第2話 最後の恋

ピ……ピ……ピコン……。

弱々しく、ゆっくりと心電図モニターに刻まれるあなたの鼓動。

「あなた……、もう本当に最期なの?起きて散歩でも行こうよ。」小さな声で呟いてみる。


……ガラガラ

「……少し失礼いたします。奥さん、旦那さんの脈拍が弱くなってきています。もし会わせたいご家族がいらっしゃるのであれば、ご連絡をお願いします。」


いつも笑顔で、嫌な顔ひとつせず毎日面会に来る私や家族に話しかけてくれて、夫のケアをしてくれている看護師さんが、今日は1度も笑顔が見えない。


「分かりました。あの、お父さん……夫はもう意識はないんですよね。今は苦しんでいるのでしょうか……。」

そんな事、看護師さんが分かるわけないと分かっているのに、現実をやっぱり受け止めきれていない。長い闘病で、私も心の準備をしなければならなかった。心の準備はしたつもりだった。


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おしどり夫婦なんて綺麗な言葉は貰えそうにない、冷めきった夫婦関係。顔を合わせても会話はほとんどなく、子育てをきっかけに寝室は別々。子供が自立してからは、2人で出かけるなんてこともほとんどなかった。「あの人が死んでもきっと私は悲しくないんだろうな……。」なんて思う事もあった。なのに不思議と、お互い魔が差すこともなくここまで来た。


夫が定年退職後、すぐに病気が見つかった。

「俺、癌だって。」

「え?そんなに悪いの?」

久しぶりに話した会話がこれだった。

「いや、摘出手術で完治の可能性があるって。今の段階では転移している様子はないみたいなんだ。」

「そうですか。それならまぁ、治ると良いですね。」


夫は、特に体調に問題もなくたまたま健康診断で癌が見つかった。本人も元気だし手術を受けて治るのならと、そこまで心配をしなかった。


皮肉な事に、夫の癌をきっかけに私達は会話が増え、病状の説明を聞くために何度か一緒に病院へ受診し、その足で買い物やドライブに出かけた。

そして、気がつくと付き合った当初の様に楽しく、新婚の頃のような安心感が私を包んでいた。


夫の手術は、目的の腫瘍を摘出する事に成功した。

そして、レントゲンや画像診断では見えなかったところに癌が転移している事が手術で判明した。

そして告げられたステージ4、これ以上の治療は困難で、緩和治療への移行。

癌が見つかって半年が経っていた。余命は1年以内と告げられた。


手術の傷も回復し退院したが、手術前よりも状況は悪い。それに相反するように夫は元気に振舞っていた。


「これは言っておかなきゃな……。真奈美、今までごめんな。いや、今までありがとう!」

夫からの予想外の言葉と、何年ぶりか分からないけれど、名前を呼ばれたことに心臓が飛び跳ねた。

「こっちこそごめんなさい。一緒にいてくれてありがとう。」「こ…こ…これからもよろしくね!!浩也!」

お互い年甲斐もなく、名前を呼び合い顔を赤くして照れながら見つめ合った。そしていい所で噛んだことにゲラゲラと笑った。


夫は、元気なうちは暇さえあれば私を旅行やドライブに連れ出してくれた、それはもう子供達が毎週帰ってきては心配するほどに……。

私も夫の体調は心配だったが、冷めきったおしどり夫婦時代の穴を埋めたい、思い出を残したいと奮起しているのが伝わってきたし、楽しそうな夫がそこにはいたから、何を言うわけでもなく私も素直に楽しんでいた。


だけど、

元気な夫も、癌にはやっぱり敵わない。余命宣告の1年から3ヶ月をすぎた頃、夫はご飯を食べることが出来なくなった。これを皮切りに見ていられないほど急速に痩せてやつれていった。全身を襲う痛みもあり、鎮痛薬が欠かせなくなった。


神様はいるのだろうか、こんなにも辛い状況になっても、死はやってこない。そこから更に10ヶ月間、入退院を繰り返しながら生き延びている。痛みを取るための麻薬も始まり、入院中も寝ている時間が増えた。

私は、私の心の準備しなければならないと思いつつも、毎日面会に来ては、今日こそもしかしたら起きて散歩に行けるかもしれないなんて、考えていた。


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「奥さん、ごめんなさい。苦しんでいるかどうかは、私には分かりません。ですが、最期の時を迎えられる方々は、話は出来なくても、聴覚…耳だけは最後まで聴こえていると言います。なので、聞き慣れた奥さんの声で、安心できるよう話しかけてあげてください。」

看護師さんの声で、ぼーっと思い出に浸っていたが、我に返った。


「あ…そうですよね。不安なのは私だけじゃないのに……すみません。」

と、今出来る最大限の愛想笑いを看護師にして見せ、子供達に急ぎ、危篤の連絡を入れた。


看護師が部屋を去った後、少し気恥しさも正直あったが、夫の手を握り、話しかけた。


「あっ……。あなた、今までありがとう……。」

「こんな時でも、自分が寂しいからって、名前を呼んで欲しいとか、また一緒に歩きたいとか、思っちゃうの。私、最低ね。」

「そんなこと言わなくても、あなたなら分かってるか……。ははは。 はぁ ……ぐすっ。」


「……これだけはちゃんと言わないと。あなたと出会えて、可愛い子供達にも出会えて……ぐっ。本当に、本当に幸せでした。」

「あなたに病気が見つかってから、悲しいはずなのにまたあなたと仲良くなれて、貴方に最後の恋をしていた気がします。きっとそうなる様に貴方がしてくれてたのよね……。ずっと大好きです。」


「私にもその時がきたらちゃんと迎えに来てくださいね!……ひとりじゃ寂しいから。」


夫の片目から一筋涙がこぼれ、笑ったように見えた。


そして夫が生きている事を知らせる心電図モニターの拍動が刻むのを止めた。








fin

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short short Love Story お銀 @nene0412

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