3

 僕はいつまでも呆けて、操縦室の壁にもたれて揺蕩っていた。観覧車が変わらず海底に降り、泥をさらい、機械的に昇っていくのを黙って見ていた。

 僕はどうすれば良いんだろう。あの海嘯の日、どうすれば良かったんだろう。思考は同じところを静かに巡る。ヘルメット越しの深海は、どこまでも暗く広がっていた。足元を多足の蟲がうぞうぞと抜け、歩き去り、瓦礫の向こうに消えていく。

 目的を見失った僕は、ただこのまま酸素が尽きて深海の塵芥になるのを待つ他なかった。足首の鉛がずしりと重さを放つ。

 瑠衣を殺そうとした僕に、地上で生きる資格なんてない。おもちゃみたいな小さい時計の針は、十三時三十一分で止まっている。僕の時間は、もう君がいなくなったあの日から動かなくなってしまった。どうやったってそれより前に戻ることはできないし、そこから進むこともできない。多分僕は信じたくなかったんだ。君が死んでしまったという事実を。

 観覧車の動きを止めれば、瑠衣は死んだんだと心の底から理解できると思っていた。でも違った。そこに瑠衣はいなかった。あったのは無邪気で懐かしい僕らの記憶だけだった。宇宙のように茫漠たる時が流れる深海には、錆びて朽ちるのを待つ思い出しか転がっていなかった。

 瑠衣、僕を置いてどこへ行ったんだよ。もうひとりで帰らない君を待つのは苦しいんだ。どこにいたって息ができないほど胸が詰まって、地上にいるのに溺れそうで、どうしようもなく会いたいのに、夢の中のそこここに顔を出す癖に、朝起きても君はどこにもいなくて。

 もう、この苦しみを手放してもいいだろうか。

 背負った酸素ボンベの、バルブに手を伸ばす。空気を蓄えたその堰を切ってしまえば、僕は、きっと。


 ――ね、帰ろう。

 声をかけられた気がしてはっと顔を上げると、するすると音もなく白いゴンドラが降りてきた。あの開け放たれた扉は、紛れもなく深海に降りてきた時と同じゴンドラだった。

 瑠衣が迎えに来たんだと、なぜかそう思った。

 時計を握りしめて、僕は縋るように空っぽの席に乗り込んだ。

 観覧車は僕を乗せて、また浮上を始めた。懐かしくも壊れてしまった思い出の地が、ゆっくりと暗闇に吸い込まれて見えなくなっていく。

 掌に収まった動かない時計の針を眺め、ふと顔を上げると、向かいの席に瑠衣が座っていた。ああ、瑠衣。ずっと探してたよ。

 そうだった。僕らはいつもこうして向かいに座っていたっけ。

「こんなところにいたんだ」

「ずっといるよ。私はレインボーのことが好きだもん。忘れちゃった?」

「……そうだったね」

 懐かしい声に少し笑って、ヘルメットの視界が曇った。目頭が熱い。僕は、泣いているのか。

 瑠衣は楽しそうに、窓の外に目を遣る。

「空に昇って、降りてくるだけ。観覧車ってつまらないって思う人もいると思う。でもね、私はレインボーが好き。乗り込むときのメロディも、少しずつ遠ざかっていくアトラクションも、遠くで輝いてる有明海も、空を独り占めにできる感覚も、そしてそれを見上げている時でさえも、全部全部好き。だから、これを動かしている時、私はいつも祈っているの」

「何を?」

「この観覧車に乗る人が、そしてこの観覧車を見上げる人が、素敵な景色の中にいますように、って」

「……本当に好きだね」

「ね。だから私、幸せなの」

 瑠衣は笑った。それは言葉通り幸せそうな、穏やかな笑みだった。ゴンドラに抱かれた僕を見守る瞳は、母親のように優しかった。

 君の笑顔を、僕は久しぶりに真正面から見ることができた。

 海底遊園は遠ざかり、次第に海は黒から紺へ、紺から青へと明度を上げていく。

 それはまるで夜が明けるようだった。

 僕は生きて行っても良いのだろうか。君を殺そうとした僕は、君のいない地上で生きて行けるのだろうか。止まらない観覧車を遠くに眺めながら。

 瑠衣は何も言わなかった。返事の代わりに、差し込む光に紛れ、擦れ、そっと消えていった。その笑顔の残滓を、僕は涙に濡れた瞳の奥に焼き付けた。

 ざばり、と大きな音を立てて波を掻き分け、白いゴンドラは再び海上に送り出された。足に巻いた鉛を解き、僕は意を決して開け放たれた扉を出た。

 乗客を無事に降ろした観覧車は、またゆっくりと海中に消えていった。どこか満足そうだった。その様子を僕は最後まで見守っていた。

 消えていった瑠衣の、最後の言葉が耳の奥で鳴っていた。彼女は幸せだった。僕にとってはもうそれだけで良かった。彼女の想いは尽きることなく、この先も海の底で回り続けるのだろう。


 掌の中の時計は、陽光を受けてきらきらと輝いている。

 太陽の下に連れ出した忘れ形見を抱きしめ、僕は声が枯れるまで泣いた。

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海底遊園 月見 夕 @tsukimi0518

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