第12話

結局、母親は散々騒ぎ倒して帰って行った。最後の方は息も切れ切れになっていて、体力的に限界だっただろうに。それでも、攻撃することをやめなかった。

近所の人が呼んでくれた警察になだめられて、「お前達全員殺して、私も死んでやる!」と叫ぶ母親の姿は、僕が知っているヒステリックな母親とも違っていた。

目玉が飛び出そうなほどに目を見開いて、子どものような金切り声を出す母親は、もう人にギリギリのところで踏みとどまっているレベルだったのだ。

支離滅裂なことをブツブツと口から零しながら、パトカーに押し込まれる母親を、僕は薫さんと言葉を交わすことなく見送った。

薫さんは肩にかけていたカーディガンを少し整えると、階段に向かう。僕も押し黙ったまま、薫さんの後に続いた。風邪は随分良くなったのか、元々熱のわりにひどくはなかったのか、薫さんの足取りはしっかりしていた。

階段を上がり、玄関に入るとダン、と重たいドアの閉まる音がする。いつもより冷たい金属音に、僕の心は一層冷えた。

「く、薫さん」

サンダルを脱いで先に進む薫さんの背中に、僕は気がつけば声をかけていた。何を言うかも考えていないまま、反射的に出た言葉に僕自身も戸惑う。

「あ、あの……」

「柘くんのお母さん」

薫さんは、くるりと振り向いて満面の笑みを僕に向けた。

「すっごく怖いね!」

目の前で花が咲くような感覚だった。寒々しく冷えた心を温かくする、春のような人だ。

つ、と生暖かい液体が頬を伝う感覚がして、自分が泣いているんだと気がついた。涙だけじゃなくて、鼻水も出ている。ぐしゃぐしゃだ。なんて、ひどい顔だろう。

「ぼ、ぼく、薫さんのことっ、巻き込みたくなくてぇ……」

しゃくりをあげて幼い子どものように泣いてしまったから、半分はうまく発音できていない。けれど、薫さんはわかってくれたらしい。

「うん、大丈夫だよ」

「すみませ…あんな……」

「うんうん。大丈夫だから」

「薫さん……しかも、風邪、なのにっ」

僕の手を、薫さんは自分の首まで持っていく。

「ほら、そんな熱くないだろ?熱はだいぶ下がったよ」

諭すような口調で、彼は穏やかに微笑んだ。慈愛に満ちた聖母のような眼差しに、僕は赦しを得たような気持ちになる。

暖かい陽射しが、スポットライトのように薫さんを照らしていた。それがより、彼の神々しさを増幅させている。

鼻をすすると、グス、と少し子どもじみた汚い音がした。薫さんは何が面白いのか、僕が鼻をすする度に眉を八の字にして笑った。

「……すみません、母のこと、隠してて」

薫さんは首を少し傾げて、左右に振った。

「言いたくないことは言わなくていいよ。私たちは、別々の人間なんだから」

僕は安心して、目尻の涙を拭う。けれど、心臓のどこかを小さな針で刺されたような痛みがした。

僕らは所詮は赤の他人なのだと、互いの人生は交わらないのだと、突き放されたような気持ちになる。彼にはそんな意図はまったくないのだと思う。ないと思っているのは八割僕の願望だけれど、それでもきっとそうだと思う。何でも勘ぐってしまう、僕の自傷行為みたいな被害妄想が悪い。

彼の顔をうまく見ることができなくて、胸の辺りを誤魔化すように眺めた。

薫さんのカーディガンのボタンが、キラリと光を反射して輝く。黒色のカーディガンでポツリと光るボタンは、夜空の一等星に似ている。

彼のようだ、と思った。




「こうなってくると、その友人の家も危ないな」

電話越しの父の顔がありありと想像できるほど、苦々しい声だった。

「うん……家に戻る方がいいかな?」

「そうかもしれない……その、万が一のことがあったとき、その友人も巻き込んでしまっては申し訳がないからな」

万が一のこと。

父親がどれほどの万が一を想像しているのかは知らないが、あの人の狂いっぷりは彼も知っているはずだ。軽くて警察に注意される程度、最悪、それこそ万が一というのは、たぶん刃傷沙汰くらいのことだろう。

大学構内の廊下は、まだどこかひんやりしていて洞窟みたいだ。無駄にまっすぐ空洞の続く廊下に声が反響しないように、僕はなるべく声量を小さくして続けた。

「今、どうなってるの」

誰が、とは言わなかった。名前を言うことはなんとなくはばかられて、僕は誤魔化すように言う。父親は察して、唸るようなため息を漏らす。

「精神科にかかっているが、入院するかどうかでもめているらしい。お義理母さんが、入院させるのを渋っているらしくてな」

「おばあさんだって、入院したほうが楽だろ……」

「精神病棟ってのは閉鎖的で、患者への待遇もひどいところもあるからな。お義母さんの実家の病院は精神疾患の患者が多く入院していたと聞くし……まぁ、色々イメージもあるんだろ」

そこに娘を入れるのは忍びない、ということか。僕は理解しました、という合図の代わりにため息で伝える。電波にのって向こうにまで聞こえるように、できるだけ大袈裟に。

「とにかく、自衛できそうなところは自衛しよう。ホームセキュリティを契約しようと思うんだ」

「なんで僕が自衛しなくちゃいけないんだよ」

おかしいだろ、と喉から出かかって飲み込む。こんなことを言ったところで変わらないことはわかっているのに。それでも、腹の中で沸き出したマグマのような怒りを、いきなり冷ますなんてことは僕には難しかった。

「なんで僕ばっかり!母さんを病院に閉じ込めれば、そうすれば僕だって自由になれるのに!」

行き場のない憤りをぶつけるように、僕は廊下の壁を殴る。非力を嘲笑うように、べち、と情けない音が小さくするだけだった。

触れた冷たい壁が、少しだけ僕を冷静にする。誰もいない廊下は、僕のため息を静かに受け入れた。

「ごめん、言ったって仕方ないよね。わかってるよ……」

父親は少し気まずそうに咳払いしてから、話を続ける。

「すまない。何か打つ手がないか、また弁護士先生に相談しておくから」

電話を切ると、僕は何度目かわからないため息をつく。冷えきった廊下の壁に、僕は寄り添うようにもたれた。

どこまでも冷たい壁は、何も言わない。

僕は目を閉じて、薫さんの家を思い出す。陽だまりを求めるように、僕は壁から離れて廊下から立ち去った。

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