第8話

 朝、目が覚めて部屋を見回す。部屋の中は変わらず殺風景だが、階段を下りてギョっとした。玄関から風呂に向かって、足跡のように服が散乱している。

たしか昨晩は、手島と別れていつも通り真っ暗な家に帰り、カバンを玄関に捨てるように置いて、疲れ果てて鉛のように重たい体を引きずりながらシャワーだけ浴びた。

昨日の僕は、最後の方変だったかもしれない。かもしれない、というより変だったと断言できる、なんて考えて、手島に連絡をしようとした。でもベッドのサイドチェストに手を伸ばして、そこにスマホがないことに気がついた。ペタペタと無意味にサイドチェストを叩いてから、玄関に放置したカバンの中にスマホがあることを思い出したけれど、完全に電池切れという感じがして、やめた。せめてものキチンとした生活を送ろうという、僕の紙切れ一枚ほどのペラペラの理性が、電気のリモコンを手にして、部屋を暗くした。それと同時に、プッツリと意識が事切れた。

以上が、昨晩の僕だ。酔ってもいないのに、酔っぱらい以下の前後不覚状態のような感じになっていた。

「はーあ、だらしないや」

自分に呆れながら、服を拾う。こういう精神が疲れると、急に身体にまでガタがくる生活をやめたいと思っていた。けれど染み付いて取れなくなってしまった習慣のようなものは、ちょっとやそっとでは無理そうだとわかる。

精神の疲れ。自分の思考に、引っ掛かりを覚えた。別に、昨日は手島と遊んだだけだ。遊び疲れることはあっても、精神的に疲れることなんて何もないはずなのに。友だちに精神的に疲れるなんて、絶対にあるはずないのに。

ドラム式洗濯機に昨日着ていた服やパジャマなど、カゴに溜め込んでいた衣類を入れる。洗剤を入れて、フタを閉めて、洗濯機が唸り声を上げて震えるのをぼんやりと眺めた。グルグルと衣類が回る。僕の心の中みたいに、グルグルと回っていた。





「ふぅん、友だちに疲れる、ね」

薫さんはマドラーを引き出しから取り出して、マグカップの中に突き立てる。クルクルとかき混ぜると、コーヒーの黒色を、ミルクの白色が柔らかい色に中和していった。

「なんか、自分がサイテーだなって……」

「そう?そんなことないと思うけど」

薫さんの家のマグカップは、いつもコルクのコースターの上にいる。布は何だかんだ濡れてしまうし、珪藻土は壊してしまいそう。だからコルクのコースターがちょうどいいのだと言っていた。

ミルクの侵略によってカフェオレになったコーヒーを、一口飲む。温かくて、氷のようになってしまった身体の芯が、柔く解れていくような感覚になる。

「友だちって、他人だよ。親とか家族もそうだけど、どこまでいっても自分じゃない、人」

「自分じゃない、ですか」

「うん。だって友だちも恋人も家族も、柘くんと同じ体を共有して、同じ体で感覚で、ぜーんぶ同じで生きてるわけじゃないでしょ?別々の個体だ」

薫さんはそう言って、自分のマグカップにマドラーを突き立てる。混ぜたりなかったのか、手持ち無沙汰なのか。あの繊細な手つきで、細いマドラーを指揮棒のように扱って混ぜていた。

「だから一緒にいて疲れるのは当然だよ。別に柘くんは、最低な人じゃないよ」

「そうですかね」

「そうだとも。柘くんは生真面目だね。友だちに対して、かくあるべき!みたいなのは素敵だけど、いつか苦しくなっちゃうよ」

マドラーで、彼は僕をピシリ、とさした。

「……いい友だちなんだよね?」

「良いやつです。僕と違って明るくて、ハッキリしてて」

薫さんは机に頬杖をつくと、ウンウンと頷く。手島について人に話すのは、初めてだった。父親と友人関係についての話をしたことはない。晩ご飯や家族団らんの時に、学校でその日にあったことを話すような家庭ではなかったからだ。母親もあんな状態の人で、父親はそもそも普段から家にいない。話し相手なんていなかった。

「同じように学校のこと好きじゃなくて、いつも似たようなこと考えて……」

「学校同じだったの?」

「同じ中高一貫の男子校です」

手を組んで、クルクルと親指を回す。親指が回る度に、時間が巻き戻されるような気持ちになった。一年前、二年前、と遡って、中学高校のころの記憶が戻ってくる。

「中学には、親が離婚して割とすぐに入学したんです。だから僕、結構心閉ざしてて」

桜が散った校内で行われた入学式には、参加出来なかった卒業式と離婚の埋め合わせとばかりに、父親が来た。僕に対して患者さんに接しているのかと錯覚するほど気を遣う父親に、反抗期も手伝って行き場のない苛立ちを感じていた。

「そんな時に、手島が話しかけてくれたんです。なんてことない話から母親の話まで、色々話すようになって」

「聞き上手な子なんだね」

「はい。こっちの話をよく聞いてくれて、上手いことまとめてくれるんです。僕は母親にずっと否定されてきたこともあって、自分の意思とか自分でもよくわからないことが多かったから……」

薫さんの声は、柔らかくて心地が良い。低めで芯が通っているけれど、その芯の周りをふわふわの綿が包んでいる。この声に触れると、クッションの中に埋もれているような気持ちになって、なんでも話したくなるから不思議だ。こんなふうに、僕のこと、僕の周りの人のことを話せるのは、重荷を下ろした開放感がある。

「お母さんとは、随分確執があったんだね」

「母さんは……」

 母親の顔が頭に浮かぶ。いつも母親を思い浮かべて最初に出てくるのは、あの般若のような憤怒の表情だ。けれど、その後すぐに笑顔が出てくる。テストで満点だったりして母親の気分がいいときは、優しい人だった。自分の気分一つで子どもに接する、最低な人だ。それはわかっているのに、あの優しい瞬間の思い出が消せない。

あの優しかった母さんの姿も、間違いなく僕の母親なのだから。

「怖い人でした。いつも。でも、優しい人でもありました」

 母さん、と呼んで百点満点のテストを見せると、準備中のご飯を投げ出して、僕を褒めてくれた。

「すごいじゃない。柘が頑張ったの、お母さん知ってたよ」

 怒鳴り声以外の母親の声を、すっかり忘れていた。僕はおずおずと、半分無意識のうちに自分の頭に触れる。

「こうやって、撫でてくれたんです。じゃあ、今日は柘が頑張ったからハンバーグにしようか、って」

 叩かれたことも数えきれないほどあるあの手で、母親は僕を愛し、僕の好きなご飯を作った。

 母親が、嫌いだ。怖い思い出がたくさんある。でも、母親との幸せな思い出が邪魔をする。怖い思い出だけになってしまえば、いっそ気が楽なのに。

「……完全に嫌いになることは、できないよね」

 頭に触れた僕の手に、薫さんの手が重なる。

「私の父も、そうだった」

 薫さんは肩をすくめてから、視線を斜め下に落とす。長いまつげが、陰を落とした。

「母は私が小学生の時に亡くなった。近所でも評判の美しくて優しい人だった。世界が終わっちゃったみたいな、どうしようもない悲しさだけが、私にのしかかってきたんだ」

 僕は、薫さんの亡くなったお母さんの顔を想像する。薫さんと、きっとよく似た美人だったのだろう。切れ長で凛とした眼差しの女性が浮かぶ。

「けれど、父はこの寂しさをわかってくれなかった。私の話を聞こうとも、理解はおろか歩み寄ろうとすらしなかった」

「薫さん……」

 薫さんの目が、真っ黒に染まっている気がした。口から流れ出す言葉が、黒い。初めて見る彼の影の部分が、部屋に広がる。

「一人が辛いことを、まったくわかろうとしないんだ。ひどい人だよ」

「……僕は、わかります」

薫さんは、はっと顔を上げた。

「僕も、一人で寂しかったから」

彼は眉尻を下げると、一度大きく頷いて照れたように笑った。僕もそれにつられるように、照れたようにはにかむ。

「じゃあ、私たちは一人ぼっち同盟だ。お互いが寂しい時は、そばに居よう」

一人ぼっち同盟。寂しげな言葉で創られた暖かい言葉を、僕は胸に刻もうと思った。

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