第76話 賢者カエムワセト

兵達が撤退の準備に勤しむ中、三人の王子達はリラに食事を与えていた。兵糧は残り少なかったが、ぺル・ラムセスは東へ一時間も歩けば着く距離であるし、リラに食べさせる分くらいは残っていた。


 あまりにやつれていたため、自ら食事を摂る事もままならないのかと考えていたが、リラはパンが前に出されると無表情ではあったが黙ってそれを掴み、口に運んだ。

 生物としての欲求までは消えていないと分り、カエムワセトはホッとする。


「それにしても、どうやってお前のとこに戻って来れたんだか。敵将を討った者もまだ分らんし」


 先程まで座っていた寝台に再び腰をかけ、もそもそとパンを咀嚼するリラを眺めながら、ラメセスが不思議そうに言った。


「流れ矢、という可能性は?」


「流れ矢が当たる距離であれは、俺が自ら射抜いていた」


 カエムワセトの考察に対し、ラメセスが頭を振った。


 考え込む弟二人の横で、アメンヘルケプシェフはリラに水が入ったカップを渡そうとする。リラはパンを持っていない左の拳を持ち上げカップに近づけたが、カップを受け取れず困ったように眉を寄せた。


「握ってるから持てないんじゃないか?」


 アメンヘルケプシェフがリラの左の拳を人差し指でつついて指摘したが、リラは拳を開こうとしなかった。終いには、諦めたように拳を下ろす。


「何か持ってるんじゃないか?見せてみろ」


 ラメセスが身を乗り出し、リラの拳に手を伸ばした。

 リラはぼんやりしていた顔を瞬時に引きつらせると、素早い動きで身を引いた。

 驚いている三人の前で、


「おまもり!」


 と叫ぶ。


 まさかリラがこれほどに素早い動きができると思っていなかったラメセスは、身を乗り出した姿勢のまま、兄と弟と顔を見合わせる。


「見せてくれないか?」


 カエムワセトが掌を差し出した。しかし、リラは首を横に振って頑なに拒否した。

 今度はアメンヘルケプシェフが語りかける。


「誰も盗らない。手を開けて見せてくれたらいい」


 ほら、こうやるんだ。とアメンヘルケプシェフは幼い子に接するように、自分の左手で同じように拳を作り、掌側を上にしてゆっくりと開いて見せた。


 リラはアメンヘルケプシェフの左拳が開かれていく様子を見ると、同じように左拳を前に出し、そろそろと開く。


 その汚れた掌の上には、シンプルな金細工の装飾品が三つ、転がっていた。

 瞠目したカエムワセトが思わず身を乗り出したので、リラはまた慌てて拳を握り、三つの装飾品を胸元に引っ込めた。


「見覚えがあるのか?」


 ラメセスからの問いかけに、カエムワセトは「私の耳飾りと指輪です」と答える。


「でもこれは、ダプールでライラに預けたはず……」


 考え込むように言葉を切ったカエムワセトだったが、やがて一つの回答に至り、強張った面を上げた、


「リラを私の元へ送り、将を討ったのはライラです!」


 ダプールに残されてきたはずの弟の腹心の名を出され、兄二人は戸惑った。


「しかし、ライラがこっちに合流したという話は聞いてないぞ」


「リビア側にいたんです!」


 ラメセスにそう答えを返し、カエムワセトはつんのめるようにバタバタと天幕を出た。そして、戦後処理で慌ただしく兵達が行き交うエジプト陣営の中で、空に向かって「サシバ!」と叫ぶ。


 何度かの呼びかけの後、ダプールからついてきた一羽の鷹は、集合する天幕の向こうから滑空すると、カエムワセトの右肩に舞い降りた。

 サシバを左前腕部に移動させたカエムワセトは、その黄金の瞳に掌をかざした。


「すまないサシバ。お前の右目を貸してくれ」


 黄金色の瞳の前で何かを掴みとる仕草をすると、それを自分の右目に当てる。掌が眼元を離れた時、カエムワセトの右目は猛禽類の金色に。サシバは人間の深い茶色に変わっていた。


「ライラを探せ!」


 カエムワセトは鋭く命じると、サシバを空へ放った。




 ライラを追うリビア兵達は三十名前後。大きく揺れるラクダの上から、器用に弓を射ってくる。

 

 飛んでくる矢を剣で払い、自らも矢を射ってラクダから敵を落とし、槍を避けながら、ライラは逃げ続けた。ーーが、やがて岩場に追い詰められる。

 切り立った崖の下に辿り着いたライラは、頂を見上げた。

 よじ登るには足場が少なく、触れると表面がボロボロと剥がれた。

 後ろを振り返ると、周りは既にリビア兵に囲まれていた。

 逃げている最中は気付かなかったが、避けたつもりだった矢の何本かは腕や足をかすったようで、細長い傷口には血が滲んでいる。


 応戦するため矢をつがえようとしたところで、左肩を射抜かれた。衝撃と痛みで思わず弓を取り落としそうになったが、気合いで堪えた。


 口元に髭をはやしたリビア兵がラクダから降り、腰の剣を抜いた。


「死ぬ覚悟はできたか。エジプトの女」


 兵士はご丁寧にも、エジプト語で話してきた。母国語であるベルベル語の訛がある。


「馬鹿なことを聞くな。死ぬ覚悟なら、入隊した時点で既にできている」


 ライラは痛む左肩を押さえながら返した。続けてリビア兵を挑発しにかかる。


「それとも、リビア人は兵も将も、死ぬ覚悟なしに戦場へ出るのか?」


 恐れるな。命惜しさに謙るな。エジプト人の誇りを見せつけろ。死ぬる時も雄々しく胸を張れ。


 鬼の大将軍ラメセスからの教えである。ライラはこの教えを、愚直に守り続けて来た。


 追い詰めたエジプト兵から嘲笑われ、リビア兵達は憤怒に震えた。

 一人の弓兵が、馬鹿にするなと言わんばかりに、ライラの右大腿部を打ちぬいた。


 焼け付くような痛みが右大腿部に走る。筋肉が収縮と弛緩を繰り返すたび、激痛が走った。立位を保てなくなり、ライラは膝立ちになる。

 それでも反撃してやろうと矢筒に手を伸ばした。それを再び、リビア兵が矢を射って阻止する。リビア兵が放った矢はライラの右前腕部を軽くかすめて後方の岩場にささった。


「カラル司令官は息を引きとられる最後の瞬間まで、リビア軍の指揮をとろうとなさった! 撤退命令があの方の最後の言葉だ! そのような素晴らしい方を殺した貴様を、俺は絶対に許さん!」


 最後に矢を放った弓兵が唾を飛ばし怒鳴りつけて来た。


「それがどうした!」


 ライラはすぐさま吠えて返した。


「指揮官が最後の瞬間まで隊を案ずるのは無論だ! それが上に立つ者の最低条件だ! そんな事すら当たり前にできないからお前達はいつまでたっても安住の地を持てないんだ!」


 勢いに任せて口に出した後半は、当然ながら余計にリビア兵達の怒りを煽った。憤怒に顔を赤らめた兵士達がライラに向かって一斉に武器を構える。


 自分の存在がカエムワセトの弱みになると自覚しているライラには、捕虜になる選択枝は無かった。敵陣で将を射抜いた以上、後は殺されるしかないと覚悟していた。ならば最後まであがいてあがいてあがきまくって、エジプト兵の恐ろしさをリビア人に叩きこんでから殺されようと。


 だがライラは心変わりした。こんな低劣な連中に首を取られるくらいなら、自ら首を切った方がマシであると。


 ライラは腰の剣を素早く抜くと、その切っ先を喉元に向けた。この剣は、天幕でリビア兵から奪った物である。矢筒に手を伸ばせば一斉に矢を射られかねないので、仕方が無い。自害するなら自国の武器で死にたかったが――。


「まて!」


 リビア兵の誰かが叫んだ。ライラを囲む兵達の気配に、狼狽と殺気の双方が強まる。


 誰が待つか、とライラは正面のリビア兵を睨みつけると、刃の腹を右の首筋に押し当てた。


 一気に刀を引こうとしたその時、鷹の高い鳴き声が聞こえた。



 

 ライラは剣を前に引けなかった。突然目の前に砂の柱が渦巻き、そこから伸びてきた両手がライラの刃を掴んだからである。


「よかった――間に合った」


 興奮で起伏が大きくなっているその懐かしい声の主は、砂が落ちる音と共にライラの前に現れた。

 汗ばんだ額の下で、大きく目を見開いたその人物は、息を切らせたように肩を大きく上下させていた。不安定な輝きを放つその深い茶色の瞳が、萎んで消える炎のように、みるみるうちに落ち着いてゆく。


「殿下……」


「ライラなら絶対こうすると思っていたんだ」


 刃を掴む両手から血を滴らせながら、カエムワセトは呆けたように自分を見上げる忠臣からそっと剣を取り上げた。

 続いて、面食らっているリビア兵達に振り返る。


「もうすぐエジプト軍がここへ来る。死にたくなければ、今のうちに逃げることだ」


 カエムワセトからの忠告に、リビア兵達は一瞬たじろいだ。しかし、先にライラから自国民のメンタリティについて扱き下ろされていただけに、傷つけられたプライドが足を止めさせる。


「ならばエジプト軍が来る前にお前達を始末する!」


 剣を握った兵の言葉を合図に、再度矢が向けられた。


 やはりそう安々とはいかないか。


 カエムワセトは苦々しい表情で敵兵達からの宣告を受け取ると、リビア兵達にとっては将の敵であるライラに顔半分振り返った。


「ライラごめん。実はこの転移を最後に魔力が尽きたんだ」


「あ……」


 カエムワセトに再会できた安堵。そして、めまぐるしく変化する周りの状況についてゆけず、混乱を極めたライラは声が出せなかった。それどころか、左肩と右腿を貫かれている強烈な痛みで視界がザラザラと不明瞭になり始めた。貧血を起こしかけているのだと自覚した。


 駄目だ。今気を失えば殿下の御命が――。


 ライラは必死に意識を繋ぎとめようと努力呼吸を繰り返したが、やがて視界は暗転し、二本の矢に貫かれたその身体は砂の上に倒れた。


 忠臣が気を失った事に気付いたカエムワセトは、横たわるその身を守るため、ライラの正面に移動する。


「さて。兄上達が来るまでどう保たそうか……」


 自分が駆け付けても変えられなかった絶体絶命の状況を悔しく思いながら、カエムワセトは疲労でぼやけている頭を必死に働かせた。



 ダプールの水盤前では、残された仲間達が慌てふためいていた。


「こらライラ!なに気絶しとんじゃ!貴族の姫さんじゃねえんだぞ!起きろ、お前は戦士だろー!」

「アーデスさん落ち着いて! 叫んだって聞こえませんよ」


 水盤の淵に手をかけ、覆いかぶさるようにして水面に向かって怒鳴るアーデスを、テティーシェリが押し戻した。


 ジェトが、掴みかからん勢いでアンナを詰問する。


「魔術師になったんじゃないのかよ!? なんで魔力が尽きるんだよ!?」


「魔術師とて魔力は有限です」


 アンナは冷静に答えた。


 そうだった……。


 その場の全員が同じような面様で肩を落とした。


 派手な覚醒だっただけに、誰もがカエムワセトは神の如き力を手に入れたと勘違いしていたのである。魔術師も人間。大きな魔術を使い続ければ魔力は枯渇して当たり前だった。


「アンナさん! 今すぐ俺をワセトの前に送ってくれ!」


 アーデスがダプールの魔女に懇願する。


 ライラに続いてアーデスまで。またか、とアンナは閉口した。


「無理です。新たに道を作る力はまだ戻っていません」


 今でも水盤を映し続けるのがやっとだと説明する。


「道ならあるぜ」


 ラムセス二世の言葉に、全員が弾かれように注目した。


 注目を浴びる事に慣れているファラオは、熱烈な視線に怖気づく様子も無く悠々とした所作で水盤を指し示す。


「この部屋で拾われたドゥアイトが濡れてたんなら、出口はこの水盤しか考えられねえだろ。この水盤を潜れるサイズの奴なら行けるんじゃねえか?」


 なるほど! と、全員が瞳を輝かせた。今度はアンナに注目が集まる。


 アンナは気圧され二、三歩後退したが、はっきりとした口調で回答する。


「けれど入口がどこにあったか分りません。おそらく、エジプト陣営のどこかであったとは思いますが、殿下のまん前にでも出ない限りこの状況を打開するのは難しいでしょう」


「入口だけ変える事はできねえのか?こいつらの前あたりに」


「殿下の前あたりに水があるのなら」


 ラムセス二世とアンナの問答は、ダリアの「砂漠のど真ん中だよ。あるわけないよ」という絶望的な呟きで終わった。


 しばし重い沈黙が落ちた後、パシェドゥが思い出したように「あ」と顔を上げた。

 左右対称に広角を引き上げ、両目を三日月型に細めると、口元に手を当て含み笑う。


「知ってた? 人間てね、殆ど水で出来てるのよ」


 調薬師のパシェドゥは、研鑽の為にミイラ職人からも人体の構造及び機能の知識を得ていた。その中で、ミイラ職人が口にしていたのである。『人体は固体であるが、その重量は殆どが水分によるもので、ミイラ化した後にはその体重は約1/5にまで減少するのだ』と。


 人体の水分を扉に道を繋ぐ。


 過去同じような試みをした者は恐らくいないであろう、無謀な発想だった。



「私は魔術師だ。お前達が捕えた魔術師の攻撃を防いだのは私だ。お前達がここで矢を放てば、私は瞬時に全ての矢をお前達に返す事ができる」


 カエムワセトは心理戦を試みていた。勿論、これは虚言である。剣の切っ先をリビア兵達に向け、さも自信ありげに見えるよう、あえてゆっくりとした動作で敵方の兵士達をなぞるように剣先を左右に滑らせてみせた。

 実際は、今のカエムワセトの魔力量は普通の人間以下である。情けない事に、呪文すら使えない。 


「お前達が大人しくここで退散するのであれば、深追いはしない。大人しく撤退中のリビア軍に合流したらどうだ?」


 必死に平静を装いながら喋り続ける。


「ハッタリだ!」


 弓を構えたリビア兵が怒鳴った。


「やってみればいい。だがその時はお前達全員、命は無いと思え」


 答えながら、カエムワセトは冷や汗を流した。ここでもしこの男が矢を射れば、嘘が露呈し、一斉に矢を射られるだろう。

 剣の柄が自身の血でぬるぬると滑る。カエムワセトは緩やかな呼吸を意識し、切っ先が震えないよう細心の注意を払った。


「分った。試しに俺が撃つ」


 一人の若い弓兵が前に進み出て弓を構えた。天晴れな勇気と自己犠牲心である。


 しまった。

 カエムワセトは奥歯を噛んだ。


 己の死を厭わない者がいれば、カエムワセトの心理戦は破綻する。


 詰んだ。


 カエムワセトは覚悟を決め、すぐにでもライラに覆いかぶさりに行けるよう片足を引いた。


 その時、全身の血が沸き立つ様な感覚を覚えた。強烈な吐き気に襲われ、思わず口を押さえて身をかがめる。

 声が聞こえた。『身体曲げんな!しっかり立ってろ!』と。その声は、耳にではなく、血潮を介して全身に響いていた。


「――ジェト?」


 少し険を帯びたその声は、馴染み深い近臣の物である。


 目の前のリビア兵達が、慄いた様子で後ずさった。


 胸から腹にかけて、違和感を覚えたので見下ろすと、違和感を覚えた部分に真っ黒い穴が開いていた。その穴から腕が一本、にょきりと生える。

 次の瞬間には、その穴から人が一人、飛び出していた。



 無事にカエムワセトの身体から外に出られたジェトは、主人の腹を足掛かりにして前に跳躍した。着地を終える前に正面で弓を構えていた兵士の弦を切断し、喉を切り裂く。


 逆手に構えた二振りの短刀で一瞬にして絶命させられた弓兵は喉から血しぶきを上げると、両目を見開いたまま砂地に倒れた。


 カエムワセトの脅しをハッタリだと疑っていたリビア兵達は、ジェトが現れた事で虚言を信じた。怖気づき、わらわらとラクダに乗って退散してゆく。


 そこにようやくラメセスが兵を引き連れ戦車に乗って現れた。戦車から矢を射るラメセスとエジプト兵達は、ラクダの上からリビア兵を射落とし、残りを戦車で囲いこんでゆく。


「これ、俺が来る必要なかったんじゃね?」


 小柄で尚且つ戦えるという理由で、満場一致で助っ人に任命されたジェトは、次々と拘束されてゆくリビア兵達を半眼で眺めた。


「ジェト……なんて、無茶な事を」


 ジェトに足がかりにされ仰向けに倒れたカエムワセトは、何が起こったかようやく理解した。倒れた拍子に強打した後頭部さすりながら、上体を起こす。

 体幹前面にできた出口は消えて、元の身体に戻っていた。


「無茶でも無謀でも何でもやるでしょうよ。これでも誇りを持って仕事してるもんで」


 言いながら両手の短刀を両腿に縛った柄に納めたジェトは、カエムワセトに歩み寄る。

「ん」と右手を差し出した。掴め、という意味である。


「剣だって俺、あんたよりは才能ありますよ。アーデス仕込みですけどね」


 と、武器戦にめっぽう弱い主人を見下ろし得意げに顎を上げる。


 カエムワセトは「知ってるよ」と笑いながら、フクロウに似た目をした戦友の手を取った。



 矢傷は致命傷ではなかったが、発熱した事もあり、ライラはそれから三日間眠り続け、更に三日、朦朧とした意識の中で過ごした。

 幾度か口に、水やミルクで煮込んだパンが運ばれ、包帯を替えられ、体が拭かれたりした記憶はあるが、夢の中の出来事のようにぼんやりとしていた。

 目覚めを自覚した時には、見慣れた自室の天井が、眠り過ぎてぼやけた視界に最初に映った。

 重い頭を右へ動かすと、カエムワセトがベッドに突っ伏している姿があった。


「殿下!」


 驚いて身を起こすと、左肩と右足に激痛が走った。一瞬遅れて眩暈が起こる。再び貧血に襲われ、前のめりに身体を支えたところで「ライラ?」と声がかかった。

 見上げると、心配そうに覗きこんでくるカエムワセトの顔があった。死んでいたのではなく寝ていただけだと分り、ライラは心底安堵する。


「安心して寝て良いよ。もう全部終わったんだ」


 カエムワセトは穏やかに微笑み、ダプールとリビア双方の戦争終結を伝えた。

 そして、メンフィス在住の宮廷医であるライラの父が負傷者治療のためぺル・ラムセスに赴いている旨を告げたカエムワセトは、ライラの父を呼んでくるからこのまま横になっているよう言って立ち上がりかける。

 立ち上がりかけたところで、ライラに胸倉を掴まれ、前につんのめった。

 ライラの上に倒れ込みそうになり、慌てて両手をつく。


「もう二度と、私を置いて行かないでください!」


 カエムワセトの耳を、ライラの叫び声がつんざいた。


「危険な目に遭われるのなら、私の目の前にして下さい! お亡くなりになる時は、私の後にしてください!」


 主の耳元で泣き叫びながら、ライラは両手に掴んだ白い服を力の限り何度も揺すった。

 いつものライラであれば、主に対する乱暴狼藉として絶対にしない行為である。


 カエムワセトはライラの傷ついた肩を痛めないよう気遣いながら泣き叫ぶ忠臣を腕に抱いた。

 柔らかな赤毛が頬に触れる。自らも泣きたくなる衝動を抑えながら、温かな首筋に顔を埋めた。


「隣にいてくれ」


 と囁く。


「一緒に生きよう、ライラ」


 城外で歓声が聞こえた。

 ラムセス二世がダプールから凱旋を果たしたのである。

 これから昼夜問わず、エジプトでは凱旋祭が行われる。ラムセス二世は各都市を回って神殿を礼拝し、ぺル・ラムセスの王宮に帰還すれば宴会やパレードが催され、民衆は熱狂する。勲をたてた者には大量の褒章や然るべき身分が与えられる。いずれカエムワセトにもお呼びがかかるであろう。

 そうなればもう、腑抜けではいられない。

 

 民衆はまた、カエムワセトに新たな二つ名を与える事だろう。

 賢者でも魔術師でも何でもいい。カエムワセトは微笑んだ。

 今はただ、この穏やかな時を過ごせれば。


 賑やかな話声に併せて、廊下を走る幾つもの足音が聞こえて来た。

 あとほんの一秒だけ。カエムワセトは、人生を共に歩むと決めた相手を抱きしめる腕に力を込め、涙に濡れている横顔に頬を寄せた。



 カエムワセトはその後、神官として、また文官として、エジプト史に多くの業績を残した。とりわけ、古記念物の調査を行い遺跡の修復に尽力した働きは、後に『最古のエジプト考古学者』として現代までその名を知らしめる。

 ラムセス二世治世下25年頃メンフィスのプタハ大神殿の最高司祭に就任。他、メンフィス知事や宰相の任も務め上げた。

 長兄アメンヘルケプシェフ、次兄ラメセスの死後、自身も皇太子を務めたが、ラムセス二世治世55年ごろに死去。なお、彼の墓は兄弟が埋葬されている王子共同墓地KV5にはなく、未発見のままである。

 妻について詳細は不明であるが、息子二人、娘一人に恵まれたことが知られている。

 長男ラムセス、次男ホリは両名ともプタハの神官職に就き、ホリは最高司祭に就任した。娘のイシスネフェルト二世についてはカエムワセトの実弟、第13王子メルエンプタハの妃になったという説がある。

 

 ラムセス二世は第19王朝を代表するファラオとしてその名を馳せた。

 治世21年にエジプト・ヒッタイト間で締結した和平条約は歴史上初と言われている。

 存命中は多くの神殿を建設し、建築王の異名を欲しいままにした。

 長命で、即位以来70年に渡り王権を維持。90歳まで生きたとされている。故に、上の息子達は王太子に就任するも次々と死去。ようやく後継ぎとしてファラオの地位に就いたのは、13番目のメルエンプタハであった。


~完~

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砂漠の賢者 第二幕~オリエントの覇権闘争~ みかみ @mikamisan

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