匂いの記憶 (春の匂い)
帆尊歩
第1話 春の匂い
「では以上です」と引っ越し屋さんは、あたしに頭を下げた。
「ご苦労様です。よろしくお願いします」
荷物の送り先は実家だから、別に慌てる必要はない。
引っ越しと言っても単身パックだから、なんと軽トラで済んだ。
あたしは大家さんの呼び鈴を押した。
大家さんの奥さんが出てきた。
うちの母と同い年だ。
「終わったの?」
「はい。四年間ありがとうございました」とあたしは頭を下げる。
「寂しくなるわね。手紙ちょうだいね」
「もちろんです。東京に来ることがあったら顔出しますね」
「楽しみにしているわ」
「あと最後、ありがとうございました。ちょっと延長してもらって。三月だと引っ越し屋さんが高くて」
「うんうん、こちらこそ。次の人が二ヶ月遅れるから、逆に助かったわよ」
「いえ」
「もう行く?」
「もう少し、最後の荷物をバッグに詰めたら」
「そう」
「最後にもう一度顔を出します」
「ええ」
あたしはこの春大学を卒業した。
すでに四月だ。
本来は新しい人が入る時期なので、あたしはここを引き払っているはずだった。
でも卒業したと言っても、別にどこかに就職したと言うことではないので、別に急がない。あたしの次に入る人は事情があって二ヶ月入居が遅れるので、実家に帰るだけなら、もう少し居ないかと大家さんに言われた。
家賃は半額で良いと言われた。
引っ越し屋さんも繁忙期なので、料金が倍以上になる。
家賃半額ならその方が得になる。
だからあたしは卒業して、他の部屋に新しい人が入っても居座った。
おかげで完全フリーの状態で、東京見物が出来た。
おそらく今部屋に戻るのが最後だ。
後は荷物を持って出て行く。
あたしは、何もなくなった部屋に寝そべって、天井を見つめた。
部屋に残っているのは、大きなショルダーバック一つ。
開け放たれた窓から、暖かな風が入って来た。
一枚の桜の花びらとともに入って来た風を、あたしは春の匂いだと思った。
この匂いは嗅いだことがあるはずなのに、四年間嗅いでいたはずなのに。
あたしは四年前、初めて東京に出てきた時を思い出す。
なぜ今なんだ。
四年前、初めてこの部屋で一人で寝たとき、天井の模様が何だか恐かった。
前日まで、入学式や手続きで母がいたが、その日の朝帰って行った。
一人暮らしが初めてで、生まれて初めて一人の家で寝た。
天井は木の木目が見えるような、板張りだった。
波のような模様は動いて見えて、節は何かの目のようだった。
ここで暮らして行くのかと思って、急に寂しくなった。
でもそれ以上に期待が大きかった。
四年前の春、あたしは大学に入るために上京してこの部屋に住んだ。
親に迷惑を掛けたくなということで、家賃の一番安い部屋を借りた。
とはいえ、十八の小娘である。父と母はあたしには隠していたけれど、相当心配したようだった。
そして見つけたのがこの部屋だ。
オンボロアパートだけれど、大家さんの家の敷地に建っていて、大家さんの玄関の横を通る形で部屋に入る。
そのせいで大家さんの監視の目が行き届いている。
それを売りにしているようで、これほどオンボロでセキュリティーなど、なきがごとしなのに、女の子ばかり住んでいる。
何かあれば親に連絡が行くという迷惑なシステムが、娘を思う親からすると、これほどありがたいことはないらしく、みんな親からの強制で住んで居るらしい。
四年前、東京で一人暮らしをはじめた。
冬の厳しいところからやってきたあたしにとっては、東京のポカポカした空気は、初めて嗅ぐ空気だったように思う。
春の香り。
これはどんな匂いと言われると分からない。
暖かい空気としか言いようがない。
きっと何かの植え込みや春に芽吹く、木々の香りの集合体なんだろうと思うけれど、家具のなくなった部屋で、開け放たれた窓から入ってくる空気を嗅ぎながら、四年前を思い出す。
期待に胸を膨らましてやって来た東京。
きっと輝かしい未来がここから開けると思っていた。
確かに楽しかったとは思う。
友達も出来た。
世間的な女子大生としての生活をして、四年間過ごした。
でも、実際の生活はどこでも同じ。
別に都心に出るのは、友達と遊びに行くときだけだし、バイトはしたけれど、近くのパン屋さんだし、サークル活動のほとんどは学校の部室。
だからあたしの生活は、学校とバイト先と、このアパートの三角形。たまに遊びで四角形になるだけ。じゃあ何がしたかったんだと言われれば、何も答えられない。
だから実家に帰る。
おそらく実家に帰れば、どこかでバイトくらいして、高校の同級生辺りか、親の紹介の誰かかと見合いでもして、結婚して、地元で暮らして行くだろう。
なら別に東京なんて出なくても。
そう東京に来たことは何にもならなかった。
あんなに行きたかった東京、でも何もなかった。
昨日まで、もう東京に未練なんてない、と思っていたのに、なぜ春の匂いを嗅いで、東京に行きたいという思いを思い出す。
そうだあんな気持ちだったと、四年間の生活に埋もれて忘れていた。
東京に来たいと思う気持ち。
あの思いを実現するために、あたしは東京に来たのに、何も残さず、実家に戻る。
それでいいのか。
あたしはショルダーを背負って、四年間住んだ部屋を出て鍵を掛けた。
もう二度とここには帰ってこない。
何だか変な感傷に浸っている自分がおかしかった。
そんな事、思いもしなかったのに。
大家さんに最後の挨拶をすると、あたしはブラブラ歩き出す。
辺りは春の風の中だ。
この家の生け垣、何だかとても綺麗。
この家変な形。
こんな所に桜、と言うかこの木、桜だったんだ。
この家、大きい庭でバーベキューが出来そう。いやカマドみたいのが見えるから、やっているんだ。
どうしてだろう四年間見向きもしなかった近所のこと、この最後の日にやたら発見がある。
小さな児童公園。
ここにも桜が咲き乱れて居る。
近くの保育園の子供たちが、先生に連れられて遊びに来ている。
あたしは、誰もいなベンチに座って、頭の上の桜を眺めた。
桜って綺麗だな、と自然と口にでる
あっ春の風だ。
風は見えないのに、桜の花びらの動きで、風が見える。
遊ぶ子供たちの声が心地良い。
のんびりとして、気持ちがいい。
こんな良いところに住んでいたのに、なんで気付かなかったんだろう。
もったいないことをした。
不思議だなとあたしは思った。
東京の最後の日に。
新宿や、渋谷、遊びに行ったところではなく、こんな何気ない近所の風景を一番懐かしく思うなんて。
春の匂いが、あたしの一番目にした、記憶を呼び起こしたからかな。
さあ帰ろう。
何もなさなかった東京、でもこんな何気ない風景と心地の良さ、それだけでも持って帰ろう。
東京に来て良かったと思えるように。
匂いの記憶 (春の匂い) 帆尊歩 @hosonayumu
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