屋上-2

「あ、どうもです。ここ空いてますよー」

 屋上に出てみたら思わぬ先客がいた。金網沿いに点在する出っ張りに腰かけた女子が、自分の隣に空いたスペースをバシバシと叩いている。笹森だった。制服ではなく緑のジャージを着ていた。

 校舎の壁面についた時計を見る。昼休み前ではあるが授業の終わりまであと十五分は残っていた。

「そこ、立ってるとギリあっちの校舎から見えちゃいますよ」少し慌てたように笹森が言う。「早くこっち来てください」

「ああ」

 素直に従って移動した。

 校舎は二つの建物をL字に並べたような構造をしており、角の部分が連絡通路でつながっている。僕らがいる建物は古く建てられた方の校舎で、屋上の入り口はLの右下に位置している。Lの右上に開いた空間が学校の入り口というか正面側で昇降口などがあり、屋上からそちら側に立つと見晴らしがよく人目につきやすい。授業中に屋上にいるところを見られたくないのなら寄るべきではないだろう。金網を越えていまにも飛び降りそうな姿なんてもってのほかである。数日前、僕が笹森に見つかったときに立っていたのはLの下線より下側を向いた方で、こちらには学校の施設もなく、少し離れたあたりからはちょっとした林になっているので、誰かに見られるおそれはほとんどない。いま笹森が座っているのもこちら側だ。

 笹森の隣には座らず近くの別の出っ張りに腰を下ろす。会話するにも支障のない距離だ。笹森がわざとらしく唇をとがらせているのが目に入ったが無視した。

「本当にいるとは思わなかった」

 気になることはいくつかあったが、最初に出てきたのはそれだった。

 初めて会った数日前、僕を監視すると言ったのは会話の流れの冗談みたいなものだろうと思っていた。それから数日間、僕は屋上に寄らず、学校で笹森を見かけることもなかった。そして今日、ふらりと来てみたら授業中にもかかわらず笹森がいたのだから、これにはけっこう驚いた。

「えー、言いましたよね、先輩がここで危ないことしでかさないようきっちり監視するって」

「まさか本気とは。いや、あらためて聞くけど本気なの?」

「本気ですよ! 私の目が黒いうちは許しません」

「僕が今日ここに来たのはたまたまだし、そもそも授業中だし……なに、まさかずっとここに居たりする?」

「いやぁ、さすがにそこまでは」後ろ手に頭をかく。「休み時間になるべく寄るようにして、誰か来てないかチェックするくらいです。授業もちゃんと出てますよ」

「それなら、いまは」

「ワケあって早抜けしました。そういう先輩は?」

「授業が早く終わっただけだよ」

 嘘ではない。受験に向けた選択授業で、用意された課題を終えたらあとは自習という教科があるのだ。授業で使用されていないならクラスの教室に戻ってもよいことになっているので、それを利用して抜け出している。

「ワケあってって、仮病かなにか?」

「あー、そこ突っ込みます? というか、仮病は理由じゃなくて手段じゃないですか」

「でも保健室には行ったんでしょ?」

「え」

 返答が途切れた。目を見開いて固まっている。

「……いや、ジャージ。色が違うし、胸元の刺繍が別の人の名前。保健室で借りられるやつでしょ、それ」

 笹森の上履きは前回と変わらず青いラインの引かれたもの、つまり二年生用のものだったので、学年について詐称されたと考えるよりジャージが借り物という可能性の方が高い。そして保健室で貸されるジャージについては僕もお世話になった経験があるので記憶に引っ掛かっただけだ。北林って誰だよ。

 笹森は自分の胸元を見て、「はぁー」と感心するように息をついた。

「よく気づきますねぇそんなこと。先輩、実は名探偵なんですか?」

「誰でも分かるでしょ、これくらい。ジャージってことは体育だったの? いまの時間」

「はい。もともと着てた自分のやつが授業中にダメになりまして。外での授業だったんですけど、ええと、派手に転んじゃいまして、その際にビリっと」

「それはそれは。怪我とか大丈夫」

「はい、そこは無事でした」

「ならよかった。授業には戻らなくてもいいの?」

「それは……あー、なんでしょう、ぐいぐい来ますね先輩。私が先輩を見張るんだから、私のこととかどうでもよくないですか?」

「普通に疑問なこと聞いてるだけなんだけど」

 答えにくそうにしているのだから戻る気はないのだろう。

 ……となると、しかし。

「制服でいいな」

「はい?」

「怪我してなくて、授業に戻る気もないなら、もう制服に着替えちゃえばいいよなって。ジャージでいれば見とがめられても『保健室に行っていたところだ』って言い訳がたちそうだけど、こんなところに居るのが見つかればその言い訳も使えないし。わざわざ保健室に行ってジャージ借りといてまでサボる理由ってなんだろう」

 笹森は金網に寄りかかってたっぷり空を見上げ、その後うつむいて十数秒ほどうめいた。

 うつむいたまま顔だけこちらに向ける。

「……先輩、やっぱり名探偵じゃありません?」

「だから、そんなんじゃないよ。疑問に思っただけで事情はなにも分かってないんだから」

「いやでも、ううん、そうかなぁ……核心をはぐらかしたままだと、先輩が納得してくれそうな説明を思いつけないんですよ。みんなもっと浅いところでなんとなくごまかされてくれるのに」

「なに、はぐらかされてたの僕」

「そのつもりだったんですけど……この話続けます?」

「話したくない事情があるなら別にやめていいけど」

 単純に疑問だったから聞いていただけで、地雷原に足を踏み入れるつもりはなかったのだが。

 笹森は目を閉じて、んんん、となにか悩んでいる様子だった。

「……いえ、先輩には話しておいた方がいい気するんで、もうぶっちゃけますね。要はですね、制服もダメになってたんです、着替えようとしたけど。更衣室に行ったらロッカーにしまっておいたのが床に落ちてて、砂まみれで、あちこち踏みつけられた感じで」

 笹森はこれまでと変わらない調子でなんの気なしに言ったが、それは明確な悪意をはらんだ描写だった。

「さすがにこれ着るのはなーって。それで保健室に行って、授業中にジャージが破れたことだけ話してこれ借りました。経緯としてはそんなです。あ、転んだっていうのも足引っかけられたからで、私がドジってわけじゃないんですよ。そこは誤解しないでくださいね」

 冗談めかす笹森の口調に無理をしている様子は感じられなかった。とはいえ、そんな感覚を信じきっていい話題でもない。

 今度は僕が空を見上げる番だった。しかし、いくら考えても適当と思える言葉は浮かばなかった。

「……どう反応したらいいかな」

「あっ、ごめんなさい。やっぱり引いちゃいますよね」

 笹森は広げた手を慌てたように振った。僕が引くとか引かないとか、そういう話だろうか。

「それは、なんていうか……日常的にやられてることなの?」

「まあ、そうですね。最近はだいたい」

「そう。そのわりには……酷いことを言ってるのかもしれないけど、君は、ずいぶん平気そうに見える」

「平気ですよ? 実際。私なにも悪いことしてませんし。こういうのはいずれ自分の身に返ってくるものです、いつか痛い目をみるのはあっちですよ」

 平気。平気というが、本当に平気ならどうして授業に戻らずここにいるのだろうか。一時的に逃げてきたのではないのか。そう思ったが、その疑問を直接ぶつけることはさすがにできなかった。

「このことは、誰か先生には?」

「言ってないですね。向こうは隠してるし、私も黙ってます。もちろん親にも。クラスメイトも見て見ぬふりしてるんで、クラスの外だと気付いてる人はいないと思います。こうして先輩に話したのが初めてですね」

「それは、なんで」

 言葉が喉に詰まったような『なんで』だった。なぜ言わないのか。なぜ黙っているのか。なぜ、僕にだけ。

「んーと……先輩には、知っといて欲しかったんですよね」

 下唇に人差し指の腹をあてながら笹森は言った。

「先輩は、たぶん、なにか事情を抱えてるんですよね。フェンス乗り越えちゃうような。いえ、その内容は話してくれなくていいんですけど。私がいま話したのは、なんというか、事情を抱えているのはひとりだけじゃないってことを伝えたかったというか……ほら、私のおかれてる状況って、あんまりよろしくないものじゃないですか。私は平気ですけど。だから、先輩の抱えている事情と比べたら全然大したことない境遇なのかもしれませんけど……でも、とにかく、先輩はひとりじゃないので。抱えきれなくなったら、そのときは、ひとりでどっか行っちゃう前に、こうして気軽に吐き出せる相手がいるってことを思い出してほしいなぁと……すみません、うまく言えないんですけど」

 訥々と語る言葉のひとつひとつに誠実さの欠片が見えた気がした。笹森の言っていた、見張るとか監視するとか、耳なじみなく日常から浮ついて冗談みたいに感じられていた言葉たちも、同じ性根から発せられていたのだといまなら理解できた。

 笹森は本当に、僕がここから飛び降りやしないかと心配していて、それを防ごうとしているらしい。

 その確信めいた直観に、僕の口はしばらくまともに動いてくれなかった。

「……そう。うん、ありがとう。それから、ごめん。せっかく打ち明けてくれたけど、僕じゃ君の力になれないと思う。少なくとも直接的には」

「いいんですよ。むしろ勝手に重荷を背負わせちゃったみたいでこちらこそすみません。それに、私だってたぶん、先輩の力にはなれませんよ。きっと、ほんとに自分を救えるのは自分だけなんです」

 その言葉を最後に会話が途切れた。授業中の学校は静かだ。僕たちの会話がなくなれば、風のそよぐ音しか聞こえなくなった。

 屋上には僕と笹森の二人しかいない。開放されているようでどこにも行けない閉じられた区画の端っこ、近くにいても寄り添ってはいない。僕と笹森の間にあるのは、そういう距離感なのだと思った。

 しばらくして、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。


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