貴女の中に流れる、恐ろしいほどに純潔な赤色 後編
数日して返ってきた英語の小テストは、満点だった。
帰り道を歩きながら、私の心は微かな期待に染まっていく。このテストを見せれば、お母さんは少しだけ機嫌をよくしてくれるかもしれない。限りなく低い可能性だけれど、私のことを褒めてくれるかもしれない。そう考える時間には、甘い快楽が存在した。
家の鍵を取り出して、扉を開ける。お母さんは仕事に行っていて、まだ帰ってきていないようだった。私は鞄を自分の部屋に置いて、洗面所で手洗いとうがいを済ませる。
そうしていると、どっと疲れが押し寄せてきて、私はリビングのソファで横になった。少しだけ、眠ろうと思う。白い明かりに包まれながら、私の意識は段々と霞んでいった。
*
「陽色!」
怒鳴られて、目を覚ます。私はびくりと身を震わせてから、声のした方を見た。そこには、スーツ姿のお母さんが立っていた。時計を見ると午後六時で、二時間ほど眠ってしまったようだった。お母さんは不機嫌そうに口元を歪めながら、大声を出す。
「電気を点けたまま寝るなって、何度言ったらわかるの! 電気代が無駄になるでしょ! あんたみたいな
私はソファに座りながら、ごめんなさい、と呟いた。帰り道の自分を嘲った。ほのかな期待に縋る時間は、楽しかった? どうしようもなく、惨めだった。
「それに、制服のまま寝たら
「……違う、」
「口答えするんじゃねえよ!」
お母さんは、近くに置かれていた椅子を蹴り飛ばす。大きな音を立てて転がった椅子が、私を恨めしそうに見つめていた。私は何かを否定するかのように、首を横に振った。違う。違うの。全部、全部が……違うの。
「どいつもこいつも、私のことを馬鹿にしやがって……! ふざけんじゃねえよ! 私はこんなに頑張ってるのに、必死に一人で働いて馬鹿な子どもの世話までして、頑張ってるのに!」
お父さんのことを、思った。
幼い頃は幸せだった。あのときの私は、今どれだけ恋しく思っても手に入ることのない『普通の家族』を簡単に享受していて、しかもそれが当たり前のことだと信じて疑わなかった。
愚かな少女だった。『普通の家族』は呆気なく終わって、お父さんはこの家を出て行って、それから私はお母さんと二人きりで暮らしていた。
「何とか言いなさいよ! ずっと黙ってばっかで気持ち悪いのよ、あんた!」
お母さんの目を見た。黒い瞳は、淀んで、濁っていた。
「……ごめんなさい」
だからきっと、私の瞳も同じくらい淀んで、濁っている。
「あのさあ、謝ればいいって思ってるんでしょ! 小賢しいんだよ! あんたはいつもそう! ずるい人間なのよ、あんたは!」
……私とお母さんは、親子だから。
「あんたと血が繋がってるなんて、おぞましいわ」
吐き捨てるように言われたその言葉に、自分の中にある何か大事な糸のようなものが、ぷつんと切れた心地がした。私はのろのろと立ち上がって、震えた声で叫んだ。
「私だってっ……私だって、おぞましいよ!」
言い終えて、走り出した。怒声が聞こえた気がしたけれど、気付かないふりをした。私はこの場所から逃げ出さなければならなかった。駄目だ。ずっとここにいたら、私はばらばらに壊れてしまう。汚い血を滲ませる肉片になってしまう……
扉を開けて、鍵を閉めて、行く当てもなく駆け出した。
*
走るのにも疲れて、私は夕暮れに染まった世界を、どこか呆然としながら歩き続けていた。初夏の匂いがする。爽やかな季節の中で、私だけがべたついてしまって、しょうがない。
「……どうすればいいの」
そんな言葉を零していると、自分の中の濁りが僅かに透き通っていく気が、した。
「どうすれば、いいの」
でもそれだけでは清くなれないほどに、私は濁り切っていた。
うずくまって、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
「……陽色?」
聞き慣れた、声がした。
私はばっと顔を上げる。色素の薄い長髪に夕焼けのオレンジが絡まって、煌めいている。小桜は心配そうな表情を浮かべながら、私のことを覗き込んでいた。
「大丈夫、陽色? どうしたの? お腹痛い?」
「……どうして、ここに」
「え、部活帰りだよ? テニス部の練習、今日も大変だったあ。すっごい汗かいちゃったよ」
ぱたぱたと手を動かしてみせる小桜を見つめながら、私は立ち上がった。微笑んだ彼女はまた心配そうな顔付きに戻って、私を見つめる。
「それで、どうしたの? 座ってるから、びっくりしちゃったよ! 落ち込んでるみたいだけど、何かあった? わたしでよければ、お話聞くよー」
小桜はそう言って、両手で私の右手を掴んだ。大きな焦げ茶色の瞳が、私の姿を映し出している。ああ、綺麗な目だ、途方もなく……
「……何でもないよ、気にしないで」
「えー、そうなの? でも陽色、すっごく辛そうだよ。……実はいつも、ちょっとだけ辛そうな顔してる。わたし、あなたのことが心配なんだよ。本当に、大丈夫なの?」
私はほのかに、口角を歪める。
やっぱり小桜は、清らかだ。
数日前に見た彼女の血の赤さを、思い出した。鮮やかに、澄んでいた。小桜の中を流れる血液は、柔らかな愛情で満たされているに違いなかった。
羨ましかった。
そしてそれと同時に、憎かった。
その清さは、私には絶対に手に入らない、ものだから。
「大丈夫だよ……小桜、あのさ、」
「うん、なあに?」
彼女の右手には、あのとき巻かれた絆創膏はもう、なくなっていた。
「そうやって人を心配するふりして、楽しい?」
「……え?」
「貴女はただ、気持ちよくなってるだけだよ。偽善は楽しいもんね、心地いいもんね。……迷惑だよ。すごく、迷惑」
私は小桜の手を振り払って、言葉を待った。
暗く淀んだ何かを、見せてほしかった。その清さの奥に汚いものが隠されていると、私はまだ、信じていたかったのだ。
……でも、小桜は。
「そんな……ごめんなさい、陽色。そういうつもりじゃなかったの。わたし、本当に、あなたが心配だった……」
そんな美しい言葉を零して、無垢な瞳に涙をいっぱいに溜めて、
私はすぐに、狂おしいほどの後悔に襲われた。
けれど、何も言うことができなかった。私にそんな資格はないような気がした。だから私は、溢れ出した透明な血を手で拭う彼女から逃げるように、歩き出した。段々と遠ざかっていく嗚咽に、私も泣いてしまいたくなった。
*
……どれくらい、歩いただろうか。
見覚えのない景色の中で、私は一人だった。世界は夜の始まりを迎えて、空は薄紫色に染まっていた。
最低だ、と思った。結局私はお母さんと同じように、自分が苦しいときに他者に当たり散らすことしかできない。お母さんの行動を憎悪しながら、本質的には何も変わっていないじゃないか。
こつんと、足に何かが当たる。私は立ち止まって、それを拾い上げた。石のようだった。歪な形をしていて、それに不思議な親近感を覚えている自分がいた。
私は右手で石を持ち、左手の甲を近付けた。そうして、尖った部分を何度も柔い肌にぶつけた。長い時間繰り返すと、手の甲から少しずつ、血が滲んできた。
夜の中だからか、血は少しだけ赤黒く見えた。その色彩が、自分に相応しいように思った。私の血は、小桜の綺麗な血とはかけ離れた、濁ったものだから。
今も肉の中を循環している自分の血液を全て、なくしてしまいたかった。
そうしてもっと、小桜のように清らかな血で、生まれたかった。
……生まれ、たかった。
貴女の中に流れる、恐ろしいほどに純潔な赤色 汐海有真(白木犀) @tea_olive
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます