第2話 偽りの妻
朱音が遠ざかる千坂を見送っていると、背後から声がした。
「千坂さんは元気なの?」
母親の
彼の黒い影は闇にまぎれ、知世には見えなかっただろう。彼女は、朱音が千坂と付き合うのに反対していた。理由は、彼が不治の病に冒されているからだ。それを強く言わないのは、夫の
「ええ。今のところは」
朱音は冷たく答えて屋内に入った。
「同情と愛は違うのよ」
知世の言葉は嫌味ではない、純粋に娘を案じてのことだ。それでも朱音の胸を鋭くえぐった。
「もう! わかっているわよ」
18歳にして大学3年の天才も、親に対しては子供だった。階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込んだ。苛つく心を沈めるために科学雑誌の医学論文を読み始めたのは天才ならでは、というところだろう。
深夜、千坂からメールが届いた。
〖やはり、明日を最後にしよう。クマムシを迎えに来てくれ〗
「どうして!」
声と同時にしなやかな指が激しく動く。
【どうしてよ?】【私は嫌よ】
何度かメールを送ったが、千坂からの返信はなかった。
片思いでないという自信がある。彼は私のことを思って別れようとしているのだ。好かれていないのなら部屋に上げてもらえることも、高価な顕微鏡を用意してくれることもないだろう。
飛び入学をするような朱音には、中高校の同級生は子供に見えて深くつながることができなかった。そんな彼女にとって、千坂が、お互いに理解しあえる友人であり、兄であり、恋人なのだ。
「絶対、別れてあげないから」
朱音はスマホに映る千坂のアドレスに向かって宣言した。
その夜は熟睡できなかった。論文を3本ほど読み、2時間ほどウトウトしたところで陽が昇った。
朱音はトーストを冷たいミルクで胃袋に流し込むとすぐに家を出た。
千坂のマンションまで20分、メールの返事がないことにぷりぷりと腹を立てながら歩いた。顔を会せたら、沢山、文句を言ってやろうと思った。
「千坂さん……」
インターフォンのボタンを押して2度読んだ。合鍵は持っているが、早朝に押し入るのは
「千坂さん……」
念のために3度呼んだ。
時刻は8時、まだ眠っている可能性は十分あったが、彼が、もしくは彼と彼女が目覚めるのを待てるほど、朱音は呑気でも忍耐強くもなかった。勝手に家に上り込まないことと、スマホを見ないことが長く付き合うためのパートナーの礼儀だと決めていたが、別れを告げられたのだからそれを守る理由もなくなった、と自分に言い訳して合鍵を使ってドアを開けた。
屋内はシンとしていた。
「亮治さん。いないの?」
玄関先で声をかけた。返事はなく、寝室から見知らぬ女性が出てくる気配もない。
クマムシを迎えに来い、と言いながら留守にしているはずがない。まさか、巨大化したクマムシに食われてしまったとか……。つまらない想像をしながら上がり込むと、パソコンの前の床に倒れている千坂を見つけた。
「亮治さん!」
声を掛けても反応がない。ただ、脈はあった。
朱音は震える手でスマホを握り、救急車を呼んだ。
医学論文を読んでいても、リアルな病人の前では何の役にも立たなかった。ただ、脳の病なら動かさない方がいいとだけ考え、救急車が来るまでの間に千坂が飲んでいる薬や以前の手術時の検査結果など、思い当たるものを集めて救急車の到着を待った。
5分ほどでやって来た救急隊員は、千坂の顔色を見るなり「心臓が悪いのですか?」と聞いた。
「心臓だけではありません。全身です」
朱音が応えると、救急隊員は不可解な表情になった。
「あなたは?」
「妻です」
朱音は嘘を言った。だが、気持ちの上では嘘ではない。
「それでは、一緒に来てください」
救急隊員に誘われるままに救急車に乗ると少し落ち着き、千坂の病歴をかいつまんで話すことが出来た。
「それは厄介ですね」
救急隊員は、千坂が放射線熱傷を受けたことがあり、度々癌細胞の摘出手術を受けていると聞いて顔をゆがめた。その態度に朱音がどれだけ傷つくかなど考えもせずに。
横浜市内の総合病院に収容された千坂は、狭心症の発作で意識を失ったのだと診断され、手術室に運び込まれた。
「奥様はこちらに……」
事務員に呼ばれて入院と手術の手続きをする。あれこれと嘘を書き、手続きが済んだころには手術も終わっていた。
手術室から顔色の悪い千坂がのったストレッチャーが出てくる。手術は成功したと看護師に聞かされ、その場で泣いてしまった。
「カテーテル手術です。最近では比較的簡単になりました」
そう医師に説明されて慰められても、まだ生きた心地がしなかった。
病室に入った千坂は静かに眠っている。顔に血色が戻ってきて初めて、朱音は安堵した。
「子供みたい」
彼の寝顔を見るのはそれが初めてだった。
様子を見に来た担当医がカルテに視線を落とし、蒼い顔をしている朱音に声を掛けた。
「5日もすれば退院できますよ。これまでご主人が受けた手術と比べたら、簡単なものですから」
〝ご主人〟と医師が言うのを聞いた時には喜びと罪悪感を同時に覚えた。
「ありがとうございます。助かりました」
朱音は喜びも罪悪感も腹の底にのみこみ、夫を案じる妻を演じた。
「ただ、ご主人の体力は……。なんというか、普通の人の半分程度です。気を付けたに越したことがない。運動不足なのです。……しかし、病歴を見ると運動しろとも言えないなぁ。かかりつけの病院は、……自衛隊病院ですか……。珍しいなぁ」
医師は手にしたボールペンでカルテをトントンと叩きながら説明した。
「しかし、自衛隊員が運動不足とは……」
彼が小首をかしげる。
「夫は作家です」
「ほう。作家が自衛隊病院……」
目を細め、取り調べをする警官のような視線が朱音とカルテの間を走った。
「結婚前のことです。最初に手術を受けたのがそこで、ずっとそこに通い続けています。何かおかしいですか?」
攻撃は最大の防御とばかりに質問をぶつけた。
「いや……。作家さんなら、ずっとパソコンの前に座っているのでしょう。それは良くない。退院したら散歩するようにしてください。足は第二の心臓ですから、筋肉を動かさないといけません」
医師は、それから二言三言、療養について説明すると病室を出て行った。
夕方、千坂の顔に汗が噴き出した。「ウ、ウッ……」とうなされている。麻酔が切れて夢を見ているのだろう。いや、麻酔が効いていても、夢は見るのかしら?
「亮治さん。大丈夫?」
手を握ると、病人とは思えない強い力で握り返してくる。そして薄らと眼を開けた。
「あ、ああ。……僕は、まだ生きているのか……」
悔しそうに言った。
「何を言うの。まだまだ生きられるわよ」
「朱音か……。すまない……」
千坂が握っていた手を離す。今度は朱音が悔しく思う。
「悪い夢を見たの?」
「いや……」
彼が言いよどむ。誰か、言えない名前があるのだと思った。
「……津波の夢を見たんだ」
「ああ、それで……」
彼が生き残ったことに辛い思いを抱いていることは知っている。
「……原発がなければよかったのにね」
朱音の言葉に彼が顔をしかめた。
「心配かけたね。もう、……家に帰っていいよ。……僕なら大丈夫だ。入院には慣れている」
千坂の紫色の唇が薄く笑った。
「私に“来るな”なんて言うから、罰が当たったのよ」
朱音は心配かけまいと憎まれ口をきく。
「……そ、そうだった。……どうして来たんだ」
朱音の瞳に涙が浮いた。千坂が、クマムシを迎えに来いというメールを送ったことを忘れているのが悲しかった。
「クマムシが……」
千坂の視線が泳いだ。
「……そうか。そうだった。今朝、……餌をやれてない。……すまない」
「大丈夫よ。クマちゃんたちは、亮治さんより何百倍も強いから」
さり気なく千坂の腕を握る。冷たかった。
「まだ日があるだろ?……これからマンションに行って、……持って帰ってくれ。後のことなら、……心配はいらない」
千坂が明るい窓に目をやり、苦しげに言った。
「何を言うのよ。私がいなきゃ、亮治さん、死んじゃうじゃない!」
朱音は涙をこらえて言った。
「僕が死ぬことは決まっているんだよ。今更、じたばたしたくない」
「ウソ!」
「ウソじゃないよ」
「ウソよ。そうでないなら、今まで、どうして7回も手術したのよ」
「あぁ……」
彼が困った顔をする。
朱音は千坂の手を取り額に押し当てた。ついに涙がこぼれた。病室には時計が秒を刻む音だけになる。
「君が戻らなかったら、……クマムシが死んでしまうだろ」
彼は自分のことのようにクマムシの身の上を気遣った。それは朱音の涙を止めるためでもあったのだろう。
「大丈夫よ。きっと
手の甲で涙をぬぐった。
「樽?」
「話したことがあるでしょ。クマムシは乾燥すると樽のような形になって永い眠りにつく。そうやって、自分が動ける時が来るまで眠りにつくの」
「便利な奴らだなぁ。……僕もそんな風に現実から逃げることができたら、と思うよ」
「決めた。来年、医学部に進むわ」
彼が目を丸くする。
「僕のために無理することは止めてくれ。……クマムシの研究だって道半ばだろう。……世界最強のクマムシを作るんじゃなかったのかい?」
朱音はずいっと顔を寄せた。
「違うのよ。私の目標は、最強の人間、いえ、最強の亮治さんを作ることなの」
千坂が苦笑……「グッ」と喉を鳴らす。痛みが走ったのだろう。
「……ヒーロー戦隊でも作るみたいだ」
朱音を見る目が眩しそうに細くなった。話を茶化す、彼のいつものやり方だ。
「火星や天王星、
「止めてくれよ。目覚めた時、朱音がお婆さんになっていたら気持ちが悪い」
「あら、私のこと心配してくれるのね」
「でもね。そんな医者になるには大金が必要だ」
「出してくれる?……本、売れているんでしょ」
「少しね。でも、朱音を医者にするほどはない。……君のお父さんだって、困るだろう?」
千坂が再び苦笑し、また痛みに顔をゆがめた。
「ごめんなさい。……学費のことは冗談よ。それは免除されると思う」
「そうか。朱音は天才だからなぁ」
「天才がいたら大学の宣伝になるからね。おまけに美人だし」
「美人?」
引きつった笑みが浮かぶ。
「あぁ、そりゃあ私は美人じゃないですよ。でも、ブスでもないはず」
朱音は笑ってみせた。
「朱音は美人じゃないけど可愛いよ。可愛いタイプだ」
取手つけられたようで嬉しくない。プーッと頬を膨らませてみせた。
「どうした。何を怒っている?」
スマホで不細工な猫の動画を開く。
「これを見て」
小さな画面の中で、不細工な猫がヒヨコと遊んでいる。微笑ましい風景だ。
「なんとも不細工な猫だな。でも、可愛い。猫もヒヨコも」
「それよ。不細工だけど可愛いでしょ。だから、可愛いというのはブスを否定したことにはならないの」
「そうか……。悪かった」
彼が真顔で言った。
「そんなにマジで謝られたら、私が本当にブスみたいじゃない」
朱音はコロコロと笑った。
「それから、もっと大切なことがあるの」
「入院費のことなら、朱音が心配する必要はないよ」
「もっと、もっと大切なことよ」
「もっと?」
千坂が首をひねる。
「私と亮治さんは夫婦なんだから、そこの所を忘れないでね」
「夫婦って……。どういうことだい?」
彼が目を白黒させた。
「これを見て」
手術の同意書の控えを見せた。【同意者 吾妻朱音、 続柄 内縁の妻】とある。
「手術の同意は、内縁の妻では通らないはずだよ」
「私以外に、あなたの親族はいないと話したら、それで納得してもらえたわ。実際、手術は始まっていたし……。法的にはともかく、私たちはお互いを想い、支え合っている。それって夫婦と同じなのよ。だから……」
彼の耳元に顔を寄せる。
「……今日から夫婦なのよ。ずーっと、永遠にね」
そうささやいた。
驚きすぎたのか、痛みのためか、千坂の顔から感情が消えた。その目も固く閉じられている。意識を失ったように見えた。
チャンス!……朱音は唇を彼のそれに重ねた。
千坂は意識を失ってはいなかった。その目尻が濡れていた。
婚姻は自己申告 ――2017―― 明日乃たまご @tamago-asuno
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