現在-1

「あーほんっとダルいわ。せっかくこんだけ準備したのに、なんもないまま片付けるだけとか」

「マジそれな。徒労感ぱない。せめてあと一週間ずらしてくれてればなー」

 廊下ですれ違いざま耳に入った話し声に思わず足を止めた。両脇に看板を抱えたまま首だけで振り向く。男子生徒二人が、雑多なものが入ったゴミ袋をどこかに運んでいるようだった。男子らは特に気にする様子もなく会話を続け、そのまま曲がり角に消えていった。

 文化祭は中止になった。その通達が担任の教師からなされたのは、今朝のホームルームでのことだ。

 開催予定日のまさに直前、詳細な事情も知らされないまま延期とだけ告げられて全校が騒然としていたのが先週の金曜日。登校禁止の厳命に従いつつ暗に表に様々な憶測の飛び交ったであろう休日を越えての、今日は月曜日だった。薄々こうなるかもしれないと予想していた生徒も少なくなかっただろうが、教室の空気は諦めと一抹の期待が崩れ去った失望がないまぜになったような、言い表しがたい淀みをねっとりと含んでいた。

 中止の理由について、落ち着いて聞いて欲しいと前置いたうえで担任が語ったのは、その場にいたほとんどの生徒がすでに把握しているような情報だけだった。

 先週、とある在校生が屋上から飛び降りたこと。

 そして、その生徒がいじめの被害に遭っていた疑いがあること。

 飛び降りた生徒がいたこと自体は先週にも、緊急で開かれた全校集会で周知されていた。体育館のステージに登壇したあまり顔を見たことのない校長が言うに曰く、どうか早まらないでほしい、命を大切にしてほしい、いまなにか悩みを抱えているのなら遠慮なく相談してほしい、私たちは君たちひとりひとりの味方をする、そしてくれぐれも今回のことに関して事情を詮索したりしないように。

 翌日には事件に関するたくさんの噂が広まっていた。飛び降りた生徒はクラス内でいじめられていたらしい。それを苦にして自殺をはかったらしい。現場にあった遺書にそう書いてあったらしい。校内の話題はそれもちきりで、受動喫煙だけの僕でさえかなりの煙を浴びることになった。中には飛び降りた生徒は妊娠していたとか、街の方で大人の男と歩いているのを誰それが見たみたいな根も葉もない、そのチープさすら込みで広まっているような噂もあった。

 煙の比較的濃かった部分を並べるとだいたい以下のようになる。

 飛び降りた生徒の名前は笹森日向。二年F組。十六歳。三人家族の一人っ子。帰宅部。成績はまあまあ上の方。趣味はたぶん読書。交友関係はあまり広くなく、親しい友人も多くない。見た目は地味でどちらかというと陰キャっぽい。話してみるとノリは割と悪くない。でもたまに喋り方がなんかウザい。

 いじめられるようになったのは今年の春先から。先導していたのはクラスでも目立つ女子グループで、彼女らが笹森に目をつけたきっかけについての心当たりはクラスメイトたちにはなく、きっかけなんて無かったんじゃないかというのが最大公約数的な印象らしい。最初はちょっとハブにしたり私物を隠したりといった軽い感じだったのが、それを受けて笹森の側が『チョーシに乗った』ため、より本格的ないじめへと移行していった。『チョーシに乗った』の内訳は、やられてもビクビクしなかった、臆さずに真正面から反抗した、そんな幼稚なこといつまでやってんのという感じに見下してきた、といったところだそうだ。

 いじめが本格化してきてからは、もともと少なかった友人たちも表立っての交流を避けるようになり、クラスメイトたちも二次被害をおそれて傍観に回ったので、学校での笹森はより孤立するようになった。笹森は教師や保護者に現状を訴えたりすることはなくひとりで耐え続けていたらしい。そんな状況が数か月続き、溜まっていたものがいよいよ溢れかえって今回の事態につながったのだろう。

『いまだから言うけど大河内たち、大河内ってのはその女子グループのリーダー格ね、笹森に対する大河内たちの行動はエスカレート気味でちょっとヤバいと思ってたんだよね。自分たちでも歯止めが効かなくなってるっていうか』『それは、止めてあげるべきだったんだろうけど。外からならなんとでも言えるけど……それに笹森さんも、これくらいなんでもありませんって顔してたから、誰かが助けてあげなくちゃって感じじゃなかったんだよ』――。

 人の口に戸は立てられない。膨れた噂は校外にまで広がり、校内の刺激的なゴシップから地域の衝撃的なニュースとなって、学校全体に大きく影響を及ぼす問題の様相を呈してきた。大々的な報道こそされなかったものの、外部からの圧力が日に日に高まっていく感覚を教師のみならず生徒たちも味わったようで、週の後半には『この状況で文化祭を開催できるのか』という心配の声があちらこちらから聞こえてくるようになっていた。そして風聞や地域との信頼関係を重視する学校は、開催直前の延期を経て、生徒たちの懸念通りの決定を下したというわけだ。

 固有名詞もいじめの具体的な詳細も出ることのなかった説明を終えると、担任は『文化祭が中止となってしまったことはとても残念だし心苦しく思う。ショックな出来事が続いてみんなも動揺しているだろうが、どうか自棄にならず冷静に、この件について無根拠な噂を吹聴したりそれに流されたり、軽率に話題として扱うことのないように』といったような、先週にも聞いた結論を繰り返した。ついては、今日の授業は午前で終わり、午後からは文化祭のために準備していた物品や各地の装飾の片付けをしてもらうのでそのつもりで。

 現在時刻は午後の二時。僕は部活にも委員会にも所属していないので、必然的にクラス企画の片付けに回された。片付けといっても開催延期となっていたため本格的な準備や装飾がなされていたわけではないし出るゴミも少ない。かさばるのは宣伝用の立て看板くらいで、僕はそれを捨てに行くことにした。ゴミ捨てを買って出たのは教室にとどまらなくていいからだ。おそらくそこでは、クラスメイトの繰り広げるあまり気持ちよくない会話が耳に入ってくるだろうから。

 そう思って逃げてきたのに、結局、遭遇してしまった。

 ゴミ袋を運んでいた男子たちの会話。一つのイベントに向けて多くの人間が何週間も前から準備をしてきた、その努力が全部無駄になることへの悲嘆と不満、どうしようもない徒労感。僕はこういった行事に積極的に参加する側の人間ではないが、多くの人がそういうネガティブな気持ちを抱いてしまうことについては共感できなくもない。でも、その感情の矛先が飛び降りた彼女に向かうのはまったく理解できない。

 あと一週間ずらしてくれれば。

 屋上から飛び降りるのをもう一週間耐えてくれていれば。

 笹森日向が屋上から飛び降りた。だから文化祭は中止になった。たしかに因果関係はこれ以上ないほど明白だが、そこで彼女の忍耐を願うのはあまりにも自分本位な考え方だ。彼女がどれだけ傷ついていようとそれは自分には関係のないこと。彼女のこれまで味わってきた痛みと苦しみを無視して、その背景にあった問題に見ないふりをして、自分の期待が満たされたらその後のことは知りませんという、残酷なまでの無関心の表明だ。

 そんな少し考えれば分かることが、けれども、みんなの素直な欲望だった。公言したところで指をさされないくらいには市民権を得た、珍しくもない願望だった。だからみんな、彼女が飛び降りた理由についての噂を一通り消化した後は、文化祭が無事に開催されるかどうかばかり気にするようになっていたのだ。どうも僕はその事実をあらためて突き付けられるのが嫌だったようだ。

 両脇の看板を抱え直し、止まっていた足を動かす。

 粗大ゴミなどかさばるものは後日業者にまとめて回収してもらうため、一旦グラウンドの隅の方に分別して集めておくことになっている。臨時の集積所は校舎を回り込むように進んだところにあるので靴を履き替えるため昇降口へと向かう。

 歩きながら、自分が感じている気持ちについて考える。

 屋上から飛び降りる。その行動に至らせた笹森の心の動きについて、いじめを苦にしていたのだな、という地点での理解に誰もがとどまり、そこでなされていたであろう繊細な感情の揺れ動きを気にしていない。少なくとも僕の耳に届いた限りでは。その無関心さを思うとき、僕の内側でなにかモヤモヤとしたものがにじみ出てくるのを感じる。これは、たかだかひと月ほどの付き合い、屋上で何度か会話を交わしただけの関係とはいえ、僕が笹森のことを知っているからそのように感じてしまうのだろうか。

 瞳を思い出す。足を踏み出す一歩手前にいた僕を引き止めた、金網越しの瞳。

 僕は笹森のことを知っている。だから、その知らせを聞いたときから消えない疑問をずっと抱えている。

 あの笹森が自殺するとは思えない。ならばなぜ、彼女は屋上から飛び降りたのだろう。


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