第11話 ねぼすけ

 二限目の授業中。


 気温が上がり、カッカッと小気味よいチョークの音が教室に響いている。


 その中に、わずかな声量ではあるが、気持ちよさげな寝息が混じっていた。


「さて、この問題を誰か……ほう」


 数学担当でありクラスの担任でもある伊藤は、板書を書き終えて振り返り、その音源を目で捉える。


「おい。涼、起きろ」


 この先起きることを予見した長瀬は前を向いたままそっと声をかけ、後ろの机を揺らす。


 しかし、件の居眠り男——涼は微動だにせず、静かに寝息を立て続ける。もう一度呼びかけようとしたところで、長瀬は伊藤と目が合い、思わず苦笑を浮かべた。


 教壇に立つ伊藤はスーッと息を深く吸い、


「仁科!」


 教室中に響き渡る声で、涼の名前を呼んだ。


「はい!」


 涼もまた、うつ伏せの姿勢から跳ね起きて大きな声を出す。


 脳はまだ完全に覚めていない。しかし、今自分が置かれている状況を理解するのに時間はかからなかった。冷や汗が垂れる。


「仁科」


 伊藤は再び、しかし今度は静かめな声で涼の名前を呼ぶ。


 にっこりと笑顔を浮かべているが、その先にいる涼の緊張は解けない。


「この問題、答えてみろ」


 コンコン、と近くをチョークで差された数式。その内容は涼が眠りこけている間に進んだ単元のもので、そもそも何を解くのかすら涼は理解ができない。


「私の授業で寝たんだ。よほど自信があるんだろ〜?」


 張り付けたような笑みが軋んだ音がする。


「やべぇ」


 涼の口から漏れる言葉は数式の答えなどではなく、ただただ絶望を意味するものだった。


(謝れば多少は罪が軽くなるだろうか)


 そう考え、涼は頭を下げる。


(……ん?)


 視線を下げたことで視界の隅に入ってきた、隣の席のノートの端っこ。


 そこに書かれている数字を読み上げると、伊藤は「ほー」と感心したような声を漏らす。


「よく解けたなぁ、仁科」


「えぇ、まあ。数学の女神が耳元で囁いてくれたんで」


「そうか。今度の中間でもその女神様とやらが囁いてくれるといいな」


「あー……不正は許さない性格みたいなのでそれは期待できないっすね」


「うんうん、そうかそうか。つまり仁科はちゃんと自分の実力を見せてくれるわけか。結果が楽しみだなぁ、仁科?」


 圧をかける伊藤。涼が「っすねぇ」と苦し紛れに返事をすると最後に不敵な笑みを浮かべ、問題の解説に移った。


 睨みから解放され、涼はほっと胸を撫で下ろす。しかし、先の試験のことを考えて、はぁ、とため息をつくのであった。




 * * * * *




 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒たちの顔に解放感が満ち溢れる。


 その一方で、


「あぁぁ……」


 涼は気怠げな声を漏らしながら、突っ伏して体を机に預けていた。


「また寝てんのかぁ、涼」


 席に座ったまま体をひねり、涼の頭頂部を見ながらカッカッと笑う長瀬。涼は「うるせー」とくぐもった声を返す。


 そんな、ふて寝の格好を取る涼のそばに、一人の女子が近寄った。


「やーい。ねぼすけ」


 揶揄うような声と一緒に、あたたかい空気が触れ。涼は、右の耳元にくすぐったい感触を覚えた。


「——!?」


 右耳を押さえながら飛び上がる涼。


 涼の突然の行動に瞬時に反応し一歩下がった瑞姫は、丸くした目でこちらを見つめる涼を見てくすくすと笑う。


 周りのクラスメイトが各々の時間を過ごし、騒がしくなる中。しばらく二人は、静かに見つめ合う。


「ねぇ」


 先に視線を逸らしたのは瑞姫だった。後ろで手を組み、少し横に揺れながら聞く。


「あたしに何か、言うことあるんじゃないの?」


 少し間が空いて、涼が「あ、あぁ」と気の抜けた声を出す。


「さっきは助かったよ。ありがとう」


 涼が礼を言うと、瑞姫は満足そうに笑った。


「どーいたしまして」


 最後にまた二人は視線を交わし会話が終了すると、瑞姫は体を翻して金子のもとへ向かった。


 長瀬はその姿を見届けながら「へぇ」と口角を上げる。


「涼さんや、女神様から今度は何を囁かれたんだ?」


「客観的事実だよ」


「そんなことをわざわざ耳元で?」


「配慮だろ。よほど見苦しかったのかもしれないな」


「……オレはお前のことかっこいい方だと思ってるぞ!」


「そういうことじゃねえよ。あと褒めるならもっとはっきり言ってくれ」


「すまん、今のが限界だ」


「もっと配慮しろよイケメン野郎」


 冗談だよ、と言って長瀬はにたっと笑う。


「それで? 何があったんだ、お前たち」


「…………なんか曇ってきたなあ」


 涼は顔を横に向け、窓から外を眺めて呟く。


 そんな反応はお見通しとばかりにニッと笑い、長瀬は顎に手を当てた。


「何かあったとするなら昨日の放課後か。そういえば、昨日は女バスが練習休みだったけなあ」


 長瀬はそこまで言って、涼に視線を向ける。すると涼は「……はぁ」と大きくため息をつき、観念したかのように両手を上げた。


「会ったんだよ、たまたま」


「どこで?」


「公園」


「涼の家の近くの、バスケットコートがあるとこ?」


「……そうだよ」


 涼の返答を受け、長瀬は腕を組んで「なるほどな〜」と楽しそうな表情を浮かべた。


 そんな親友の様子を涼は訝しみながらも、唇を尖らせて言う。


「言っとくが、菜乃花も一緒だったからな。菜乃花に付き合って公園にいただけで」


「はいはい。涼は菜乃花ちゃんと公園に遊びに行ってて、たまたまそこに、部活が休みになった橘さんが自主練をしに来たってことね」


「……信じてなさそうだな」


「いやあ? 橘さん、あの公園のこと知ってたみたいだし、そんな偶然もありえるかもしれないな?」


 ニヤニヤと笑みが止まらない長瀬。一方で、涼は長瀬の言葉を聞いて一瞬固まった。


「……それ、橘から聞いたのか?」


「え? あぁ。どうも部活がある日も帰りに寄ってるらしいぞ。練習熱心だよなあ、オレがあの公園を教えた時にはすでに知ってたみたいで……あ」


 咄嗟に口元を手で覆う長瀬。涼がじっと睨むと、テヘッと舌を出した。涼はげーっと何かを吐く仕草を返す。


「ま、まあまあ。今重要なのはそこじゃないだろ。ズバリ、昨日あの公園で何があったんだ!?」


 勢いで乗り切ろうとする長瀬に、涼は軽くため息を吐き、「さあな」と口にする。


「偶然会って、菜乃花にバスケを教えてもらって、それだけだ」


 頬杖をついて答える。その表情からは困惑が見て取れたが、どこか、思い出を振り返るような楽しげな色も含まれていた。


 長瀬の口元に自然と笑みがこぼれる。


「お前がそういう感じってことは、いい方向に向かってるのかもな」


「はあ?」


 長瀬の言葉を聞いて、涼の表情はより一層困惑に包まれたのだった。


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入学初日、隣の席の女子に嫌いと言われた。 土車 甫 @htucchi

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