現在-2
「おー、いたいた。須藤ちょい待ちー」
階段を下りて踊り場にさしかかったところで上から声が降ってきた。短髪の男子生徒がリズムよく階段を駆け下りてくる。クラスメイトの宮内だった。
「教室におってもあんまやることないし片方持ちに来たわ。ほい貸し」
「ああ、うん。ありがとう」
返事をしながら左脇に抱えていた看板を渡す。そこまで重くはなかったが重ねて持てないくらいにはかさばるものだったので、両手で一つだけ運べばよくなったのはかなり楽だ。素直に感謝した。
臨時の集積所まではまだそこそこ距離がある。僕と宮内は並んで階段を下りていった。
「やーしかし、中止よ中止。仕方ないけどさー、へこむもんはへこむわなぁ」
「まあ、そうだね」
振られた話題はあまり気の進むものではなかったのでおざなりな返事になった。宮内がちらりとこちらを見る。
「あれか、そんなショックでもない感じか」
「たぶん、みんなほどすごく楽しみにしてたわけではないから」
「相変わらず面倒な言い回しするなー。にしてもそうか、そりゃ全員が全員楽しみってわけでもないか。んー、あの子もそうだったんかなぁ」
「あの子って?」
「いやほら、例の、飛び降りた」
「ああ……」
迂闊な質問だった。後悔するが遅い。
「文化祭を楽しみにしてたんならあんなことしないもんなぁ。けっこう人も集まって騒ぎになったらしいけど、須藤は知っとる? 現地にいたりした?」
あんなこと。遠回しな言い方だったけれどなにを指しているかは明白だった。
「……いや、いなかったよ。その時のことも、噂で聞こえてくるようなことしか知らない」
笹森が屋上から飛び降りたのは放課後、ホームルームが終わってから十数分後のことだった。
笹森は金網を乗り越え屋上の縁に立っていた。昇降口から出てきた生徒の誰かがそれを見つけた。誰かが教師に伝え、何人かが急いで屋上に向かい、騒ぎを聞きつけた野次馬が集まりだした。そうなっても笹森はすぐには飛び降りなかった。しかし地上から届くいかなる言葉にも無反応で、一言も発することなく佇んでいた。そして屋上に向かった人たちが到着するころ、なんの前ぶりもなく、宙へと飛び込むようにして地上に落ちていった。
笹森が飛び降りる瞬間には少なくない数の目撃者がいた。無責任な噂といえど、大まかな流れについては実際と相違ないだろう。飛び降りる直前、笹森の周囲には誰もいなかった。地上から屋上は見づらいとはいえ、笹森は金網の外側に立っていたのだ。笹森以外の人物がいれば誰かが気付くはずだ。金網の内側にいた誰かが笹森の背中を押した、というのも考えづらい。笹森は足を踏み外すようにして落下したのではなく、縁を蹴るようにして前方に飛び降りたからだ。
笹森が飛び降りたのは、どこまでも笹森の自発的な意思によるものだった。これは動かしがたい事実だろう。
話しているうちに昇降口に着いた。上履きを履き替え外に出る。
校舎を出て右手側、古く建てられた方の校舎の壁面から少し離れたところに、壁面に沿うようにツツジの植え込みがある。胸ほどの高さのある立派なものだが、その一画がブルーシートで覆われ見えないようになっている。
笹森が落下した地点だ。
植え込みの部分的にひしゃげた様子がどうしても事件を想起させてしまうので、手入れがなされるまでシートで隠すことにしたのだろう。
「けっこう高さあるよなー」
隣に来た宮内が屋上を見上げながら言った。
「どんぐらいあんのあれ。十メートルとか?」
「三階建てだし、そのぐらいだと思う」
振り返り、集積所へと向かう。宮内もすぐに着いてきて並んだ。
「あんな高いところから勇気あるよなー。俺バンジージャンプとか絶対無理。遊園地のフリーフォールですらキツイもん」
「勇気……勇気なのかな」
「いや怖くない普通に? ほらあれ、東京タワーの足元ガラスになってるやつとか、ビビるじゃん正直」
金網を越えて屋上の縁に立った時のことを思い出す。普段よりずっと高い視点。一歩進めば足場はない。落下する自分のイメージ。どれぐらいの勢いがつくだろう。地面に叩きつけられた体はどうなるだろう。滞空時間はどれくらいだろう。その残酷な思考の猶予時間に、自分はなにを思うのだろう。
そういった諸々のことを考えなかったわけではない。でも僕は、それらのイメージを自分の肌で味わえるほど深く想像できなかった。だから高所に対する恐怖というのはあまり感じなかった。
笹森はどうだったのだろう。身にまとわりつく恐怖を振り払って飛んだのだろうか。それとも。
「……どうだろう。そういう行動を取らざるを得ないくらい追い込まれていたってことなのかもしれないし」
「あー、ね? 噂だけど、けっこう陰湿なことやられてたらしいもんな。大河内だっけ」
どこかで聞いた名前だと引っ掛かり、笹森をいじめていたというグループのリーダー格だという噂のあったことを思い出した。
「こんだけ騒ぎになったら相当肩身狭いよなー。部活の後輩がそいつと同じクラスなんだけどさ、事件の後からは一応、しおらしい態度とってたらしいのよ。反省してますって感じで。でもまあ、事が事じゃん? 許されそうな雰囲気とか全然あるわけないし、文化祭まで中止になっていよいよヘイトやばいっしょ。あれかな、学校からもなんか処分とかすんのかな」
「こういう問題で退学ってなかなか聞かないけど、休学くらいなら……いや、学校から処分を下したら噂になってる事実関係を認めることになるから、案外なんのアクションもなかったりするのかも」
「うわやば隠蔽じゃん。隠蔽体質じゃん。まあこんだけ噂になっといていまさら事実を認めるもなにもない気がするけどなー。っていうか処罰とかなくても学校来んのキツいか。視線痛くて。そもそも今日だって来てんのかな。後で聞いてみるか」
「……その部活の後輩って子、同じクラスなんだよね。大河内とか、飛び降りた子とかと」
「そうだけど?」
「止めなかったのかな。飛び降りた子がいじめられてたのを」
あー、と宮内はそっぽを向き、答えを考えるようにうめいた。
「後輩だからって庇うわけじゃないけど、女子同士の問題に男子が割り込んでくのってすげぇムズいと思うし、仕方ないんじゃね? それに、いじめられてたっていっても実際どんな感じだったのか俺たちは知らんわけだし、後からあーだこーだ口出しするのもなんか違うっしょ」
「……まあ、それもそうだね」
つまり止めなかったんだな、と思った。僕と同じで。
初めて会った日からおよそひと月の間、笹森とは屋上で何度か会ったが、いじめに遭っていることを打ち明けられたあの日以来、その話題が出たことは一度もなかった。僕は聞かなかったし、笹森が自分から言及することもなかった。だからといって、笹森の状況が改善されたと思っていたわけではない。むしろ、悪いままなにも変わっていないのだろうという予感があった。笹森の様子や言動から感じ取ったことではなく僕の勝手な予感だ。そしてその予感は外れていなかった。
知っていてなにもしなかったのだから、僕も当事者のようなものだ。人から責められても仕方のない立場だ。僕がなにかすることを笹森が期待していなかったとしても、僕は笹森を助けるため行動するべきだったのではないか。そうすれば違う結果もあったのではないか。いまさら言っても詮無い話なのは分かっているけれど。
そうこうしているうちに校舎の角にさしかかり、そこを曲がるとグラウンドの隅の方に見慣れない巨大なコンテナが置かれているのが見えた。臨時の集積所だ。
宮内が「いやしかし、やっぱ中止になったのは残念だなー」と一周した話題を振ってくるのに適当に合わせながら集積所まで看板を運んだ。人が二、三十人は入りそうなコンテナは半分ほど中身が埋まっており、実際に使われることなく捨てられている用品の数々に、文化祭が中止になるということの無常さをあらためて感じさせられた。あまり楽しみにしていなかった僕でさえこう感じるのだから、多くの生徒にとってはどれほどのことだろう。
ゴミを捨てたら教室に戻るのだがその途中、昇降口まで来たところで「ちょっと用事があるから後で戻る」と言って宮内と別れた。用事の具体的な内容はとくに詮索されなかった。
宮内が昇降口に消えていくのを見送ってから、なんとなく持ってきていたスマホをポケットから取り出した。メッセージアプリを起動して宛先を選び文章を入力する。
『もう知ってるかもしれないけど、文化祭の中止が正式に決定になった。』
それから、もう数文字。考えるともなしに指が勝手に入力していた。点滅するカーソルをしばらく眺めていたが、心に波は立たなかった。結局、文章はそのままで送信を押した。
顔を上げると目の前には植え込みとブルーシート。さらに上にのぼっていくと笹森の立っていたという屋上の縁。下からなので全体は見えないが、いま屋上には誰かの居る気配はない。当然だ。これまで開放されていた屋上は、笹森が飛び降りてから完全に閉鎖されている。屋上に出る扉の鍵は基本的に施錠されているうえ、取っ手にはこれ見よがしにチェーンが掛けられるようになった。文化祭の出し物で使われる予定も無かったから片付けるような物もない。だからいま屋上に誰かが居るはずがない。
金網の外側、縁に立つ笹森を思い描く。
いまにも飛び降りそうな女生徒を地上から見上げる。危ない、よせ、やめろ。通り一遍の言葉を投げるが彼女に届いた様子はない。生半可ではない覚悟がそこにはあり、翻意させるに足るだけの言葉など誰も持ち合わせていなかった。
僕には笹森が自殺するとは思えない。ならばなぜ彼女は飛び降りたのか。
ずっと疑問だった。しかし、笹森が抱き得る覚悟に心当たりがないわけではなかった。そんなものは勝手な邪推にすぎないと意識的に封じ込めていたそれは、僕の中で日に日に存在感を増していき、どれだけ考えても他に納得できるだけの理由を思いつけることはなかった。
どれほど確信に近づこうが僕の中にある限りそれは邪推のままだ。清算しようと思うのなら答え合わせが必要だった。だが、答え合わせを願うことは新たな残酷さにつながりかねないことだった。だからこの欲求も意識的に封じ込めていた。
いま僕は、自分で決めたその境界線を、さしたる覚悟もなく踏み越えた。
持っていたスマホがかすかに震えた。画面を見ると、起動したままのメッセージアプリに新しい文章が表示されていた。付け足した数文字、足場の見えない虚空へと踏み出した一歩への、返信だった。
『直接会って話せませんか?』
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