第11話

ケホ、と薫さんが小さく咳をした。

子どもの咳に似た少し高めの咳が、部屋にこだまする。咳が合図のように、体温計が鳴る。

「三十七度五分。しっかり熱ですね」

「うーん。体調管理はしてたんだけどなぁ」

薫さんは眉をひそめて首を傾げる。彼の冤罪を着せられたような顔に、僕は少し頬を緩めた。

「食欲はありますか?」

「ある!いつも通り食べれるよ!」

熱のせいか、どこか舌っ足らずな言い方だ。小さな子どものようでかわいい。いつも年上で完璧な薫さんらしからぬ雰囲気を知ることができた事実に、僕はちょっとした優越感を感じる。

「じゃあ、お昼ご飯はうどんにしましょうか」

「あれ、学校は?」

「それくらい休みますよ」

普段から真面目に出席しているから、別に一回くらい休んだって問題はない。幸い今日は二コマしか講義もないから、僕はすっかり休む気でいた。

けれども薫さんは眉間にシワを寄せると、熱っぽく染まった赤い頬を膨らませる。

「ダメ。ちゃんと学校は行きな」

「でも、薫さん風邪だし……」

「これくらい大丈夫だから。ね?」

薫さんは柔らかく微笑むと、わずかに眉を八の字にする。彼がこの顔をしたときは、僕の負けだ。最近気がついたが、この顔をするのは薫さんの中で結論が出ている時。僕が何をしたって、はぐらかされるし揺るがない。

僕はしぶしぶ引き下がって、登校の支度を始める。

「……いってきます」

薫さんは下半身だけ布団を被って、ベッドに座っていた。

「気をつけてね」

そう言って微笑む薫さんは、なんだか帰ってきたら死んでいそうだ。それは病人特有のか弱い気配とは違う、存在の儚さ。この人自身が危うくどこかへ消えてしまう、朝の露に似た人なのだ。

この家だってそうだ。

僕は錆びた階段を降りて、地上からアパートを見上げる。昔はきっと、洒落て都会的なアパートだったのだろう。けれども今は打ち捨てられた没国の姫君のように、昔の面影をわずかに残す程度だ。

薫さんよりも、僕のほうが病人のようにセンチメンタルな気分になる。

どうか、学校から戻っても薫さんはあの家にいますように。そんなことを祈って、僕は駅へ向かった。



授業が終わってすぐに、大学の近くのスーパーへ向かう。時間帯のおかげか、スーパーには専業主婦らしき女性がちらほらいる程度だった。

あまり料理は得意ではないけれど、ネットに書いてある手順通りに作ることくらいはできる。サイトから風邪をひいたときはこれ、というキャッチコピー付きの雑炊を選び、レシピを確認する。食材リストの一覧と冷蔵庫の中身を思い出しながら、カゴにあれこれ入れた。

会計をしている時、僕の脳裏に今朝の薫さんが浮かんだ。か細い咳をして、部屋の片隅で寝ている薫さんの姿。そしてその後、部屋を出て繁華街へ向かう薫さんの姿。この二つだった。

あのアパートの一室は、たぶん薫さんのものではない。しばらく手入れのされていない家庭菜園や、部屋の家具の雰囲気からして、薫さんの元恋人だろう。

不意に、初めて会った薫さんの姿を思い出す。うなだれるような女性を車の後部座席に乗せた、あの日だ。

元々は、その女性が借りていたのではないだろうか。けれど、女性はあれ以来パッタリ見ていない。この世にいないと言われたほうが、よっぽど自然なくらいだ。

──ほんとうに、いないのではないか。

鶏肉を手に持ったまま、そんな思考がよぎった。ありとあらゆる種類の赤とピンクで埋め尽くされた精肉売り場で、僕は彼女の口紅を思い出した。ステーキ用として売られている牛肉が、彼女のしていた口紅を連想させるために売っているのではないかとさえ思える。

薫さんの唇にもわずかに付いていた、あの口紅は二人の唇が触れ合ったことを意味する。そしてあのアパートの一室が彼女のものだとすれば、薫さんはあの女性と付き合っていたと考えるのが自然だ。

なのに、アパートの部屋には女性の姿はない。

僕は妙な考えを蹴散らすように、鶏肉を乱雑にカゴに突っ込んで、足早にレジへと向かった。


スーパーから出ると、僕はいつもの何倍ものスピードで最寄り駅まで向かう。人にだけはぶつからないようにして、脇目も振らず駅の方向だけを見て歩く。

背負ったリュックサックが背中に跳ねて当たるが、そんなことを気にしている暇はない。僕はスーパーの袋だけ大きく揺れないようにして、あとはどうにでもなれという気持ちだった。

電車に飛び乗って、アパートの最寄り駅まで全部駅を飛ばしてくれないか、なんてことを考えてしまう。最寄り駅について、僕は転がり落ちるように電車から降りると、一段飛ばしで駅の階段を駆け上がった。そこからは大学から駅までの再放送で、せかせかと早歩きをする。

走るのが昔から遅い僕にとって、変な体力を消耗せずにそれなりの速度を出せる早歩きのほうが、よっぽど体に馴染んでいた。

つい数時間前に降りたボロ階段を駆け上がりながら、僕は上着のポケットからカギを取り出す。

その瞬間だった。


「柘、あなた一人暮らし始めたのね」


僕は、お世辞にも友達が多い人間じゃない。男子校だったこともあって、女友達は一人もいない。僕のことをそうやって親しげに呼ぶ女性は、この世でただ一人だけだ。

横を見れば、母親が立っていた。

あの日のようにコートは着ていない。代わりに羽織っているのは、ブランドのカーディガンだ。このブランドのロゴが入った紙袋は、昔よく家に転がっていた。けれど日に焼けてしまったのか、どこか色褪せた感じがする。そして生地感も、どこかガサガサとしていた。

「あの人のところ離れたの?さすが私の息子!きちんと判断できたなんてすごいわ。あの人はちっとも私と柘を会わせてくれないものね」

僕はカギを抜き取ってポケットにしまう。この人を絶対に家の中に入れないという、僕なりの強い意志だった。

「これから、用事があるんだ。だから……」

口の中がカサカサに乾く。ガサついた唇を舐めてから、どうにか言葉を絞り出して続けた。

「その、今日は、帰って……ほしい」

「あら、忙しいのね。これから予備校にでも行くの?」

彼女は、自然な母親の顔をしていた。あまりにも自然な、親が我が子を心配する顔だった。眉を八の字に下げ、頑張る我が子を誇らしく思うような心配するような、そんな顔だ。

「予備校って……」

「あの人に無理やり法学部なんて入れられて、ほんとうに……ごめんね。お母さんが頼りないばっかりに」

僕は震えるように首を左右に振って、違う、と口を動かす。声は出ないから、口を戦慄かせるだけだった。

「今からでも、柘ならきっと頑張れるわ。お母さんも、精一杯サポートするからね」

きっとこの人は、医大のことを言っているんだろう。今から僕に医大を受験しろ、と。冗談じゃない。僕は、もう恐怖なのか怒りなのか、何かわからない感情で笑いそうだった。

「お母さんね、柘には私立の大学病院に─」

「とにかく、今日は帰ってよ」

しまった。

僕は反射的に目をつむる。

それと同時に、怒鳴り声が聞こえた。

「どうしてそうやってお母さんを邪魔者扱いするの!」

話を遮ると、怒られる。

昔からわかっていて気をつけていたのに、焦りが出た。薫さんに気がつかれる前に帰らせようと思ったけれど、これじゃ逆に気づかれてしまう。

どうにか落ち着かせようとするが、声をかければ逆効果だ。こういうときの母親は天災だ。僕はじっ、として嵐が過ぎるのを待つしかない。でもそんなことをしていたら薫さんが気づいてしまう。

どうしよう。母親のことを薫さんには知られたくない。ある程度は話しているけれど、話すのと実際に見るのはまったく違う。きっと、嫌われてしまう。

目の前がグルグルと回る感覚がする。何が正解か、そもそも何をすればいいか、何も浮かばない。

「あれ?」

ガチャリ、と重たい音がして、僕の横に美しい横顔が現れる。額から少し剥がれかけた冷えピタと、熱でほのかに赤くなった頬でも、彼の美しさを損なうことはできなかった。

「薫さん……」

薫さんの耳にかかっていた髪が耳から滑り落ちていく様子、彼の目線がゆっくりと僕に向けられる様子、全てがスローモーションのように見えた。映画のワンシーンのように、ドラマチックなのだ。

「あは、おかえり」

さすがの母親も、唖然としていた。

それは、そうか。息子が一人暮らしをしていると思っている家から、妙に色気のある男が出てくるのだから。

「あれ?どなた様?」

薫さんは母親のほうに、やっと気がついたようだ。母親も薫さんに認識されて、やっと止まっていた時間が動き出したらしい。

「っ、誰なの!柘!」

アパートが吹き飛んでしまいそうなほど、地面を揺らす母親の怒鳴り声。僕はいつも通り、反射で目を閉じてやり過ごす。そして一発目の怒鳴り声を凌いだ後、咄嗟に薫さんを見た。

僕は慣れているけれど、薫さんは初めてだ。

「柘、あなた一人じゃないの!?」

「はは、一人じゃなきゃダメなんですか?」

薫さんは、平然としていた。

あまりにも紳士的に、冷静に、目の前の嵐を頬を撫でる夜風程度に、いつも通りに対応している。

僕は喉の奥を潰されてしまったような感覚になる。息を吸い込むと、不思議な苦味を感じた。僕はその苦さを振り切るように、踏ん張ったら壊れそうなアパートの廊下を足の裏で蹴りつける。

「母さん!頼むから今日は帰って!こんな外じゃ誰かに聞かれる!」

「柘!お母さんに口答えするの!?柘は、お母さんが誰かに見られたら困るの!?」

「そうじゃなくて」

「お母さんは、今の柘のほうが恥ずかしい!昔はいい子だったのに、こんな風にお母さんのことを否定するなんて!そんな親不孝な子に、いつからなっちゃったの!?」

母親の切り裂くような怒号は、いつも僕の思考を奪う。言葉が強烈なスタンガンとなって、意識を手放しそうになるのだ。

「だいたい法学部だってそう!どうして医学部を受験すらしなかったの!?柘が幸せになるには、お医者様になるのが一番だって、それがわからないのはどうして!?柘が幸せになる方法を、お母さんは全部知ってるの!なのに勝手に医学部受験をやめて、何がしたいの!?」

「まぁまぁ」

薫さんは癇癪を起こした幼子をなだめるように、穏やかな口調で話しかける。それが、母親にはよくなかったようだ。あくまでへりくだって接したことで、自分より下の攻撃対象として認識してしまったらしい。

母親はきっ、と目をつり上げると、「お前が」と叫んで薫さんを指さす。

「お前が柘をこんな風にしたのか!人様の息子を誑かして、だいたい何者なのよ!この子はね、きちんとした家の子と関わるべきなの!」

「薫さんは関係ないだろ!」

バチン、と音がして、少し遅れて頬に強烈な熱を感じる。叩かれたのだと察するのに、時間はかからなかった。

「お母さんに黙って、変な人間と付き合って!こんな……」

母親の目の焦点がおかしいことは、医学部に進学していない僕でもわかった。

「殺してやる!」

母親は薫さんの首を絞めようとする。手が上手く届かなくて、首の付け根辺りを掴むだけだったが、その迫力だけで、本当に薫さんを殺してしまいそうだった。

「やめて!やめて!」

「柘!あんたの害になるものは、消してあげるのが親なの!」

ドアの音なのかボロボロの廊下が上げている悲鳴なのか、母親の叫び声なのか。なにがなんだかわからなくなっていた。

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