2

 やがて竜の背骨のようなジェットコースターの頂上が海中にぼんやりと浮かび上がった。

 真っ直ぐに差し込んだ光がその威容を照らしている。観客の悲鳴をほしいままにしていたであろうそれは、しかし今は静かな海に佇んでいた。骨の間を縫って、名前も知らない魚の群れが泳いでいる。

 仄暗い深海に向かい、次第に僕の胸の内も静かに沈んでいった。ゴンドラを支えるアームが力強く水を掻き、たまに軋む音だけがしている。

 寂しい無音の世界に、何百、何千と繰り返した思考を重ねてしまう。

 あの日、君がそこにいなかったら。今日は仕事なんて休もうよ、と引き止めていたら。幾度となく巡る悔恨の念がまた僕を襲い、大きく吐いた息が泡となって窓を抜けていった。

 そうしたって瑠衣は戻っては来ないのに。君を奪ったのは確かに未曽有の天変地異だったのかもしれないけれど、僕はどうしてもそれに巻き込まれる原因になったこの観覧車を、心の底から憎みもした。

 レインボーがあったから、瑠衣はきっとそこから離れなかったんだ。どうやったって連れていける訳なんてないのに。彼女が黒い波に呑まれる瞬間を見ていた同僚は言っていた。瑠衣は最期まで操縦室にいたんだと。

 もしかしたらレインボーに誰か乗っていたから、その誰かを降ろすために操作しようとしていたのかもしれない。叫ぶ同僚を振り切り自分の避難を差し置いてそこに残ったのは、ひとえに彼女の責任感ゆえの行動だったのかもしれない。

 けれど――僕はどうしてもレインボーを許すことができなかった。レインボーに瑠衣の幻影を見ながら、しかしその命を奪った巨大観覧車を殺そうとしていた。

 どこか矛盾していると思う。狂っているとも思う。でももう、僕は僕を止めることはできなかった。

 夜の帳が降りたように暗い紺青の底が近付き、傾いたメリーゴーラウンドが遠くにぼんやりと浮かび上がっていた。



 開け放たれた白い扉から、僕は海の底に降り立った。堆積した泥がそっと舞い、観覧車の動きに誘われて溶けて消えていった。

 ふと目を上げると、懐かしい光景は惨憺たる有様になっていた。無残にひび割れ隆起した色とりどりのアスファルト。子供にひっくり返されたおもちゃのように投げ出されたコーヒーカップ。首が落ちてどこかに行ってしまった園のキャラクター。ところどころに転がる大きなマッチ棒のような金杭は、多分街灯だったものだ。

 あまりの光景に、僕はしばし立ち尽くしていた。僕らの思い出は全て海嘯に呑まれてなくなったのだと、強く実感せざるを得なかった。そこに人の力が介入できる余地なんてなかった。ここには、瑠衣がいたのに。

 いつまでそうしていただろう。大きく吐き出した泡の音にはっと気が付いて、僕は傍の操縦室に目を遣った。屋根ごと傾いた設備は、奇跡的に無傷のようだった。

 重たい水中に踏み出した。足に巻いた鉛が僕を海泥に縫い付け、浮上を妨げている。一歩、二歩、とぎこちなく歩き、ようやく操縦室の扉に手を掛けた。

 瑠衣はそこにもいなかった。分かり切っていたことだけど、どうしても彼女の面影を探してしまう。ああ、この扉の向こうにいつも立っていたっけ。瑠衣が仕事の日にこっそりと会いに行った時、制服姿の彼女は恥ずかしそうに、しかしどこか誇らしげに操縦していた。どんな風に笑っていたのか、もう靄がかかって思い出せないけれど。

 錆びた扉はヒンジが朽ち、簡単に外れて僕を招き入れた。招かれざる客であろう僕は操作盤に視線を落とす。観覧車の操作方法なんてこれっぽっちも分からないけれど、瑠衣は確か始発を送り出すときに専用の鍵を差すのだと言っていた。

 きっとその鍵を回せば、観覧車の息の根を――

 そこまで考えて、僕は一点から目が離せなくなった。操作盤に差された、一本の銀色の鍵。その鍵に揺れる、キーホルダー型の時計。

 ゆっくりと手を伸ばしそれを掌に収めると、鍵に括りつけられていた紐は役目を終えたとでも言うようにそっと千切れた。

「これは……」

 観覧車を模したデザインの小さな時計の針は、波に呑まれた時間で止まっていた。それは確かに僕が瑠衣に贈ったものだ。それも、小さい頃に。

 七歳の頃に、僕らは大人には内緒にして二人だけで遊園地を訪れた。幼い僕らにとって、それは大冒険だった。大人への秘密を共有し、夢の国へ冒険したことを忘れないように、園内のお土産売場で買ったものだった。

 瑠衣は喜んでいたと思う。けれど僕は贈ったことすら忘れていた。それを瑠衣が後生大事に持っていたことも知らなかった。

 もう一度操作盤に目を遣る。あの日の僕らがそこに立ち塞がっているような気持ちがした。

 利き手が暗い水の中を彷徨い、しかし鍵に触れることなく、やがて力無く下ろされた。

 僕はとうとう、観覧車を殺すことはできなかった。

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