現在-3

 拘束時間は午後三時まで。三時を回ったら片付けの終わっている集団は各々下校してよいことになっていた。クラスの片付けはとっくに終わっていたが、見とがめられるのも面倒なので教室で時間を潰し、長針が真上を向いたのを確認してから校舎を出た。

 学校の校門前にあるバス停を初めて利用した。路線図をしっかり確かめるまでもなく、目的地である病院行きのバスがあったのでそれに乗った。乗客はまばらだった。前方の一人用シートに座って揺られること二十分、車内の一度も混まないまま目的地へと着き、事前に用意していた小銭を支払ってバスを降りた。

 着いたのは地域で一番大きな総合病院だった。幸いなことにこれまでの人生においては縁のない場所だった。学校の校舎よりも壮大な威容を誇るこの建物のすべてが医療のためにあるというのは、裏を返せば医療を必要とする人がそれだけいるということで、考えてみると落ち着かない気持ちになりそうな話だった。

 病院の入り口はバス停からすぐのところにあった。中に入ってすぐは待合室になっていて、平日の午後ながら椅子はそれなりに埋まっていた。面会の受付を探すがそれらしい案内が見つからない。仕方ないので目的に一番近そうな『入退院受付』で尋ねると、面会の手続きは別のカウンターで行うそうで、そちらまで案内してもらった。

 事前に聞いていた部屋番号を伝え、面会票を記入し、面会者であることを示す首から下げるカードをもらう。これでもう入院棟をある程度自由にうろつけるらしい。お礼を言って院内を進む。

 聞いていた部屋番号は三階のものだったので、それくらいならと階段を使うことにした。継ぎ目のない床は磨き上げられたようにピカピカで、照明の光がなんだか眩しく感じられた。歩いていると、薬品のものだろうか、日常ではあまり嗅いだことのない匂いが何度も鼻についた。

 二階分を上り、案内板に従って目的の部屋を目指した。途中で角を曲がり、部屋の横に並ぶ患者の名前が書かれたプレートの中に探す名前を見つけた。四人部屋のようだが、いま入院しているのは一人だけらしい。

 ノックすると中から「はーい」とくぐもった声が聞こえてきた。スライド式のドアを開ける。互いに足を向けるようにベッドが二つずつ並んだ部屋、そのうち奥の右側のベッド、患者服であろう青い衣服を着た女子が体を起こして出迎えるようにこちらを向いていた。

 笹森だった。

「すみません、わざわざ来てもらっちゃって」

「ああ……お邪魔します」

 返事ともつかない声を漏らし、中に入ってドアを閉める。それぞれのベッドの横にはひじ掛けのついた椅子があった。面会者用のものだろう。笹森の近くにあったものを引き寄せて座った。

 向かい合うと、笹森と同じ高さの視線になった。

「その……調子は、どうなの」

「全然元気ですよ。骨はいくつか折れてるんですけど、二週間くらいでくっつくそうなんで、しばらく大人しくしてれば大丈夫みたいです」

 なんでもないことのように、予想していた以上に平然と笹森は言った。

 笹森は屋上から飛び降りた。だが、死にはしなかった。

 飛び降りた地点に植え込みがあり、それがいくらか衝撃をやわらげた。植え込みの下は固い地面ではなく土であり、落下してから救急車が到着するまでも早かった。三階建ての校舎の屋上というのは危険な高さには違いないが致命的というわけでもない。飛び降りた笹森はすぐに病院へと運ばれ、そのまま今日まで入院しているらしい。

 事情が事情なだけに入院先は公表されていないが、飛び降りた生徒の命に別状のないことは学校でも知らされていた。これでもし笹森が死んでいたなら、事件について噂するみんなの態度ももう少し慎重なものになっていただろうと思う。……これは僕の勝手な願望だろうか。

「そう……問題ないなら、よかった。ごめん、お見舞いの品とか用意してこなかったけど」

「いやそんな気をつかわなくてもいいですよ。私が呼びつけたんですし。ほんとはこっちから伺うのが筋なくらいなのに」

 筋。筋か。それは、自分になんらかの説明責任があると感じているから出てきた言葉なのだろう。はたから見れば無関係のはずの僕が、なにかに巻き込まれていたことを示す言葉。

 思い返してみれば、たぶん、ずっと笹森はそうだった。はぐらかすことはあっても、僕と自分に対して明確な嘘をつくことは一度もなかった。きっとそこが笹森にとって譲れない誠実さのラインだった。

「……でも、私から説明するまでもなく、先輩はもう理解してるんじゃないですか?」

「どうかな。疑問に思ってることはあるけど、確証はないよ」

「こんなメッセージまで送っておいて?」

 ベッドの横の小テーブルに置かれていた自分のスマホを取り、なにやら操作してから画面をこちらに向ける。開かれていたのはメッセージアプリで、先ほど僕が送ったメッセージが表示されていた。

『もう知ってるかもしれないけど、文化祭の中止が正式に決定になった。満足か?』

「先輩にしてはちょっと、危ない橋渡ったなって感じでしたね。もし私がほんとに精神的に追い詰められて飛び降りてたんなら、けっこう傷つく質問ですよ、これ」

 連絡先は会って何度目かに交換していたが、連絡をとることはお互いほとんどなかった。笹森が飛び降りてからもだ。先ほどのメッセージを送るまで、僕は笹森になんの言葉もかけていなかった。飛び降りた相手に最初に送るのが邪推まがいの質問なのだから自分でも酷いと思う。

「そうだね。でも、僕にはどうしても、君が自殺するとは思えなかった」

 笹森の態度で、確証のなかったものが確信に変わった。だから僕は言葉を続けた。

「そもそも、自殺するための飛び降りと考えるには疑問があった。死ぬことが目的なら、なんで君はあんな、人目につくような方法で飛び降りたんだろう。まだまだ生徒の多く残っている時間帯に、人通りも多い学校の正面側へ。フェンスを越えてからも、すぐには飛び降りなかったんだよね? まるで注目を集めるみたいに。少しでも確実に死のうと思うなら、屋上の反対側から飛び降りればよかった。発見されるまでの時間が長い方が、救助の間に合わなくなる可能性は高くなるんだから。飛び降りた先も、固い地面ではなく緩衝材になりそうな植え込みに向かってだった」

「合理的に考えるならそうなのかもしれませんけど、追い詰められた人の気持ちなんて分からなくないですか?」

「分からないよ。だから疑問だっただけで確証はない。でも、君の飛び降りが自殺目的でないという僕の思い込みを強める傍証にはなった。だから、聞いてもいいと思ったんだ。どうして飛び降りたのかを、直接、君に」

「……その理由だって、もう察しついてるじゃないですか」

「それこそ邪推だよ。君が飛び降りたことで引き起こされた結果は、つまるところ一つだけだ。だから僕には、それが目的だったという答え以外を思いつけなかった」

 笹森が飛び降りたことでなにが起きたのか。

 全校集会が開かれた。いじめの事実が明かされた。いじめの主犯は針のむしろに座らされ、様々な憶測や風聞が巡り広がって、予定されていた文化祭は急きょ中止となった。笹森がいじめられているのを見て見ぬふりしていたクラスメイトを含む、全校生徒が楽しみにしていた文化祭が。

「笹森。君が屋上から飛び降りたのは、文化祭を中止に追い込むためだったのか?」

「……気持ちとしては、そうなったら儲け物だなーくらいの感じでしたね。あまり確実視はしてませんでした」

 笹森は否定することなく、思い出を振り返るような気楽さで話し始めた。

「一番重要だったのは、いじめがあったことを隠せない状態にすることです。中心になって私を攻撃してた人、大河内さんっていうんですけど、私が飛び降りた原因が大河内さんにあることを誰もが確信してしまうような状態にすること。実際、原因には違いないんですけどね。自殺騒動なんてものがあれば学校側が原因究明をしないはずがないし、突き止めた理由を完全に握りつぶすこともできないだろうと」

「それは、信用できる大人に相談するんじゃダメだったのか」

「内部から上がってきた情報の裏付けより、起こってしまった問題への対処の方が絶対本気になってくれるじゃないですか? それに、飛び降りてしまえば私がほんとうに被害者側であることが確定します。クラスメイトだって、いじめの実態の調査とかだったらとぼけるかもしれないですけど、自殺未遂の理由の心当たりを聞かれたなら事実を答えざるを得ないでしょう。遺書も書きましたしね。大河内さんにいじめられてましたって。死ぬつもりはありませんでしたけど」

 ――きっと、ほんとに自分を救えるのは自分だけなんです。

 いつだったか、笹森の言っていたことを思い出す。笹森は自らの境遇を打ち明けながら、誰の助けも期待していないようだった。だが、それは決して諦観からくるものではなかった。自らのおかれている状況をよしとせず、耐え抜くのではなく反撃してみせた。文字通り命をかけることで、誰もその覚悟を疑えないようにしたのだ。

「大河内さんは人を死に追いやるほどの酷いことをした。そういう印象をみんなが持つようにできれば十分といえば十分なんですが、それだけだと、他人事だと思って気にしない人もいますからね。文化祭の直前を狙ったのは、だからです。みんなの楽しみにしているイベントが私の自殺未遂で縮小開催なり中止なりになったとして、その責任を背負うべきだとみんなが考えるのは結果を引き起こした私じゃありません、理由を作った大河内さんです。私と大河内さんだけの問題じゃない、全校生徒を大河内さんの被害者にできるんです。学校が大河内さんにどんな対応をするのかは予測つきませんでしたけど、学年クラス問わずすべての生徒から当事者としての非難の情を持たれるのなら、報いにふさわしいかなと」

 許される空気ではない。ヘイトもヤバい。宮内の語っていたことがまさに大河内の現在の状況であり、大河内がそういう状況に陥ることを笹森は期待していた。

「だから、そうですね。私の行動は狙っていた通りの結果に行きついたわけですから、はい、私は満足です」

 笹森は。いじめを苦にして飛び降りた被害者だと誰もに思われている女子は、そう言い切った。みんなの楽しみにしていたイベントを潰し、自分をいじめていた相手への報復を済ませ、満足だと。

「そうか。……そうか」

 自然と、僕はうつむいていた。

 予想していた回答ではあった。笹森が自殺するはずがないと信じるのなら、屋上から飛び降りるという行為にはなんらかの打算があることになり、それはきっと表立っては言えないような理由につながるのだろうと。だがそれは、予想できていたとしても、聞きたくない答えだった。

 笹森がただの哀れな被害者ではなく、報復を果たすためにある種の狡猾さを発揮したこと。

 文化祭の中止という形で、事情を知りえない無関係な生徒まで計画に巻き込んだ自分勝手さ。


 ――そんなことは、どうでもいい。


 そうだ、どうでもよかった。笹森に死ぬ気がなかったことも、文化祭の中止を狙っていたことも、その憎しみの矛先を自分をいじめていたやつに向かわせようと画策していたことも。

 全部、どうでもよかった。ある意味でそれは、前提でしかなかった。

 僕がほんとうに確かめたかったことは、たったひとつだ。

「……笹森」

 顔を上げずに呼びかけた。

「はい、なんでしょう」

「いつからだ?」唇が渇いている気がした。「君はこの計画を、いつから立てていた?」

「…………」

 返事はない。僕の口は勝手に回る。

「君の飛び降りは衝動的なものではなく、きちんと計画されたものだった。それも、二日か三日そこらで立てた計画じゃない。もっとずっと前からのものだろう? それこそ、ひと月以上前かもしれない」

 笹森がいじめの標的にされたのは今年の春先からだという。そんな状況がひと月も続けば、その頃から計画を練り始めていたとしてもおかしくはない。

「君は騒動を大きくするために、自分の飛び降りを観客に見せつける必要があった。屋上からの飛び降りというのはいかにもなシチュエーションだ。誰も君の自殺の意思を疑ってない。それでいて、助かる公算は十分にあった。致命的ではない高度と、植え込みというクッションの存在。こんなロケーションはそうそうあるものじゃない」

 学校という場でとりうる手段で、同じだけの効果を発揮できる自殺方法がいったいどれだけあるだろう。これほど分かりやすくセンセーショナルで、自殺の覚悟を疑われない方法が。

「飛び降りる日も重要だ。一度きりの勝負、どうせなら最大の効果を狙いたい。文化祭の直前というのはうってつけのタイミングだった。誰もが君の飛び降りについて関心を持たざるを得ず、その背景についての噂も流れやすくなる。もし中止になってくれれば、君をいじめていたやつへの批判はさらに強くなるだろう」

 他の生徒たちにも当事者意識を与えることができれば、事件への言及はより早く、広く、深くなるだろう。誰にも制御しきれないほどに。

「君は計画を立てた。場所と日時は決まっていた。それはずっと前から計画できた要素で、なるべく動かしたくないものだった。……だからか?」

 最後までたどり着いてしまった。僕は、引き返せない問いを口にした。

「だから君は、僕の自殺を止めたのか? 



 いまどきは、屋上の開放されている学校の方が珍しいのだという。理由は簡単で、単純に危険だからだ。珍しいということは、存在しないというわけではない。実際、僕の通う学校では開放されていた。その気になれば容易く越えられてしまう転落防止の金網だけつけて。

 開放されていた屋上は、笹森が飛び降りてから閉鎖されるようになった。当然だ。屋上を開放していることで起きかねないと想定されるリスクが実際のものとなったのに、学校がその原因を放置しておくわけがない。誰かが飛び降りれば屋上は閉鎖される。簡単に予想できることだ。

 危険性だけではない。たとえば、授業をサボる生徒が屋上にいたら。人目につかない不純異性交遊の場として使われたら。隠れ場をなくす目的でも屋上は閉鎖されるかもしれない。それを避けるためにも笹森は屋上をなるべく監視していただろう。いつだったか、入り口に突っ立っていた僕を注意したのも、おそらくそれが理由だ。

 いずれ屋上から飛び降りる予定のあった笹森は、そのときまで、屋上の閉鎖につながりうる要因を排除しないといけなかった。

「……信じてほしいと言えた義理じゃないのは分かってますけど」

 ぽつりと漏れるような声に顔を上げる。笹森は部屋の奥、外の景色の映る窓に向かって話していた。

「先輩に死んでほしくないと思っていたのはほんとうです。というか、誰であれ死んでほしくありません。理由はありません。死ぬのはよくないことだと思います。だから、フェンスの向こうにいる先輩を見つけたときは、私の計画とか関係なく、必死に止めました。でも……」

 少し目を伏せる。自分のしたことを話していたときはずっと平然としていたのに、いまはどこか後悔を感じさせる表情だった。

「先輩が抱えている理由を私は知りませんし、知ったところで先輩を救うことはできないと思います。だから、もし、先輩の死にたいという気持ちがどうしようもなく動かしがたいものなら、私には先輩を止めることはできないだろうなと思ってました。……諦めてました。だから……だから、もし先輩が自殺を試みるようなことがあるとしても……それが学校の屋上からの飛び降りという手段でなければいいなと、私は願っていました」

 笹森の言葉に、きっと嘘はなかった。

 僕に屋上で危ないことをされると困ると言ったのも、抱えきれなくなったら辛い境遇を抱えた仲間がいると思い出してほしいと伝えてきたのも、理由などなく僕を死なせたくないという告白も、死ぬのなら屋上以外で死んでほしいと願ったという懺悔も。

 全部、偽りなく笹森の気持ちなのだろう。

 きっといまだって、笹森は僕に死んでほしくなどないし、それでも僕が死を選ぶのならそれは仕方ないことだと思っている。笹森にとって自分を救えるのは自分だけであり、誰かに救われることなど期待していなかったし、誰かを救おうという気もないのだろう。

 飛び降りるのをあと一週間ずらしてくれていれば文化祭が開けたのに、と。そう嘆くのとなにが違うのだろう。自分が飛び降りるまで屋上で誰かが死ぬのを阻止することは。違うような気も、違わないような気もする。決定的なのは、笹森は嘆くことなく成し遂げたという、その一点だけだ。

「先輩」

 こちらに向き直った笹森が言う。抱えた負い目を塗りつぶすように、その口元をしっかりと結んで。

「このひと月のこと、ありがとうございました。平気なつもりだったんですけど、事情を知ってくれてる人がいるっていうことに、けっこう助けられてました。それから、ごめんなさい。先輩の事情を知りもしないで、ずっと厄介絡みしちゃいました。いまさら詮索するつもりもありませんけど、私でよければ、いくらでも話を聞かせてください。だから……あの、いまから私、とても酷いことを言います」

 大きく開いた目がこちらを見つめている。いつかと同じ、どこまでも真摯な瞳が言う。

「どうか、死なないでください」


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