海底遊園

月見 夕

1

 ざばり、と黒い波を掻き分けて、観覧車の丸いゴンドラはゆっくりと海上に姿を現した。陽光に照らされたそれは海藻や貝類やよく分からない何かを引っ付けたまま、割れた窓から海水を吐き出し、少し軋み、いくらか渦を巻き込んで海中に消えていく。

 オレンジ色のゴンドラが薄暗い底へ沈んでいったかと思うと、間髪入れずにピンク色のゴンドラがまた顔を出し、同じようにゆっくりと姿を消した。

 僕が見ている前で、それは十四秒に一度同じ動きを繰り返していた。

「……今行くから」

 宇宙服のような耐圧スーツを身に纏った僕は、ゴムボートの縁を蹴って今しがた浮上した白いゴンドラに乗り込んだ。



 ――海上。

 半年前、九州島の中心に聳える活火山である阿蘇山が突然大噴火を起こした。それに伴う大規模なプレート移動で、熊本県、福岡県、長崎県の一部は有明海ありあけかいの底に沈んだ。海に面する荒尾市も例外ではなく、九州最大級の遊園地と共に深い海底へ引き摺り込まれていった。

 ――はずだった。

 確かに有明海は遊園地の敷地を完膚なきまでに水底に沈めた。あらゆるアトラクションを、そこにいた人ごと全て飲み込んだ。しかし全長百メートルの巨大観覧車だけはなぜか沈んでもなお稼働し続け、こうして天辺のゴンドラを海上に送り出し続けている。

 どうして止まってくれなかったんだろう。

 これが動いているせいで、僕は君に会いに行けてしまう。

 乗り込んだ扉から勢いよく海水が流れ込み、座席の僕の腰、胸、首をあっという間に沈め、白いゴンドラは泡と共に海中に潜った。

 泳げない僕はヘルメットの視界がすべて水に浸かったことに一瞬息が止まるような思いがしたけれど、やがて深々と息を吐いた。背負ったボンベから酸素が送られ、余分な空気が泡となって水面に上がっていく。

 この硬質な耐圧スーツを着ていれば溺れることも、水圧に潰されることもない。この手で水をかけなくても、ゴンドラが僕を海底まで連れて行ってくれる。肩の力を抜いて、僕は窓枠の外へと視線を遣った。

 水面を見上げれば、きらきらと陽光を跳ね返す波間がレースカーテンのように揺れて、いくつもの泡が錐揉みして光に吸い込まれていく。

 思わずその光景に手を伸ばしそうになり、割れた窓枠に触れ、僕は出しかけた手を引っこめた。何でもない水景に心奪われるのは、もう戻らないと決めたからだろうか。余計に美しく見える。

 観覧車はたったひとりの乗客の感慨など露知らず、ただ淡々と深い海の底へ誘った。



 虹色の巨大観覧車は、海に沈む前はレインボーと呼ばれていた。地上を離れて空に昇り、広大な遊園地の敷地を一望できるシンボルアトラクションだった。

 そして――僕の彼女、瑠衣るいがレインボーの操縦士だった。

 幼い頃から僕らはこの遊園地を訪れ、お互いに恋をし、そして結ばれた。思い出深いこの場所の中でも、特に彼女は観覧車が好きだった。静かに空に舞い喧騒を離れる瞬間が好きなんだと、瑠衣はよく言っていた。

 大学を卒業した後の就職先も、彼女は迷わずこの遊園地に決めた。そんなに好きなのか、と僕は呆れて笑ったけれどあまり驚かなかった。働きぶりが認められ、ようやく観覧車の操縦士になれたんだと嬉しそうに語っていた時も、きっとそうなるだろうなと思っていた。それほど彼女は観覧車を、そしてレインボーを愛していた。

 遊園地が周辺の地盤ごと海に沈んだ昼下がり、観覧車はいつも通り稼働していた。瑠衣もそこにいた。あまりに突然のことだったから、逃げる暇なんてなかったのだと思う。だから僕らは最後に言葉を交わすことなく、こうして死に別れてしまった。死体は上がらなかった。

 しかしそれは瑠衣だけでなく数多の犠牲者と同じだった。皆海に呑まれ、帰らず、生き残った人々はこの先を生きていくための希望を探していた。

 今、レインボーは「奇跡の観覧車」と呼ばれている。

 海の底にいても奇跡的に電気系統が生きているようで、力強くゴンドラを海上に送り出し続けている。

 レインボーはこの地に生きる人々のみならず絶望に沈んでいた全国民の心に希望の火を灯すシンボルとなった。

 しかし僕はこれを止めなければならない。

 これが動いている限り、瑠衣はまだ生きているような気がするからだ。レインボーは僕らの思い出のすべてが詰まった象徴で、僕にとっては瑠衣そのものだった。

 死んでなお人々に祭り上げられ、生かされ続ける君を止めるために、僕は海底へ向かうことにした。

 深海調査艇を用意することはできなかった。多分用途を知ったら止められるだろう。泳げないから耐圧スーツと酸素ボンベを買った。足に鉛を巻いて、海底を歩けるよう準備した。

 観覧車を止めた後のことは考えていない。人々の希望を殺した僕は、きっと地上では大罪人として非難を浴びるだろう。

 だから君の思い出と共に海の底で心中してしまおうと、そう思ったんだ。

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