第10話 冷えるなぁ

 まだ明るい、夕刻前。住宅街の中にある公園にて。


 ポン、ポンといった音が鳴り響く。その正体は、公園の中にあるバスケットコートで小さな女の子がボールを突いている音だった。


「みてみて、りょうくん。どー?」


「上手い上手い。菜乃花は天才だなあ」


「へへー」


 ボールを抱え、ドヤ顔を披露する菜乃花。そんな妹の様子をベンチに座って眺めている涼は笑顔を返す。


 二人は歳の離れた兄妹で、菜乃花は年長に上がったばかり。しかし、家では涼が菜乃花の面倒をよく見ていることもあって、二人の仲は良好。


 涼は学校から帰宅次第、制服から動きやすい格好に着替え、バスケットボールを持って出かけようとしたところ、菜乃花に捕まって言われた。


「なのかもいく!」


 ふん、ふんと鼻息を荒くしている菜乃花を無視することもできなかった涼は、こうして一緒に公園に来ていた。


「ねー、りょうくん。いっしょにやろー」


 一人で遊ぶのも飽きたのか、菜乃花は涼を誘う。彼女にとってバスケットボールは大きく、両手でしっかりと持っているため手が振れず、代わりにぴょんぴょんと跳ねてアピールする。


「はいはい」


 腰を上げベンチから立ち上がる涼を見て、菜乃花は「やったぁ」と喜ぶ。


「あのね、なのかね、今日はシュートおしえてほしい!」


「……シュートかぁ」


 涼は頭をがしがしと掻く。


「パスとかじゃだめ?」


「やだ! シュートがいい!」


「どうしても?」


「シュートじゃなきゃ、や!」


 足を地面にしっかりと踏ん張り、頬を膨らませる菜乃花。彼女がこうなってしまうと、もう言うことを聞くしかないことを十二分に理解している涼は、「うーん」と困った声を漏らした。


 周りを見渡し、コートの端にあるゴールを指差して訊く。

 

「そもそも菜乃花、あのリングに届く?」


 すると、菜乃花は膨らんだ頬をさらに膨らませた。


「むぅ〜。できるもん! みてて!」


 意気込みを見せる菜乃花は大股でゴール前まで移動し、「たあっ!」と威勢のいい掛け声と同時に、下から放り投げる。


「おー……おぉ……」


 下から投げたおかげで上向きに放り出されたものの、力も角度も足りず、勢いよく場外へと飛んでいくボールを二人して見送る。


「い、いまのはれんしゅう! 次はぜったいにはいるもん!」


 菜乃花は頑として己の実力を認めない。涼は「そうだなぁ」と適当に相槌を打ちながら、一人旅行を始めたボールを追いかける。


 幼い女の子の力ではあるが、コントロールを無視して全力で投げたボールは割と遠くの方まで飛んでいた。


 ボールのもとへ駆け足で寄る凉。彼がそばまで来たときには、ボールは何者かに拾い上げられていた。


「はい」


 綺麗な声と一緒にボールを渡され、涼は「どうも」とお礼を言う。


「……部活は?」


「今日は顧問の先生が出張でお休み」


「なるほどね。それで個人練するためにここに来たと」


「……ん、まあそんなところかなぁ」


 煮え切らない返事をする涼のクラスメイト——瑞姫は、視線を逸らし、横髪を少し弄りながら訊ねる。


「……仁科は?」


「俺は、ほら。妹のおり」


 涼の視線の先を追って菜乃花の姿を確認した瑞姫は「ふぅん」と声を漏らす。


「それじゃ、妹のところ戻らないとだから。ボールさんきゅな」


 涼は瑞姫に別れを告げるとバスケットコートへ駆け足で戻り、真剣な表情でシュートのイメージトレーニングをしていた菜乃花にボールを手渡す。


「はい、菜乃花。もう一回やってみるか?」


「うんっ。もうかんぺきにイメージつかんだから! 次はほんとのほんとーに……あれ? おねえさん、だぁれ?」


「へ?」


 涼が素っ頓狂な声を漏らし、菜乃花の視線を追って振り返ると、そこには先ほど別れたはずの瑞姫が立っていた。


 目を丸くして見つめてくる涼に、瑞姫は少しだけ視線を逸らして「あたしもバスケしに来たって言ったでしょ」と小さな声で言うと、菜乃花の前まで歩き、膝を折って屈んだ。


「はじめまして。あたしは瑞姫。お名前、教えてくれる?」


「うんっ! なのかはね、なのかっていうの! ねえ、みずきちゃんって呼んでいいー?」


「いいよ〜。じゃあ、あたしも菜乃花ちゃんって呼ぶね」


「やったぁ。へへー」


 簡単な自己紹介を終えて、にこにこと笑顔を浮かべる二人。涼は先ほどから困惑しっぱなしだ。


「みずきちゃん、りょうくんのおしりあいなの?」


「……んー、どうだろうねー?」

 

「えっ、ちがうの?」


「うーん。知り合いってなんだろうね。ねえ、仁科」


 突然話を振られ、それもその意図が読めず涼は固まる。


「はっ? ……いや、少なくとも互いに名前は知ってるんだから知り合いだろ」


「……ふーん。だって、菜乃花ちゃん。あたしたち、知り合いみたい」


 瑞姫がそう改めて答えると、菜乃花は「そーなんだ!」と無邪気に笑う。


「菜乃花ちゃんはバスケが好きなの?」


「うんっ! へへー。なのかのドリブル、すごいんだよ!」


「えー、見てみたいなぁ」


「いいよ! みせてあげる!」


 意気揚々とドリブルを披露する菜乃花。先ほどのシュートとは違い、その場からは動けないようだが、手に吸い付くような見事なドリブルを見せる。


「菜乃花ちゃん、めちゃくちゃ上手じゃん!」


「へへー! でしょー? りょうくんがおしえてくれてね、なのか、たくさんれんしゅうしたんだー」


 菜乃花が嬉しそうにそう言うと、瑞姫は「へぇ〜」と口角を上げて涼の方を見た。涼はさっと目を逸らす。


「ねえねえ、みずきちゃん。みずきちゃんもバスケするの?」


「うん。バリバリのバスケ部だよ〜」


「バスケ部! じゃ、じゃあ! みずきちゃんはシュート、じょうず?」


「シュート?」


「うん! なのかね、シュートじょうずになりたいの。でもりょうくん、おしえてくれなくて」


「あぁー。なるほどねー」


 またもや涼の方に視線を向ける瑞姫。涼は顔ごと背ける。


 瑞姫はふっと笑い、立ち上がって親指を立てて見せた。


「任せて菜乃花ちゃん! 橘瑞姫、得意なのはシュートだよ!」


 期待していた答えが返ってきたことで、菜乃花は目をキラキラと輝かせる。


「みずきちゃん、おてほん! おてほんみせて!」


 ボールを差し出してそう願う菜乃花。瑞姫は「よーし!」とそれを受け取り、一つ二つ、足元に突き、構え——放った。シュコッという音を立ててゴールネットが揺れる。


「……綺麗だ」


 涼が小さく呟いた感想は、ボールを拾いに行った瑞姫の耳には届かず、霧散した。


 ボールを抱えて戻ってきた瑞姫は少し照れくさそうにしており、そんな彼女を興奮した菜乃花が迎える。


「すごいすっごーい! みずきちゃん、かっこよかった! なのかも、なのかもみずきちゃんみたいにかっこよくシュートきめたい!」


「えへへ。ありがと、菜乃花ちゃん。それじゃあ教えていこうかな……ってあたし、感覚でやってるからあんまり教えるの上手じゃないかもだけど」


 それから瑞姫は、自分の投げ方を何度も見せながら、菜乃花にシュートのフォームを教えた。


 見てそれを真似るということは案外難しいもので、菜乃花は頭を捻りながらもなんとかそれらしい形を作る。


「こう?」


「うん、できてるできてる。バッチリ!」


「へへー。でもなのか、上からなげたらぜったいとどかないとおもう……」


 先ほど下投げでも届かなかったことを引きずっているのか、ゴールを見つめて弱音を漏らす菜乃花。


 そんな菜乃花を見て、瑞姫は両手の指先を体の前で軽く合わせ、腕を丸めて輪っかを作り笑顔を浮かべた。


「見て、菜乃花ちゃん。リングだよ」


 瑞姫のお手製リングを見て、菜乃花の表情がパッと明るくなる。


「リングだ! その中にいれたら、ゴールになる?」


 菜乃花の問いに「もちろんさ!」と答え、瑞姫は少し後ろに下がって距離を取った。


「さあこい!」


 瑞姫はぐっと構え、菜乃花に呼びかける。


 菜乃花は大きく頷き、習ったフォームで——ボールを放った。


 なんとか上向きに放出されたボールだが、やはりまだフォームに慣れていないせいか瑞姫の前方に落ちそうになる。


「よっ」


 しかし、ボールは瑞姫の腕の中を通った。瑞姫がボールに合わせて動いたからだ。


「あー! うごいちゃだめー!」


 ぷくーっと頬を膨らませる菜乃花。瑞姫は「ありゃ」と声を漏らす。

 

「つい動いちゃった! ごめんね、菜乃花ちゃん」


「むー。ずるはだめなんだよー」


 菜乃花がそう言うと、瑞姫と、そして涼にしか分からないくらいの短い間が生まれた。


「……それも、お兄さんに教えてもらったの?」


「うん!」


 菜乃花が元気よく答えると、瑞姫は「そっか」と呟いて目を細くした。


「菜乃花ちゃん。今度はもっと強めに投げちゃおうか」


「うん……でも、つよくなげちゃうと、なげ方おかしくなっちゃうかも」


「ちょっと崩れても大丈夫。さっきのもいい感じだったし、思いっきり投げたら入るると思うよ!」


「……うん! わかった!」


 瑞姫から返されたボールを両手で持ち、むんっと意気込む菜乃花。再び距離を取った瑞姫を見つめ、ぐっと構える。


「たあーっ!」


 大きな声と共に、今度は力いっぱい放ったボールは——


「あたっ」


 瑞姫の頭に、コツンと当たった。


「あ」


 ボールは一度バウンドし、そして、そのまま瑞姫の腕の中に入っていった。


「橘──」


 涼が声を掛けようとする。しかし、それを瑞姫の視線が止めた。


 大丈夫だから。そう伝えるかのように微笑み、今度は菜乃花に、とびっきりの笑顔を向ける。

 

「菜乃花ちゃん、ナイスシュート! お見事だよ!」


「う、うん! で、でも、ボールがみずきちゃんのあたまに——」


「大丈夫大丈夫、気にしないで! 今のあたしはゴールで、シュートはバックボードに当てて入れてもいいんだから。それより二回目で成功するなんて、菜乃花ちゃんは天才かなー?」


「……へへー。まあね! なのかは大天才だから!」


 ふふんっと胸を張る菜乃花と笑みを浮かべる瑞姫。そこにはシュートが成功した喜びを共有する者しかいない。


 その光景に、涼も微笑みをこぼす。


「みずきちゃん! もういっかい! こんどはね、みずきちゃんみたいにスパッていれるの!」


「いいよいいよー。好きなだけ付き合ってあげる!」


 さらに練習を続けようとする二人に涼が声をかける。


「わるい、橘。俺ちょっと席外すから、菜乃花のことお願いしていい?」


「え? うん、いいけど」


「サンキュー」


「りょうくん、どこいくの?」


「ちょっとな。すぐ帰ってくるよ」


 「それじゃ」と小走りで駆け出した涼を見て、瑞姫は首を傾げる。しかし、それほど気にしていないのか、それとも涼の言葉を信じてか、すぐに切り替え練習をしようと呼びかけてくる菜乃花に反応し、練習が再開された。


 しばらくして。二人のもとへ、行きと同様に駆け足で、涼が戻ってきた。その両手には一つずつペットボトルが握られている。


「あ、りょうくん! おかえり!」


「ただいま。菜乃花、これ買ってきたから水分補給しよ」


「りんごジュースだ! なのか、これだいすき! りょうくんありがとー」


 涼がペットボトルの蓋を開けて渡してやると、菜乃花はそれを両手で持ってくぴくぴと飲み始める。


 そして涼は、もう一つ残ったスポーツドリンクの入ったペットボトルを瑞姫に差し出した。


「はい、これ。菜乃花に付き合ってくれた礼にやるよ」


「え。いいのに」


「いいだろ、礼なら。受け取ってくれよ。飲まなくても、体に当てると冷えて気持ちいいし」


「あ……」


 声を漏らす瑞姫。涼が「ん」と再びペットボトルを前に出すと、瑞姫は「ありがと」と言って受け取った。


 それから、そろそろ晩御飯の時間だからと涼たちは帰ることに。最初、菜乃花はまだ瑞姫と一緒にいたいと駄々をこねたが、瑞姫が「また一緒にバスケしようね」と優しくフォローを入れたおかげで、ようやく納得してくれた。


「菜乃花。ボール、俺が持つよ」


「えー! なのかが持つー!」


「菜乃花は両手じゃないと持てないだろ。ほら、こうして」


 涼は菜乃花の持っていたボールを小脇に抱えると、空いている方の手を菜乃花に差し出した。


「あっ! へへー。りょうくん、そんなになのかと手ぇつなぎたかったのー?」


「そうそう。そういうこと」


「へへー。あ、でもまって!」


 涼と手を繋ぐ前に、菜乃花は瑞姫の方を振り返り、「みずきちゃん、またねー!」と右手をぶんぶん振り回した。瑞姫も笑顔で手を振り返す。


 改めて手を繋いだ兄妹は、今日の晩御飯は何だろうな、なんて話をしながら公園を後にしていく。


 そんな二人の後ろ姿を眺めながら、瑞姫は彼から貰ったペットボトルを額に当てた。


「冷えるなぁ」

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