内観
自分の気持ちを表明することが苦手なのだと思う。正確には、自分の気持ちを伝えることが相手にとって負担になりそうだと感じられると、だったら僕が黙っていればいいや、となってしまう。黙っていれば僕が抱える問題は僕しか苦しめない。面倒そうな顔をされない。疎まられない。手を出されない。聞かれたことだけ聞かれた通りに答える。望まれている答えになるべく近づけるよう先回りする。
母は決して悪いひとではないと思う。ただ、家族が自分の思い通りにならないとき、ちょっと悲しみすぎてしまうだけなのだ。自分の身体を人質にして僕と父の気を引いて、心配と『僕が間違っていました』の言葉をかけてもらうことでようやく安心する、そういう人だった。そんな母を刺激しないようにするためか、父はとてもひそやかに生きる人だった。事務的な挨拶、最低限の会話、適度な感謝。それでもたまに母が悲しんでしまうときは、すぐに謝り、母がどれだけ頑張っていて、どれだけ自分にとって必要な存在かを、何回も繰り返したことのように手慣れた調子で説くのだった。
そんな父の姿を幼いころから見て育ってきた僕は、小学校も低学年のころからその処世術を真似るようになっていた。余計なことはしない、言わない。自分が悪いと思っていなくてもまずは謝る。小学校でも中学校でも、通知表には『もっと積極性を持ちましょう』と書かれていた。それを見ながら『誰に似たのかしらねえ』などと微笑む母の瞳には、大人しくも純朴で心優しく育った一人息子に対する慈愛がたしかにあったと思う。
父の態度が母に対するその場しのぎのご機嫌取りにすぎないことは、高校に進学するころには理解していた。自分の言動のいちいちが、いつ爆発するか分からないものに常に正誤を判定されているような息苦しさを感じることもあった。だからといって、爆弾は爆弾のままであり、身に沁みついた習慣をいまさら変えることもできなかった。せいぜい、母の目の届かない学校内では、自分というものに少しだけ素直に行動するようになったくらいだ。
学生のうちはそれでもいい。では、僕はいつまで母の機嫌を取り続ければいいのだろう。
母は、一人だけの息子が自分のもとから離れていくことに耐えられるだろうか。直接尋ねたことはない。案外、子の独り立ちを応援してくれるのかもしれない。しかし、進学の相談をして、もし母が悲しんでしまったら。僕はきっと自分の非を認め、もうそんなこと言わないと約束してあげることだろう。あるいは、自宅から通える大学に進学するとしよう。では、その先は? 就職するときは? 恋人ができたら? これからの人生の分岐点の全てにおいて、母が悲しまないことを最優先に選択し続けるのか?
自分の将来を薄っすらと覆う暗い膜について、僕は誰にも話さず、直視もしないまま過ごしてきた。父にも相談したことはないし、父の方からその話題が出たこともない。きっと父にとっての僕はある意味で対等な共犯者で、だから無関心を疑うほど、僕の生活にまるで干渉してこなかった。それでも僕が覚悟をもって母から離れることを選択したのなら、あえてそれを止めることはないだろうという気もしていた。あるいは、父からの反対など考える余裕が僕にはないだけなのかもしれない。
目を背けているうちに三年生になった。僕は相変わらず、母をいたずらに不安がらせないことにおいて熟練の配慮をみせる息子のままだった。追い詰められている実感もないのに決定的な選択の期限は迫り、このままでは自分でも気づかぬ間に、苦しいと感じることさえなく溺れてしまうのではないかと思うと、湿り切った焦燥がにわかにくすぶりだした。
そんなある日、屋上の金網を越えた。
見下ろす景色に恐怖はなく、僕の中では打算ばかりが渦巻いていた。
飛び降りたら母はどれだけ悲しむだろう。でもそれも僕にはもう関係のないことになってくれたりしないか。なにせ僕の方こそ追い込まれた被害者なのだから。ここらで労われる側に回ったって罰は当たらないはずだ。自分の言動が息子をここまで追い詰めていたことにあの人は気づくだろうか。気づかない気がする。いや、息子の自殺未遂なんて衝撃的な出来事があれば、さすがにあの人も我が身を振り返るのではないか。それは過度な期待だろうか。……未遂で済むのだろうか。打ち所が悪ければ死んでもおかしくない。これは命をかけるほど価値のあることか。いまの縛られた僕の命にどれほどの価値が?
飛び降りる気があったかといえば、とくになかった。
しかし、飛び降りることをためらう気持ちもまったくなかった。
どちらでもよかったのだ。あのままでいたら僕は、なんとなく引き返したかもしれないし、なんとなく身を投げ出したかもしれない。自分の身体の決定権が手の内になかった。思考は空回りして、どんな結論も出せそうになかった。だから、ささいなきっかけひとつでどちらにでも転んだことだろう。コインの表が出ていたら、太陽がもっと眩しかったら。
けれど、あのときの僕には。
「なにしてるんですか?」
声が聞こえたのだ。
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