第10話
「しばらく、友だちの家に避難しようと思う」
母親の一件を告げると、父親は静かに頷いた。
「うん、友だちがいいのなら、そうさせてもらいなさい。家にいるのは危険かもしれない」
僕も同じように頷く。父親は流し台に飲み終えたコーヒーカップを置くと、トレンチコートを着て家を出る仕度を始めながら言った。
「弁護士に相談しておくよ。もしかしたら本格的に裁判になるかもしれないから、柘も覚悟しておきなさい」
父親はリビングを出て玄関に一直線に向かう。見送りをするように、僕も後ろについて玄関まで出る。「じゃあ、いってくる」とつぶやいたトレンチコートの薄いベージュが、玄関ドアの向こうに消えるのを僕は呆然と眺めた。
冷静に、弁護士に連絡を取って対応してくれる父親で助かる。ふぅ、と一息ついてから、足が冷たいことに気がつき、僕は自分が裸足であることに遅れて気がついた。僕の部屋で靴下を回収してから、再びリビングに戻る。
食卓のイスに座って、靴下を履いた。頭を下に向けていたからか、どこか下向きな感情が首をもたげる。
それを振り払うように、僕は食卓から立ち上がって、戸棚を開けた。食パンを取り出して、トースターにセットする。
「僕に寄り添ったって、事件は解決しない」
自分に言い聞かせるために、僕はそんな言葉を声に出す。父親は、この時期忙しい。四月は父親に限らず、社会全体が再びスタートをきる季節だ。未だに過去のトラウマでグチグチと言う僕の方が、よっぽど問題なのかもしれない。
食パンがトースターにじりじりと焦がされていく。僕はそれを意味もなく眺めていた。
修学旅行以来使われていないボストンバッグに、圧縮袋に入れた下着や服を詰めていく。これで一週間は過ごせる想定だ。洗濯をさせてもらえば、半永久的に薫さんの家で暮らせそう。
場違いにも、僕の口角は上がる。友人の家にお泊まりなんて初めてなのだから、少しくらい楽しみな気持ちがあったってバチはあたるまい。手島とは仲がいいけれど、お互いの家に行くことは少なかった。僕も手島も、家が好きではなかったから。まして、泊まるなんてことは論外。
どこか浮ついた気持ちで荷造りをして、窓から外の様子を確認する。不審な人影──具体的には母親の姿はない。僕は安堵のため息をつくと、ボストンバッグを持って家を出た。玄関ポーチを出て陽を浴びると、春の陽気を感じる。日陰はまだ少し肌寒いけれど、陽にあたれば薄手のカーディガンを羽織る程度でも問題ない。僕は新生活を始めるような、どこか新鮮で瑞々しい気持ちで歩き出す。
ヒステリックな声が染み込んだ家を出ることは、僕にとってどんな理由があれ歓迎すべきことなのだから。
駅まで薫さんに迎えに来てもらい、彼の家へ車で向かう。相変わらずボロっちいアパートは、嵐が来たら壊れてしまいそうなほどギリギリのところで踏ん張っている。けれど陽当たりのいい場所に建っているから、暖かい空気に包まれていて、居心地の良さが伝わってくる。
「そうだ、忘れないうちに」
薫さんは車から降りると、ポケットからカギを取り出す。ポケットの中に入っていたからか、カギは心なしか温かい。おどけたような表情をした、猿のぬいぐるみチャームがついていた。
「合鍵」
「あ、ありがとうございます」
薫さんは目を細めて笑う。彼の切れ長な目は、細めるとほとんど一本の線になる。巷で言われるような大きくはっきりした目ではなく、むしろ平均よりも小さめで細い、どこか古風さを感じさせる顔立ちだ。けれど、それが何百年も生きた美しい妖怪のようで、僕はもしかしたらこの美しい人に化かされているのではないか、と半分本気で思ってしまう。
「せっかくだし、柘くんが開けて」
「えっ」
戸惑う僕の背後に回り込むと、薫さんは上機嫌で「ほら、早く早く」と急かすように、背中を両手で押してくる。どことなく小学生じみた仕草に僕もつられて、はしゃいだ気持ちのまま鍵を開ける。鍵を回すときに、猿が跳ねるように揺れた。
「さ、今日から二人の家だ!」
ドアを開ければ、いつもと変わらない薫さんの家。何度も遊びにきたこの家の中は、僕が来るからといって特別仕様が変わっているわけではない。なのに、家そのものが違うかのように見える。
そうだ、僕の家なんだ。
初めて自分の部屋を与えられた子供のように、僕は無意味に部屋を眺める。
「上がって」
「あっ、はい!」
薫さんに促されて、やっと自分がぼさっと立ち尽くしていたのだと気が付く。僕が靴を脱いで家に上がって、やっと薫さんは玄関に入る。
「やっぱ玄関小さいな~。男二人入るのは厳しいよ」
「すみません、僕がすぐ入らなかったから」
「あぁ、違うよ。狭さはうちの欠陥」
いたずらっぽく笑うと、彼は壁に手を付きながら靴を脱ぐ。伏せられた目を縁取るまつげが、長く影を落とした。
「不便だし、引っ越そうかな」
薫さんは肩をすくめながら、冗談っぽく笑って言う。
「柘くん
「まぁ、それなりには」
僕は自分の家の玄関を思い浮かべる。墓石のようなタイルが敷き詰められ、僕と父親の靴がポツンと離れて置かれている。それよりは手狭でも、二人の靴が寄り添う、この玄関の方が僕は好きだった。
薫さんの朝は、比較的遅い。
僕は大学が始まって、九時過ぎには家を出る生活だから、具体的な時刻はよくわからない。けれど薫さんが昼過ぎに起きているであろうことは、なんとなく察していた。
「あれ、起きてたの?」
「本読んでたら、遅くなって。おかえりなさい、薫さん」
薫さんと顔を合わせない日が二日続くのは嫌で、いつしか僕は薫さんの帰りを待つようになった。幸い僕は大学生で、朝はそこまで早くない。夜中に帰り薫さんの顔を見る程度なら、そこまで支障をきたすこともなかった。
「読書家だね」
薫さんは子どもが本を読むことを褒めるように言った。本を読んでいたのは、薫さんを待つための口実にすぎない。嘘ではないけれど、どこか嘘をついてしまった時に似た後ろめたさが、僕の背中をひやりと伝う。
「ど、どこ行ってたんですか?」
明るく、気負わない雰囲気で僕は聞く。本当は、問い詰めたい。わからないのが、どうしようもなく寂しいのだ。一緒に住んでいて、僕を助けるまでしてくれるのに、どこに行くかも教えてくれない。子どものように幼稚な寂しさを、薫さんの一言で消し去ってほしかった。
「あぁ、飲みに付き合わされちゃった。でも美味しかったよ。新鮮な刺身って、やっぱり良いよね」
「へぇ、いいなぁ」
名前の通り、薫のような人だ。存在は明確にそこにあって感じられるのに、触れることもできない。彼が物事をはぐらかす時、僕は大人しく引き下がるだけだ。自分の鬱陶しい気持ちごと、飲み込まなくてはならない。この人が何をしているのか、いつもわからないまま見送って、出迎える。
僕は最初、もっと家にいる人だと思っていた。ヒモを自称していたくらいだから、一日中家にいて、家事洗濯をする人だろうと。けれども僕の想像とは違い、薫さんは家を空けがちだった。薫さんがあっさり僕を家に招いたのは、あまり家にいないないからかもしれない。僕といるのが楽しい、とかそういうわけではなくて、本当に純粋に、僕が母親に危害を加えられることを案じただけなのではないか。
そんな思いがフツフツと湧く度に、僕の希望的観測はとんだ思い上がりだったのだと、目の前に突きつけられた気分だった。そしてそんな思い込みで勝手に傷つき、薫さんに裏切られたような気分になる自分に、どうしようもなく嫌悪感がわく。傷つく権利も、薫さんを逆恨みする理由も、あるはずもないのに。
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