屋上-3

 それからなにを話したかは覚えていない。会話などなかったかもしれない。病室を出た僕は廊下を進み、エレベーターの前に出ている案内で病院の屋上に出られることを知って、気づけば上へと向かう狭い箱にひとり揺られていた。

 病院の屋上は庭園のようになっていた。外出できない入院患者の気分転換のためのスポットなのだそうだ。車いすでも通れるような幅の広い通路、ところどころに設置された長椅子。東屋もある。もちろん、転落防止のための柵も。

 さすがに病院の柵だ、忍び返しが長めに上に突き出た形状をしており、これを乗り越えるのは学校のものより相当難しいように見える。そもそも柵と通路が隣接しないような作りになっていて、庭木を避けるようにしないと柵に触ることはできない。一種の心理的な抵抗としてはたらくのだろう。

 それでも、難しいだけだ。乗り越えられないことはない。つかむ部分も足を引っかけられそうな箇所もある。忍び返しさえ気をつければ向こう側にいけるだろう。落ちたらまず助からない、学校の屋上の何倍もの高さへと。

 僕は長椅子のひとつに腰を下ろした。初夏の日は長く、太陽の沈む気配はもう少し先だ。曇りない晴れやかな空だったが、屋上に出ている人は他にいなかった。広い空間にひとりきり、なにをするでもなくぼんやりと座っていた。

 乗り越えられるだろうか、と思う。目に映る柵を。物理的には可能だ。しかし、いまの僕には乗り越えられない気がした。たとえ学校の屋上が閉鎖されなかったとしても、きっと、もう一度あの金網を越えることはなかったと思う。その点において、笹森の心配は杞憂だったと言っていい。

 あの瞳。

 死なないでくれと願う、笹森のあの瞳に、僕はずっととらわれているような気がしていた。ずっと、覚悟を問われているような。ふさわしいだけの覚悟がないのなら、こちらに戻ってこいと乞われ続けているような。自分というものを直視せず、荒波を避けることだけを選択の根拠として生きてきた僕に、笹森が抱いていたほどの覚悟のあるはずもないのに。

 きっと、あれが最後のチャンスだったのだ。初めて笹森と会ったとき。誰かに見つかる前。まだ覚悟を問われていなかったあのときの僕は、向こう側へと倒れることができた。その最後の選択をもう少しだけ早く、自分の意思で選べていたなら、違う未来もあったかもしれない。だが、僕は選べなかった。選ばないでいるうちに、笹森に見つかってしまった。

 記憶の中の金網が、ずっと、ずっと高く感じられる。開けているようでどこへも行けない屋上から逃すことのないように。

 母との関係はなにも改善されていない。現状維持という名のぬかるみに、ゆっくりと沈み続けている。手遅れになる前に動かなければと思う。だがその焦燥をどうやって表に出せばいいのか。もう何度目か、くすぶった心のうちで言葉が反響する。


 ――どうか、死なないでください。


 死なないよ。死んだりなどするものか。

 だけど、この足はまだ動くのだろうか。

 分からない。

 自分の足とは、どうやって動かすものだったろうか。

 分からない。

 どうしても分からなかった。

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