貴女の中に流れる、恐ろしいほどに純潔な赤色
汐海有真(白木犀)
貴女の中に流れる、恐ろしいほどに純潔な赤色 前編
いつからだろう。
お母さんが私に、刃物のような言葉を浴びせるようになったのは。
「何でこんな点数を取ったのよ! ちゃんと勉強していれば、もっといい点数が取れるはずでしょう! あんたはいつもそう! 成長が感じられないのよ、成長が!」
箱庭のような小さいリビングで、私は床に正座して俯きながら、お母さんの怒声を聞いている。お母さんの右手にはぐしゃぐしゃになった数学の小テストが握られていて、左手は何度も、何度も、テーブルを強く叩き付けている。お母さんは血色の悪い唇から唾を飛ばしながら、暴言を吐き続ける。
「ケアレスミスだとか、そんな言い訳はどうでもいいのよ! お母さん言ってるわよね、同じ間違いを何度も繰り返すなって。
私は呟くように、ごめんなさい、と言う。でもその声も、テーブルを叩く音によって掻き消されてしまう。お母さんは私の小テストを、びりびりと破き始める。
私の視界に幾つもの紙切れが落ちて、それを見ていると自分の努力が全て否定されてしまった気がして、途方もなく悲しくなる。目に涙が滲んだけれど、泣いてしまえばさらに怒鳴られるから、必死にその液体を零さないように、瞳の膜に閉じ込めておこうと思う。
「今日はもう、ずっと勉強してなさい。私の視界にも入らないで。……本当に、あんたなんて産まなきゃよかった」
吐き捨てるように言って、お母さんはリビングを出て行く。扉が大きな音を立てて閉まったことにびくりとしてから、私はのろのろと立ち上がって、小テストの
……いや、もしかすると、求めていないのかもしれない。お母さんは私を叱り付けたいと常々思っていて、そこに手頃な理由が転がっているのを、求めているだけなのだから。そんなこと、よく知っている。
私はゆっくりと息を吐いて、ばらばらになった小テストをごみ箱に捨てた。微かな罪悪感が胸に詰まって、ごめんなさい、とぽつりと零した。
*
私は教室で自分の席に座りながら、ぼんやりと窓の向こうを見ていた。町と共存している自然は、初夏の季節に相応しく青々としている。それなのに私の気持ちは
「何してるのー、陽色?」
後ろから聞き慣れた声がして、私はゆっくりと振り返った。
そこには、
日本人にしてはやや色素の薄い長髪と、焦げ茶色の大きな瞳。柔らかそうな唇は、ほのかな赤色に染まっている。顔立ちが整っているからか、質素な制服も随分とよく似合っていた。
「……おはよ、小桜。別に、何もしてないよ」
「うっそだあ。わたしは見逃さなかったよ、陽色が自分の筆箱をつんつんいじめてるのを!」
「いじめてねえよ」
私はそう言って、笑う。小桜は鞄を机の脇に掛けて、私の後ろの席に座った。「
「というか陽色、今日の英語の小テスト、勉強してる? わたし、やばいんだよねえ」
「勿論勉強してるよ」
「うわあ、やっぱり! 陽色って本当に真面目だよねえ、尊敬しちゃうなあ」
小桜は頬杖をつきながら、無邪気な笑顔を浮かべる。私は彼女から目を逸らしながら、ぽつりと言う。
「そんなことない。前にあった数学の小テストも、一問間違えたし」
「えええっ、だってあのテストさ、確か十問あったし結構難しかったじゃん! わたしなんて六十点だったよ? 本当、陽色は頑張り屋さんだねえ」
私は小桜の方を見る。彼女の瞳は全く濁っていなくて、清らかで、今紡がれた言葉も本心だとすぐにわかる。
……尊い人だ。
私のお母さんとは、そして私とは、大違いだ。だから時折、小桜のことを疑いたくなる。心の奥底には暗く淀んだ何かを抱えているのではないかと、思いたくなる。でも小桜の目は、どうしようもなく澄んでいる。思わず嫉妬してしまうほどに。
「……? どうしたの、陽色? わたしの顔、なんか付いてる?」
「いや、別に」
首を傾げた小桜に、私は笑顔を返した。
「そっか、それならいいんだけど。というか英語の勉強しなきゃ! テキスト、テキスト」
小桜は鞄をがさごそと漁り始める。私も念のため復習をしておこうと思って、机の上に置いていた英単語帳を手に取った。ぱらぱらと
「どうしたの」
「あー、やっちゃったあ。指、ページで切っちゃった」
小桜は恥ずかしそうに笑いながら、私に向けて右手の人差し指を見せる。指の腹に一本の細い線が走っていて、そこから微かに赤い血が溢れていた。鮮やかな、色だった。
「絆創膏、絆創膏……あっ、今持ってないんだった! 昨日靴擦れしちゃってさ、そのとき使っちゃったんだよねえ。凡ミスー」
笑っている小桜を横目に、私は鞄から一つの絆創膏を取り出して、彼女に差し出した。
「これ、使って」
「えええっ、くれるの!?」
「うん」
「陽色、用意いい、優しい! ありがとう、本当にありがとうー」
「いちいち大袈裟だな」
「そんなことないもん!」
小桜は私の絆創膏を受け取って、指に巻こうとする。でも、利き手の人差し指が使えないからか、少し大変そうだった。
「……私が巻こうか?」
「あー、ごめん、助かる! お願いしますー」
私は頷いて、彼女の巻かれかけの絆創膏に手を伸ばした。丁寧に、それを巻く。小桜の血液が、再び皮膚の奥に閉じ込められるように。
「ばっちり! ありがとう陽色ー、本当に助かったよ! 感謝だねえ」
「別に気にしなくていいよ」
嬉しそうに笑う小桜に向けて、私も微笑を返した。
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