第9話

春休みが、近々終わる。大学の履修登録を済ませ、僕は椅子に座ったまま体を伸ばす。ギギギ、と椅子の背もたれが軋む音がした。

机の上のパソコンを閉じて時計を見ると、もう昼の一時近い。どうりでお腹がすいているわけだ、とため息をついて階段を下りる。適当にインスタントラーメンでも食べよう。たしか一昨日買っておいたやつがあったはず。そんなことを考えながら、インスタントラーメンのストックがある戸棚に手を伸ばした時だった。家のインターホンが鳴る。そういえば、今日は父さん宛の荷物が届く日だった。もらったお歳暮のカタログギフトを、やっと頼んだらしい。コーヒー豆のセットだから、一つ拝借して薫さんと飲もう。

 リビングを出ればすぐ玄関だし、わざわざインターホン越しに会話をするのは煩わしい。僕は戸棚を開けたままにして、リビングを出る。玄関にある靴箱の上に置かれた印鑑を手に持ち、玄関ドアをあけた。

 ドアを開けたら、目の前には母親が笑顔で立っていた。

「え」

 思考が停止する。停止した思考のかわりに、本能が恐怖を感じた。一歩、後ろに下がる。母親はそれに合わせるように、一歩前に出た。

「柘」

 母親の顔は、三日月で構成されていた。目と口が三日月のように、ほっそりと弓なりになっている。

「元気?」

 人の血をすすってきた後のように真っ赤な唇が、やけになめらかに動いた。

「ぁ……」

「ひどいよね、あんな人の言う事に、今までずっと従わされてたんでしょ?私と柘を会わせないために、こんなひどい謀略を」

 僕は一歩後ろに下がる。母親は一歩前に出る。

「会ってわかった。やっぱり、柘はお母さんに会いたかったんだよね」

 母親の服は、前会った時と変わっていなかった。コートが少し黒ずんだ以外は、まったく変わっていなかった。

「お母さんが助けに来たから、安心してね。こんな家出て、早くお母さんと暮らそう。おじいちゃんもおばあちゃんも、喜ぶわよ」

「おじいちゃん……?」

 祖父は、もう五年も前に他界した。厳格で、いつも静かな人だった。明確に何か嫌なことを言われた記憶はない。ただ、あの温度のない目で見られるのが、幼い僕にはどうしようもなく恐ろしかった。医師でなければ、血がつながってないとばかりにあしらわれる年上の従兄弟を見て、いつか僕もあんな風にされるのだと。従兄弟を見る度に、晒し首を眺めるような感覚に襲われていた。母親に会いたくないのもあって、葬式には行かなかったが、亡くなったことは聞いている。

「ね、四人で暮らそう?」

 祖父が生きていると思い込んでいるのか。それとも──祖父が生きていたころで時が止まっているのか。

この人は、僕が何歳だと思っているんだろうか。ただの無力な子ども扱いではなく、ほんとうに僕が無力な子どもだと思っているのだろうか。

よくわからない作り話を真実のように語る母親は、何か別の世界から来た人間のようで不気味だ。

 背中を這い上がるように、恐怖が足先から脳に届く。この人は、想像以上に危険だ。

「ッ、帰って!」

母親の肩を押して、玄関から押し出す。母親はもう五十歳になっているから、力のない僕でも簡単に押し出せた。母親は僕に押され、玄関ポーチまでヨロヨロと後退した。

「も、もう、来ないで」

僕の言葉に対して何か反応するでもなく、母親の顔は下を向いている。玄関ポーチの石畳をジッと見つめ、呼吸さえも忘れているようだった。一瞬僕は不安になったけれど、可哀想なんて思ったらダメだ。この人は、異常なんだ。僕まで巻き込まれるのは怖い。

逃げるように玄関ドアを閉めて、リビングに戻る。窓の鍵が全て締まっているか、家中の窓をチェックして回った。

僕の部屋の窓を最後に確認した時、家の門をあけて帰ろうとする母親が見えた。その曲がってしまった背中に哀愁を感じるかと思ったけれど、それよりも恐怖が強い。亡霊のように道路を歩いて曲がり角に消えた母親を、僕は震えながら見た。

母親は罵声を発していない。なのに、昔聞いたあの声が頭の中で反響する。『どうしてできないの』が、僕の身体の脈動さえも否定しているような気がして、息が苦しい。引っ掻くように、机に爪を立てた。小学校入学を機に買い与えられた勉強机の表面は、ほとんど使われていないからツルツルしていて爪が滑る。

僕は机の上の定期入れに手を伸ばして、引っ込めた。薫さんの家に逃げようと家を出た瞬間、ひょっとしたら母親が待ち伏せしているかもしれない。僕は階段を転がり落ちるように降りると、リビングに駆け込んでスマホを必要以上の力で掴む。パスワードを入力して、ホーム画面が表示された瞬間にチャットアプリを起動させた。起動中の画面を急かすように何度もタップする。いつもの五倍も六倍も、起動時間が長く感じた。荒い呼吸を直すこともせず、薫さんに電話をかける。

『もしもし』

薫さんの声が聞こえた瞬間、頭に渦巻いていた無数の言葉が一瞬でなくなった。その渦巻いていた言葉を排出するように、ホロホロと涙が溢れ出す。

「く……くゆ、るさん」

薫さんは、静かだった。初めて僕が母親の話をしたときのように、何も言わずに寄り添ってくれている。

「母親が……家に……来て……」

『うん』

「怖くて……そ、外で、家の外に、いるんじゃないかって思ったら……怖くて」

 ヒク、と喉が痙攣する。子どものような泣き方で恥ずかしいけれど、そんなことを気にすることができるほど、余裕はなかった。全身を、ツタが絡みつくように恐怖が蝕む。

『柘くん』

僕は顔を上げた。電話越しなのに、無意味に。それくらい、薫さんは隣にいるように感じた。

『今から、家に行くよ』

「で、でも薫さん用事は?」

『君が来てほしくないなら、いかない。でも、嫌じゃないなら、行かせてほしい』

電話の向こうの薫さんは、きっと優しい顔をしている。いつも見せてくれる、あの少し眉尻を下げた照れたような笑顔。見えないとわかっていても、僕は頭が取れそうになるほど上下に振る。

『いいよね?だって、私たちは一人ぼっち同盟なんだから』

薫さんの優しい言葉に、僕はどうやって返していいかわからなかった。




薫さんは、すぐに来てくれた。彼の車が家の駐車場に停まったのを窓から確認して、そっと玄関のドアをあける。薫さんは片手を上げて、陽気な感じでやってきた。

「やぁ」

「薫さん、ごめんなさい」

「何が?謝ることなんて何もないよ」

薫さんは僕の両肩をポンポンと叩く。鼻の奥がツンとして、僕はそれを振り払うように頭を左右に振った。

「おじゃまして、いい?」

「あっすみません、気が利かなくて。綺麗な家じゃないですけど、どうぞ」

「ありがとう」

薫さんは靴を脱ぐと、キッチリ揃えてから立ち上がる。彼は僕の後ろにくっついて、リビングに足を踏み入れた。

「えっと、飲み物出しますね」

僕の手を、薫さんはそっと止めた。

「大丈夫だよ。買ってきたから」

薫さんの片手にビニール袋が握られていたことに、やっと気がつく。ビニール袋にできたシワから、ペットボトルが二本入っているのがわかった。

「温かいもの飲むと、落ち着くよ」

彼はビニール袋からペットボトルを取り出すと、僕の前に差し出す。両手を出して、そのペットボトルをつかんでみた。まだ肌に触れる空気が冷たい春先だ。自分の想像よりも下がっていた両手の体温を、温かいペットボトルの熱で取り戻していく。

「こうやって触れるだけでも、効果は十分だね」

僕は頷くと、右手の甲をペットボトルに押し付ける。次は左手の甲。じわじわと熱が広がって落ち着いた。

「落ち着いた?」

「はい」

薫さんは髪を梳かすように、僕の頭を撫でた。

「……柘くん」

顔を上げると、薫さんは真剣な眼差しで僕を見ていた。彼は少し言いにくそうに眉間にしわを寄せてから、それでも決心したように口を開く。

「よかったら、私の家に来ないか?」

「薫さんの家に?」

「うん」

薫さんは頷くと、窓の外に視線をやる。

「この調子だと柘くんのお母さんは、たぶんまた来る」

僕もつられて窓の外を見た。いないはずの母親の目が、窓の向こうからこちらに向いているようで、身を震わせる。

「その点、うちなら家の場所は割れてないだろ?」

頷きかけた自分の頭を、すんでのところで止める。

「でも……」

「一人暮らしは寂しいからね。私も、柘くんが居てくれたら楽しい」

薫さんの髪が揺れた。柔らかい春の風に吹かれたようで、僕は下唇をぎゅっと噛む。噛まないと、あっさり泣いてしまいそうだったから。ごめんなさい、と言いかけて、その言葉を飲み込む。

「ありがとうございます」

「うん」

僕の頭に、薫さんは撫でるように触れた。よく出来ました、と言われた気がした。

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