婚姻は自己申告 ――2017――

明日乃たまご

第1話 修行僧のような……

「見て、見て、見て!」


 顕微鏡を覗いていた吾妻朱音あづまあかねが大声を上げた。


「一体、何があったんだい?」


 隣のリビングルームにいた千坂亮治ちさかりょうじは重い腰を上げた。原子力発電所の事故で被曝して以来、体調が悪い。7度の手術を受け、体内に入った金属や癌細胞は取り除いたものの、癌の再発は際限がなく、人生の終焉の扉は常に目の前にあった。


 書斎では朱音が目をキラキラさせていた。


「私の修行僧が脱皮しているのよ」


 朱音が修行僧と呼ぶのはクマムシのことだ。体長は1ミリに程度で、4つい8脚のずんぐりとした脚でゆっくり歩く緩歩かんぽ動物門に属し、歩く姿が熊に似ていることからクマムシと呼ばれている。乾燥や低温環境、放射線などに対して強い耐性を持っていて、生存環境が厳しくなるとジタバタせずに樽のような形になって耐え忍ぶ。そんな生態を彼女は修行僧と表現していた。


 クマムシはDNAの復元能力が高いうえに17.5%ほどが他の生物から取り込まれたDNAだという研究があり、朱音はそういった特性に着目し、その遺伝子を研究しているのだ。


「なぁーんだ。クマムシの脱皮なんて、珍しくないんじゃなかったのか?」


「クマちゃんは特別よ。私が遺伝子操作した第1号なんだから」


 17歳で飛び入学で大学に進学した朱音は、やはり飛び級で18歳にして3年生になっていた。彼女は医学部へ進み千坂を病から救いたいと言っていたが、飛び入学制度のある医学部がなかった。遺伝子工学を学んでいるのは、千坂の病の一因が放射線によるDNA異常だとわかっているからだ。


 彼女は中学生の夏休みに、千坂の目の前に現れた。観察しようとしたゴキブリを親戚から譲り受けて家に帰る途中だった。電車の中で彼女が転倒、ゴキブリを車内にぶちまけたところを助けたのが千坂だ。その日から、彼女は千坂に付きまとい、高校生になった彼女は、学校帰りに千坂のマンションを訪ねることが日課になった。そうして大学生になった彼女は、研究素材のクマムシを千坂の書斎に持ち込み、毎日訪ねる理由にした。


「遺伝子操作した生物を研究室から持ち出すのは、ルール違反じゃないのかい?」


 彼女の肩に手を置いて顕微鏡を覗いた。半透明のクマムシが、完全に古い皮から抜け出したところだった。


「立派な顕微鏡を買ってくれた亮治さんも同罪よ」


「まいったな」


 クマムシなどに興味のない千坂は、すぐに顔をあげた。


「赤ちゃんが生まれるかもしれないわ」


「脱皮しただけだろ?」


「クマムシは脱皮した皮の中に卵を産むことが多いのよ」


「クマちゃんはめすなのかい?」


「この種のクマムシは、基本的に雌なの。おすは稀にしか生まれないわ」


「へー。雄は貴重なんだ」


「そうね。研究者にとっては貴重だけど、雄のクマムシが雌のクマムシにもてるという研究報告はないわ」


「なんだか、可哀そうだな。雄」


「子孫を残せないから自分みたいだと思ったらダメよ。亮治さんは残せないんじゃなくて、残そうとしないだけなんだから」


 10歳も年下の朱音に厳しく指摘され、千坂は苦笑した。彼女とは恋人のようにデートはするが、キスさえしたことがない。再生産される精子に異常があるのか調べた事はないが、あらゆる可能性を考えて自分の子供を残そうと考えていなかった。キスをすれば、堰を切ったようにその先に進んでしまいそうな気がするのだ。


「私も18歳なんだから、セックスしても大丈夫なのよ。まだキスもしていないと話したら、亮治さんが修行僧みたいだってパパも呆れていたわ」


「そんなことまで話すのかい。すてきな親子だね」


 それは皮肉でもなんでもなく、幼いころに両親を失った千坂の素直な気持ちだった。


 立ちあがった朱音が千坂に抱き着き、その胸に顔を埋めた。朱音が千坂のマンションに出入りするようになって5年以上の時が経ったが、キスはもちろん「愛している」と声をかけたことさえない。


「君が僕の壊れたDNAを直すためにDNAの復元能力の高いクマムシの研究をしているのはわかる。だからといって、僕は君の力を借りてDNAをいじったり、子孫を残したりしたいとは思わないんだ。あるがままでいい」


「あるがままでいいなんて、わがままだわ。……私は、ただ亮治さんに長生きしてほしいの」


 そうした話をするのは良くあることだが、朱音が泣いたのは珍しいことだった。


「すまない」


 千坂の胸が痛む。まるで狭心症の発作のようだ。


「人間のDNAを操作するのは不自然なことだ。神への冒涜ぼうとくともいえる」


「そんなことない。神様がいたなら、あなたをこんな身体にすることがないもの」


 背中に回された彼女の腕に力が加わる。お互いの体温が密に交錯した。


 朱音の涙は容易に止まらなかった。千坂は朱音を座らせ、コーヒーを淹れてやった。


 机の端にコーヒーカップを置いた時、彼女の涙は乾いていた。彼女はコーヒーカップを両手に挟み、見上げる。


「人はかわるべきなのよ」


「その意見には、僕も賛成だ。環境が激変する中で、生物が生きるために変化することは自然なことだ」


「進化……」


「あぁ。進化を自然が与えてくれるのを待つのか、自分から積極的にそれに臨むのか。科学がその可能性を開いた。どちらを選択するのかは倫理の問題で、平時なら遺伝子操作は否定されるだろう。……でも、太陽が老化すれば、いずれ地球は消滅する。その前に地球は人間が住めない場所になる。その時、人類は座して死を待つことを選ばないだろう。神に刃向っても地球を離れる。地球を出れば生き延びる可能性はいくらでもあるからね。それは生物としての自然な行為だ」


「その時には、宇宙放射線に対応する肉体が必要よね」


 泣いたばかりの朱音の瞳がキラキラ輝いて美しい。


「そうだね。だから、君の……、朱音の研究は大切な研究だと思う」


「うん」


「ただ。僕には必要ない」


「私には、亮治さんが必要なの」


「ありがとう」


 朱音の気持は嬉しかったが、いつ死ぬかもしれない運命のことを思うと、その気持ちを素直に受け入れるわけにはいかなかった。


「だから……」


 朱音の言葉をさえぎる。


「愛という感情は高貴で貴重なものだね。でも、それを形に求めてはいけないと思う。形に執着すると、人は前進できなくなる。宇宙へも飛び立てなくなるよ」


「やっぱり、パパの言うとおりだわ」


「どういうこと?」


「亮治さんは修行僧みたい」


「そうか……」


「執着しなければいいんでしょ……」


 朱音が千坂の手を取って頬に当てる。


「……困らせて、ごめんなさい」


「そんなことないよ」


「今、大切な時なんでしょ?」


「なんのこと?」


「〝偽りの記憶〟」


 それはSF作家である千坂の第3作目だった。怠惰だった自分の過去と救えなかった友人とその妹、吉原汐織きちはらしおりの記憶を否定したい千坂の欲求が書かせている物語だ。


「いや。もうほとんど書きあがったよ。後は推敲するだけだ」


 学生の頃は怠惰でろくな勉強をしなかった千坂も、身体を悪くしてから規則正しい生活を心がけていて執筆は順調だった。


「処女作の〝時を超えて〟より、良いものになりそう?」


 朱音の質問に千坂の顔がゆがんだ。


〝時を超えて〟は津波にのまれた友人と汐織の記憶をこの世に残そうと思って描いた物語だ。彼女とはたった1日の付き合いだったが、千坂は彼女に恋をしていた。東日本大震災のその日、2人は並んで津波から逃げていたのだ。


 結果、2人とも波にのまれ、千坂だけが生き残った。そうして書いたのが〝時を超えて〟だった。それを今更、自分は何故〝偽りの記憶〟で打ち消そうとしているのか……。それは〝偽りの記憶〟の執筆中、ずっとまとわりついた疑問だった。


「どうしたの? 大丈夫?」


 目の前に不安そうな朱音の顔があった。彼女は、千坂が汐織を助けられなかったことを後悔しているのを知らない。


 その時、千坂は気付いた。ただ純粋に自分のことを案じる様子に、僕はこの少女のために新作〝偽りの記憶〟を書いているのに違いない、と……。


「……良いものかどうか、それは読者が決めることだよ。僕は書きたいことを書いているのにすぎないんだ」


 朱音の頭をなでると、彼女の顔から不安が消えて子猫のような顔になる。


「もう、ここには来ない方がいい」


 千坂なりに、朱音の将来のことを考えた結論だった。彼女を自分の不安定な人生に巻き込むべきではない。


 朱音の表情が見る間に変わっていく。驚愕の色、いや、怒りの色か……。


「いやよ。どうしてそんなことを言うの?」


「僕は、君を幸せにできない。それどころか、君の持つ優れた能力や時間を奪いかねない」


「私は、今のままで幸せよ」


「朱音は、まだ若いんだ。付き合うにしても、僕よりふさわしい人がいるはずだよ」


 言いながら、年寄りのようなベタな台詞をはく自分を呪った。


「そんなことを亮治さんが決める権利はないわよ」


 朱音が口を尖らせた。彼女は席を立ち、キッチンに入った。


「朱音、僕の言うこともわかってくれ」


 彼女は、千坂が来るなと言ったことなどなかったような顔をしてパスタとクリームシチューを作った。


「夕食にしましょう」


 にっこり笑う朱音。


 千坂は言葉もなくテーブルに着く。来ない方がいいと言ったものの、目の前に朱音がいて明るく振る舞うことにどれほど助けられているか、本当は自分が一番よくわかっている。もし、彼女がいなかったなら、病気の進行は早いに違いない。


 しかし、自分のためにではなく、2人のためにはどうすることが良いことなのか?……設問を変えれば、答えは違ってくる。そうわかるから、最適の答を探している。今日も、昨日も、一昨日も……。そんな日がいつまで続くのだろう?


 午後8時、2人はマンションを出る。それがルーティーンだった。


 朱音の家は線路の向こう側にあって、駅を通らずに近道を選べば20分ほどでいける。そうして遅くならずに帰るから、朱音の両親も娘が千坂と会うことを黙認してくれている。もちろん、千坂が修行僧のような性格だということも信頼の根底にあるだろう。


 往復40分の見送りは、普段パソコンの前に座り続ける千坂にも良い運動だった。


「明日も行くわよ」


 横須賀線をまたぐ陸橋の上で朱音が言った。


「……そうか」


 言いながら、もう来るなと言えない自分を情けなく思う。


「良かった」


 朱音が千坂の腕につかまり朗らかに笑う。


 2人は行きかう車のヘッドライトに導かれるように歩き、ほどなく朱音の家の前に着いた。


「それじゃあ」


 千坂が右手を挙げるのが合図だ。


「明日は日曜日だから、早く行くわよ。おやすみなさい」


 平日と休日の区別がない千坂に念を押し、彼女がトントンとステップを3段ほど上がる。振り返る彼女に、千坂は同じ場所で手を振った。


 朱音が手を振り返してドアの中に姿を消した。


「1、2、3、4」と数え、朱音はドアを開ける。すると来た道を引き返す千坂の背中がある。そうやって朱音が、いつも見送っているのを千坂は知らなかった。

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