第75話 第三王女、ネフェルタリ

「どうだ。魔術師は」


 天幕に入って来たラメセスからの問いに、カエムワセトは瞳を伏せると「いえ……」と曖昧に返した。


 リラは簡易式ベッドの端に人形の様に座り、カエムワセトはその前に跪いている。

 敵将との繋がりが断たれた事で幾ばくか目の焦点が合うようになったリラではあったが、まともな会話はできなかった。リラの中では多くの物が壊れていた。心、言葉、記憶。リラはカエムワセトとの思い出も、自分の名前も、もはや自分が何者であるかすら分からない様子だった。


「何を質問しても、不思議そうに見返してきます」


 酷く傷ついた様な顔で、カエムワセトはラメセスにリラの容態を説明した。


 天幕にリラを連れて入ってすぐに、カエムワセトは「痛む所はないか?」と、リラに問いかけた。

 リラは「いたむ?」と復唱して首を傾げた。

 来るのが遅くなってごめん。と詫びれば、何の事か分らぬ。といった具合に眉をひそめた。

 どうもおかしい、と思い、「私を覚えているか?」と、カエムワセトは聞いた。リラは「わたし……」と再び復唱しかけたが、困ったような顔で黙りこんだ。

 カエムワセト、とゆっくり言って聞かせた。何の反応も示さないリラに、ライラ、アーデス、ジェト、カカル、ハワラ、パバサ、イエンウィア……。リラが知っているはずの名前を列挙していった。リラは、もういい、とばかりに首を横に振った。


 カエムワセトはラメセスへの説明を終えると、もう一度リラの両手を取り、「君はリラだろ? リラだ」と祈る様に最後の質問を投げかけた。が、リラはやはり首を横に振るばかり。


 ラメセスは、怪我を負った動物を見る様な目で、カエムワセトに「もうやめておけ」と忠告した。


 カエムワセトは質問を諦めはしたが、語りかける事はやめなかった。


「……リラ、私はね。君と同じ魔術師になったらしんだよ。イエンウィアとパバサが私の器を広げてくれて、アンナという人が、魔術師になる手助けをしてくれたんだ。君がやっていたみたいに、空間を移動してここに来たんだよ」


 魔術師、という単語に、リラの手が小さく震えた。僅かながらもリラが反応を見せた事で、カエムワセトは期待を込めた眼差しでリラの顔を覗きこんだ。

 しかし、リラは「まじゅつし…… まじゅつしは……」と小さく唇を動かすと


「まじゅつしは、リビアにふくじゅうし、エジプトをころす」


 と、感情の無い声と表情で続けた。


 カエムワセトは言葉を詰まらせると、苦しげに俯き、拳を握りしめた。


 ただ一つ、リラの中で残っているまともな言葉がこれか。


 おそらく、拷問に併せて徹底的に刷り込まれたのであろう。言葉の意味を理解しているのかどうかすら怪しい。


「兄上」


 カエムワセトは震える声でラメセスを呼んだ。


「目を閉じていて頂けませんか」


 リラを見つめながら、腰の剣に手を伸ばす。


「いや、見届ける」


 ラメセスは低い声で静かに言うと、腕を組んだ。


 カエムワセトはラメセスに見守られながら、冷たくなった指先でリラの頬についた汚れを落とすと、その下にある痩せ細った肩を柔らかく掴んだ。笑顔が引きつらないよう努力し、ぼんやりとしているリラに語りかける。


「リラ。たくさん魔術を使ったからお腹がすいたろ?ケーキを作ってもらおう。リラが好きな蜂蜜のケーキを。……それから、籠いっぱいのデーツも、無花果も。……身体を洗って、服を着替えて……」


 腰を浮かせ、リラの額に自分の額を合わせた。リラは拒まなかった。カエムワセトは腰の剣を抜いた。


 カエムワセトは涙が滲んだ声で「リラ」と最後に名前を口にすると、切っ先をリラの腹に向けた。


「ゆっくり眠れ」


 リラの肩を握る手と柄を握る手に力を込めたその時、


「待て」


 新たな声がカエムワセトを制した。


「アメンヘルケプシェフ」


 目覚めたのか。と、幕の隙間から身体を滑らせるように入って来た人物を見たラメセスが、目を見開いた。


 アメンヘルケプシェフは青白い顔で負傷した横腹を押さえながら、カエムワセトとリラに歩み寄ると、カエムワセトの横に並んで跪いた。 

 リラに問いかける。


「久しぶりだな、リラ。俺を覚えているか?」


 不思議そうに見返してくるだけのリラに、アメンヘルケプシェフは「そうだよな」と笑った。

 俺達は会話すらしていないからな。と付け加える。

 そして、「じゃあ、こうしよう」と微笑むと、アメンヘルケプシェフはリラを指差した。


「お前はネフェルタリ。俺の妹だ」


 次に、指差していた手を引っ込め自分の胸を軽く叩くと、


「兄が迎えに来たぞ。一緒に帰ろうな」


 と言う。


 驚愕した弟二人は、揃って言葉を失った。


「……お前、本気か」


 ラメセスがやっと口を開いた。

 アメンヘルケプシェフは立ち上がり、リラを抱き上げると、ラメセスに振り返る。


「丁度第三王女の席が五年前から空いている。問題ないだろう」


 アメンヘルケプシェフの実妹である第三王女ネフェルタリは、五年前に病死していた。そこに、リラを据えようというのである。

 ちなみに、第四王女はリラよりも年上だった。


 失血のあまりボケたか、という言葉をラメセスは飲み込んだ。


「兄上。しかし……」


 カエムワセトは戸惑いながら、リラを抱き上げている長兄を見上げた。


 カエムワセトを見下ろしたアメンヘルケプシェフは血の気の無い顔で、しかし、はっきりと言う。


「確かにこの娘の魔術で多くのエジプト兵が命を落とした。だが、この娘一人が背負うべき罪ではない」


 それに――と瞼を伏せて続ける。


「命をもってあがなわせたところで、我々の手には何も戻らんよ」


「購わせるのではありません!リラにはもう、自分の魔力を制御できるほどの精神がありません。もし暴走したら甚大な被害が出るかもしれない。生かしておくには危険すぎます」


 カエムワセトは語気を荒げた。


 カエムワセトも、リラに罪を背負わせようとは思っていなかった。ほんの少しでも意思疎通が可能であれば。言葉が交わせる状態であれば。壊れた心を修復できる余地があれば。カエムワセトはリラを囲い、精神の修復に努めるつもりだった。

 しかし、自分自身が魔術師と同等の力を得た故に、痛いほど分かるのである。正気を失った魔術師は、災厄でしかない。


「随分と悲観的じゃないか。お前らしくないな」


 アメンヘルケプシェフは項垂れるカエムワセトの後頭部に小さな笑い声を落とした。


「この少女はお前の恩人じゃないのか?それを殺すなど、マアトの倫理に反するぞ」


 カエムワセトは顔を上げ、再び「しかし――」と反論した。アメンヘルケプシェフは「杞憂とは言わん」と被せた。


「だが暴走など、するかもしれんし、しないかもしれん。不確かな未来を恐れて手にかけるほど、この娘の命はお前にとって軽いものではないはずだ」


 言葉だけを取ると、用心深いアメンヘルケプシェフが下した決定であるとは思えなかった。失血で判断力が鈍っているのだと皇太子を知る者であれば誰もがそう思うはずだ。

 しかし、アメンヘルケプシェフは確信していた。今リラを手にかければ、カエムワセトの中で確実に何かが壊れると。暴走する不確かな未来と、弟に訪れる確かな崩壊を天秤にかけた結果、導き出された措置がこれだったのである。


 兄の意向をくみ取ったラメセスが、仕方が無い、とばかりにため息を吐いた。


「カエムワセト。お前の目の届くところに居ればひとまず安心だろう。ネフェルタリとして暮らして、もし思い出せばまたリラに戻ればいいさ」


 アメンヘルケプシェフがそう言った時、その腕の中で「おなかすいた」という小さな呟きが聞こえた。


「おなかがすいた……」


 ポツリと二度目を呟く。


「そうだなネフェルタリ。何か食べよう」


 ようやく自らの言葉で伝えて来たリラに、アメンヘルケプシェフは微笑んだ。


 カエムワセトは長兄に抱きあげられているリラを見上げた。


 リラはもはや、カエムワセトが知る少女ではなくなっていた。当たり前にあった薄い微笑みは消えてなくなり、囁くような口調もどこかへ行ってしまった。

 人形のようなリラは、一見、壊れていた。しかし微かにではあるが、生きようとする意志は感じられたのである。

 本当にこれでいいのだろうか、という懸念は残った。しかしカエムワセト自身、もうリラを手にかける事は出来なかった。


「あにうえ」


 カエムワセトは見守り役をかって出た長兄を、涙が溢れる寸前の両目でとらえた。

 穏やかに微笑むアメンヘルケプシェフの姿を目にした途端、左の眦から最初の一滴が零れ落ちた。そこからは、とめどなく溢れ出る涙を抑えられず、カエムワセトは俯いた。雫が落ちないよう両手で何度も眼元を拭くが、追いつかない。


「ありがとうございます……ありがとう」


 時折鼻水をすすりながら、床を濡らす。


「男が泣くな。みっともない」


 子供の様にむせびなく弟に、アメンヘルケプシェフは温かな笑いを含んだ声で言った。

 

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