まりの地点に、先程まで決して無かった筈の赤いおみくじ箱があって、その足元で色鮮やかな風車が幾つも回っている。ちなみに料金は百円だと筆で記されていて、小銭を入れる茶色い箱まであるのだとか。

 不気味な赤い木箱を見つけても、そのまま路地を過ぎ元来た道へと引き返す者も多い……が、そのおみくじこそが、この境内の主役なのである。


 ちなみに先程その境内をと表現した理由は、そのおみくじの秘めたる御力が、どう考えてみても、我々の常識から離れているからである。

 これまで収集して来た情報を纏めるとこうなる――。


・〈大吉〉――年収数億円越えとなり、皆の憧れる地位を得られる。望む全てが手に入れられるだけの金銭を得る。病気もせず子宝にも恵まれ、あらゆる安泰と幸福を得る。

・〈吉〉――年収数千万円〜億となり、満足のいく地位を得られる。名声と望む生活を手に入れられる。病気もせず子宝にも恵まれ、安泰を得る。

・〈中吉〉――年収数千万円越え。一般的に言う金持ちになり、何不自由ない地位を得られる。名声と望む異性を手に入れられる。大病せずに家庭に恵まれ、幸福に恵まれる。

・〈小吉〉――年収一千万円近く。金銭的に余裕があり、十分な地位を得られる。少しの名声と望む車を手に入れられる。パートナーに恵まれ将来的に幸福に恵まれる。

・〈末吉〉――年収六百万円〜。生活に不自由しない程度の金銭は得られ、努力次第では名声も得られる。一般的な家庭と幸福を約束される。

 

 ……無論それらの情報には虚偽や尾鰭おひれも付いているのだろう。しかし、そのおみくじで〈大吉〉を引き当てた者の多くが、これまでの人生とは脈絡無く、驚く程の富と名声を手にしているという事実はな事なのである。

 この『異界のおみくじ』に遭遇して〈大吉〉を引き当てたと語る大手企業の社長や投資家、夢を叶えたアーティストや役者なんかのインタビューは探せば幾つも出て来る。その顔ぶれは錚々そうそうたるもので、日本人なら知らぬ者がいない大物達であり、さらには――その内の全ての者が、それまで普通かそれ以下程度の地位しか持ち得なかった者の成り上がりなのである。

 人が変わったかの様なとてつもない幸運や発想の連続が、これまででは考えも付かなかった決断と行動が、彼等の体を閃光の様に貫いて突き動かすらしい――まさに、神に栄光を約束されたかの様な話し。〈大吉〉どころか次点の〈吉〉〈中吉〉辺りでも引けば人は大成し、〈小吉〉でも小金持ち位にはなれて〈末吉〉でも社会的に一定以上の地位を得られる。

 つまりこのおみくじは、引けば必ず幸運の訪れる『異界のおみくじ』なのである。

 ……そんなものは眉唾物の都市伝説でしか過ぎないのだけれど。

 そういった事を進んで信じようとするオカルト層以外の者にとっては、なんの意味も無さない絵空事でしか無いのだけれど。


 ――“雨前図栗彦あめまえずくりひこは今、そのおみくじの前で唖然と立ち尽くしていた。”


 うだつの上がらない青年は、そんな妄言めいた伝説は知っていたけれど、信じてなんかいなかった。しかし彼の内に眠る作家としての性分が、まだ全然箸にも棒にもかかっていないながらも、小説家を志望するその熱心なる観点が、世迷い言で一部の者を熱狂させる一つの創作としての知識として、その話しを記憶領域に留めていた。

 栗彦がこの路地へと迷い込んだのは、京都の東山にある六道珍皇寺を一人で観光した後の事である。皮肉にも現世と地獄とを行き来したという、小野篁おののたかむらが使用していたとの逸話が残る『黄泉がえりの井戸』を観て来た、その帰り道での事であった。

 ――下り傾斜になった松原通の舗道を踏みながら、栗彦が帰路につこうと考えている道中であった。

 雑多に並んだ家並みを行き、彼は左手に見えた細く暗い路地の奥に、胸にざわわと鳴る高揚を覚えて一歩足を踏み入れた。

 時刻はまだ日の落ちる前で、空は曇天で胡乱うろんだった。

 観光者のまばらに行き交うその道を背にして、彼だけが一人、肌寒い季節に吹き付けた寒風から逃れる様にして、コートの襟を立てながら……。

 ……へと到った。


 看板も何も無いまま、栗彦は赤いのぼりが両傍に立ち並んだ路地へと入り込んだ。

 それまでは、京という町の放つ妖気にあてられた様な心地であった栗彦だが、何も記されていない赤旗の群れを見上げ、はたと、その時に気が付いた。


 ――これは、この光景は……『異界のおみくじ』? いやそんな馬鹿な。


 栗彦は眉を寄せていぶかしむと、足を止めて背後へと振り返ってみた。まだ六道珍皇寺へと続く坂道が見える。侵入口に現れるという赤い木箱のおみくじなんかも無論見当たらない訳だし、しっかりと松原通を行き交う人々の姿が見える。


 ――俺はまだしっかりと、現世と繋がっている。


 そう確認する……。

 つまりここは異界なんかではないのだ。

 自嘲気味に頭を振るった栗彦は背後へと振り返った体勢のまま――ただし誰も、栗彦があんなに気を引かれたという、この妖艶なる路地を気に留めることも無いといった――まるでこの細い路地自体が見えていないかの様な……そんな訝しむべき状況にも気付かずに彼は、長いれた前髪を鬱々と垂らしながら、前へと向き直って歩みを進める事にした。

 ――まさか……いやまさか……と。

 ぶつくさと繰り返し、幽鬼の如くふらふらと栗彦は石畳を踏む。

 所狭しと立ち並び、彼を誘導していく赤いのぼり。そう長くはない路地を抜けるとそこには、話しに聞いた通りの赤い小さな稲荷の社があった。

 唖然とした。

 栗彦は強い動揺を覚えると同時に、大きく目を見張る事しか出来ないでいた。

 いま栗彦の目前には木彫りの稲荷様があった。赤い社に向かって右手側に、腰程の高さに据えられた麻の紐のおみくじ掛けがあり、そこに所狭しと白い紙が結び付けられている。

 『異界のおみくじ』で聞いた情景がいま、彼の前にあったのだ。

 疑うよりも先に栗彦は思っていた。


 ――俺はどうしてここに導かれた。どうして魅せられたのだ。どうして招かれた。


 ……考えるまでも無い。

 それは栗彦が心の奥底より渇望していた奇跡の顕現けんげんに他ならなかった。

 彼が心より望み、戯言だと思いながらも心の内に強く願い続けていた熱情であった。

 人に幸福をもたらす『異界のおみくじ』とはすなわち、心よりそれを望む者の前に現れるのかも知れない。

 年季の入った社には新しい花だとかも生けられているし、境内には何処からか線香なんかの香りも漂っている。だけれど人の気配はおろか、声を上げてみてもやはり誰も居やしない。境内は高い木の塀で囲まれていて、そこが何処だかも分かりはしないし、空模様は低く垂れ込めた曇が延々と続くばかり。

 栗彦は自らがいま、とても奇異であり貴重。珍妙奇天烈な怪異に遭遇しているその興奮を噛み締める。これより先の体験は、余す所なく原稿用紙に記してみせよう。いま置かれた状況にはそれだけの価値があり、また栗彦にはそれだけの野望があった。


 ――焦っていたのだ。

 栗彦は後になってそう自覚した。

 十代後半の頃、とある小さなコンテストで佳作を取った。書の才能があると自らでも思ったし、周囲の者も彼を持て囃した。何の取り柄も無くアイデンティティに欠けた男を変えるには、それは十分な切っ掛けだった。

 それから彼は作家として生きると決めて今日こんにち、定職にはつかなかった。大学にも進学せずに夢を持って自宅に引きこもり始めた。周囲の者が職に就いて家庭を築いていく中、かくあるべきという社会のレールを自ら外れていった。

 ……そうして栗彦は今年で三十の歳になった。奇しくも今日がその誕生日であった。

 書いて、書いて書き続けて来た筈だった。

 されども彼の作品があれ以降入賞する事は無かった。

 作品は当初と比べ、奇抜奇才を意識した珍妙な形態へと変容していた。

 それに栗彦自身が気付く事はなかった。

 ――血走った目付きで栗彦は踵を返していく。赤い社を後にして、呆然とするまま、瞳をギラギラと光らせて――。そこに狂気が宿っている事にも気付かずに……。

 かつて肩を並べた学友達が、子どもを抱いて慈しみの笑顔を浮かべているのを、薄汚れた自宅の小窓から栗彦は目撃した事があった。

 対して自らはどうだ? そう自問した。

 皆がナニカになっていく中、栗彦はナニにも成れないでいた。

 無形だ。

 液状だ。

 何にもなれない。形も成せない。液体だ。

 外面だけは人の形をしている。されどその中身は――だった。

 ――ぐでんとして、芯のない。水袋。

 ……だから思ったのだ。

 ……考えたのだ。

 ……願っていたのだ。 

 ……捜していたのだ。

 形を持たない水袋に血と肉を巡らせて、無条件に形を与えるという怪奇を。

 心の何処かで、誰よりも――を。


 元来た道を引き返した栗彦の眼下に今、赤い木箱のおみくじが鎮座していた。


 足元で色とりどりの風車がカラカラと回っていた――

 赤いおみくじ箱に筆で記された百円の文字に従って、栗彦はいざやと手前の木箱に小銭を入れた。そうすると、機械で連動している訳でも無い筈なのに、赤いおみくじ箱の口から、折り畳まれた白紙が転がり出る。

 荒ぶる鼻息をそのままに、命運分つ白紙を広げる――


・〈末吉〉


 手元に開いた紙を握り潰しながら、栗彦は額に青筋を刻み込む。

 怒り心頭の青年は、目を血走らせながらいま、如何なる恨み辛みを頭の中で撒き散らしているのだろうか……。

 頭上に垂れた曇天の様な感情がその場に停滞する。推し留まって流れ去る事もない空気に満たされていった異界の一角。

 ――上げられた瞳は既に正気を通り越し、深く澱んでいた。栗彦は丸めたおみくじを足元に捨てて再び百円を取り出していた。

 余談だが――元来からして、栗彦は新年で引くおみくじを何度も引き直す性質たちであった。新しき年を迎えたその一発目に、小吉だの末吉だの言われるのは心持ちが悪い。新年くらいは景気よく、今年は最高の一年でありますと言って貰わねば満足ならない様な男なのだ。おむくじの引き方に細かいルールなどがない以上、引き直しがマナー違反などと言われる覚えも無論ない。

 よって栗彦は、満足いく結果が出るまでおみくじを引き直す事にしたのだった。

 小銭を入れると紙が落ちてきた。開く。


・〈末吉〉


 ろくにその内容も読みもせずに、栗彦はおみくじを地面に叩きつけて同じ行動を繰り返した。


・〈末吉〉


・〈末吉〉


・〈末吉〉


・〈凶〉


 ギョッとして〈凶〉のおみくじに視線を落とす。


・願望

 不可。望んだ成果と正反対の結果が訪れる。

・待ち人

 おらず。誰からも求められてはいない。諦めるが良し。

・失せ物

 見つからず。増えていく。自らの事も見えていない。

・縁談

 無し。わきまえろ。

・恋愛

 無し。身の程を知れ。

・商売

 何をやっても上手くいかない。ろくでなし

・争事

 多大。生きてるだけで罪。

・病

 大病する。希望無し。

 

 幸福などとは程遠い、生き地獄の様な事がびっしり書いてある。〈凶〉などというおみくじの結果は、栗彦の収集した情報の中にも無かった筈だった。

 蒼白となり、頭に手をやってわなわなと震え始めた栗彦は、財布の中の硬貨も紙幣も全て木箱に詰め込んで、ありったけのおみくじを引こうと試みた。

 しかし――……。



「………………は?」



 コロンと音を立てて出て来たのは、たった一本のおみくじだけであった。

 開く――

 ポカンと口を開けた栗彦の手元に開かれたおみくじは、これまでとは様相が異なり、血の様な真っ赤な背景の中心に、ただ一言こう記されているのであった。

 

〈厄〉


 頬を撫でていった寒風を知覚して、自らが何かに取り憑かれていた様に没頭していた事に、栗彦はその時気が付いた。足元には大量のおみくじが転がって、いつしか時が過ぎ去り夜になっているのが恐ろしかった。

 いま闇の中、こうして不吉の記された赤い紙を見下ろせているのは、背後に連なる赤いのぼりの上方に、幾つもの提灯が下げられて光を漏らしているからだと栗彦は思った。

 振り返ってみるとやはりその様であった。

 しかし揺らめく影を見下ろして、寒気に襲われていると思い起こす――赤いのぼりの上方には、木々も外灯も無かったではないか。提灯を下げられる所なんて、何処にも。そこにあるのはただ、茫漠とした異界の空だけであった筈だと――


「――ぁ」


 短く途切れた悲鳴の余韻は、闇に吸い込まれて消えた。

 見上げるとそこに、顔を煌々と光らせながら垂れ下がる、姿

 空にひしめく虚な目をした人間たちの中には、先刻『異界のおみくじ』にあやかり大成功を収めたという役者の顔もあった。

 ――何故いま生きている筈の者もここで首を吊っているのか?

 そんな当たり前の事を思う間も無く、腰を抜かした栗彦が見上げるは、呆然と彼を見下ろして来る無数の目。

 闇夜に灯る、黄色く濁った双眸の無数。破裂しそうに膨れた顔面が黄色く灯っている。

 宙に浮かんだ彼らを吊り下げているモノは、首に括られた紐であり、その行先は果て度もない天上の闇であった。


 むすべ……。

 …………むすべ……。


 ――そう、空に浮かんだ人々は栗彦に語り掛けてきた。まだ意識があるのか、死にきれないのか、人形の様に凝り固まった顔付きの中で、微かに口元だけが動いて、栗彦の額の上に落ちる影の形を動かしている。

 その場を逃げ去ろうと振り返るも、そこには既に、松原通へと続く路地は無かった。道が消失していた。

 栗彦は異界に閉ざされたのだ。

 そうして頭上を見上げると、むすべむすべ、と――。

 四方を取り囲んだ塀に背中を預けてずり下がりながら、栗彦は頭上に浮かんだ提灯人間たちの首に括った紐が徐々にと長く、そうして地上へと到らんとしている事を悟った。


 むすべ、むすべ……!

 ――結べ!


 そう、強烈に脳に叩き付けられた様な感覚があり、栗彦は『結べ』というのがおみくじの事を言っているのだと思い至る。大急ぎで赤い社の隣のおみくじ掛けにまで走り寄ると、おぼつかない手元で〈厄〉を固く結び終えた。


 ――すると……。


 怪異は消え去り、時刻は元の曇天へと戻っている事に気付く。

 周囲を見渡して見ても元の景観のままだ。元来た道を引き返すと、白紙に戻ったおみくじが山になって積まれていて、その向こう側には夕刻の松原通が見える。

 急死に一生を得た心持ちで栗彦は額の汗を拭う。そうして二度とはこの様な醜い欲を出さぬ様にと心に決めて、逃げ去る様に路地を戻った――。








 ――背後よりが伸びて来て栗彦の首を絡め取った。

 息も出来ずに宙に吊り上げられていった青年は上空へと上がっていって、願いの一つとなって神との縁を結ばれた。

 そうしてみるみると周囲は紫色の夜にすげ変わっていって、空より垂れ下がったてるてる坊主の一つが加わる。

 虚な目をして脱力された水袋。

 彼を絡め取った肉の管は、先程結んだおみくじが変異したものであったらしく、闇へと上る紐を残して、次第に何かしらの形を成していった――



 そうして栗彦が最後の意識で目撃したのは、自分を見上げるの姿であった――。

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『異界のおみくじ』 渦目のらりく @riku0924

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