どうか、死なないで

たたら

屋上-1

「なにしてるんですか?」

 ぼんやりと景色を眺めているところに声が届いた。振り向くと、屋上の入り口、扉を出てすぐのところに見覚えのない女子が立っていた。ドアノブに手をかけたまま、呆然としたように動かない。

 うちの高校の屋上は開放されていて昼休みには生徒がまばらに訪れるけれど、いまは授業中で誰もいない。僕と、突然現れた彼女を除いては。だからその質問は僕に向けられたものだったのだろうが。

「なにって」

 金網の向こうの彼女から足元へと視線を移す。黒い靴下を履いた足元、つま先の向く方には踏みしめる足場がなく、もう五十センチも進めば十メートルそこらの高さを重力に従って落ちていくだけだろう。彼女からしてみれば、屋上に来てみたところ落下防止のフェンスの向こうに人がいた、という状況なわけだ。

 ゆっくりと顔を上げる。鮮やかな青の中にくっきりと白い雲が伸びる、夏の訪れを感じさせる気持ちのいい晴れ模様だった。

 ふーっと、薄く長く息を吐いた。

 どう返答したら帰ってくれるだろう。

「……たぶん君が考えてるようなことはしないから安心していいよ」

「いやそれは無理が!」

 塔屋からだっだっと地面を蹴るように近づいてくる。耳が隠れるくらいのショートカットをした背の低い女子だった。目を見開いた、焦ったような慌てたような表情をしている。近くで見てもやっぱり見覚えはない。学校指定の上履きに入ったラインの色は青。学年ごとに指定されている校内用の物品の色は、いまは一年生が緑、二年生が青、三年生が赤だから、後輩だろうか。

「授業中なのにどうしたの。サボり? バレると面倒だよ」

「私のことはいいんで! あの、とりあえずこっち来てくれませんか。そっち側にいられると安心できないので」

「だから、別に飛び降りたりする気はないんだけど」

「いや説得力ゼロですし! その気がないとしてもついフラっととか魔が差してとか太陽が眩しくてとかあるかもじゃないですか。その気がないんならなおさら、そんな危なっかしいところからは戻ってきてください」

 危なっかしい。見ている側からすればそういう印象になるのは分かる。金網に片手をかけただけの状態で立つ屋上の縁、命綱なんてもちろんない。なんの気なしに足を踏み出すだけで僕の身体は彼女の視界から消え去るだろう。

 そういう場所、そういう位置だからこそ僕はここに立ってみたのだけれど。

 金網越し、真摯な瞳と固く結んだ唇がこちらに向いている。

「……まあ、いいよ」

 おとなしく従うことにした。空いていた方の手も金網にかけてよじ登っていく。金網の目は格子状で、そんなに大きくないため上履きの先も入らないが、靴を脱げば足の指を引っかけられるくらいの広さはある。脱いだ上履きは金網のそばに揃えて置いておいた。邪推の要因だったかもしれない。

 屋上側からでも越えようと思えば労せず越えられた忍び返しを越えて地面まで降りる。上履きを履くと自分の温もりが残っているのが微かに感じられた。

 金網をはさまず向かい合った推定後輩の女子とは頭二つ分ほど背が合わなかった。

「戻りました。これで安心?」

「ひとまずは。……えっと」

「それで、君はサボりなの?」

「えっその話続くんですか!? 私の話より……」足元を見やる。「……先輩の行動の方がおかしいというか、問い詰められるのもまあ仕方ないだろうなって感じのことしでかしたの分かってます?」

「客観的に見たらそうなんだろうなってのは分かる。でも僕の行動は僕にとって疑問じゃないし、君も問い詰めるのをためらってる様子だったから、先にこっちの疑問から解消しようとしたんだけど」

「先輩もしかしてめちゃくちゃめんどくさい性格してます?」

「たまに言われるけど実感したことはない」

「めんどくさい人なんですね。はーなるほどー……」

 張りつめていた気のすっかりゆるんだ様子で、推定後輩は納得するようにしきりに頷いた。なにへの得心かは不明だ。……僕と同じように上履きのラインの色で学年を判断したうえで僕のことを先輩と呼んだのだから彼女は一年生か二年生のはずで、推定じゃなく後輩か。

「……踏み込んでも大丈夫そうなんで聞きますけど、なんであんな危ないことを?」

「ん……。知らない相手に話すようなことじゃないから、ごめん答えたくない」

「ああ、すみません。そうですね、理由は後回しでも大丈夫でした。それなら、この質問にはちゃんと答えてほしいんですけど、もうあんな危ないことしませんよね?」

 理由は後回しでも、というすぐには意味のとれない言い回しにも引っかかったけれど、それより気になったのはニュアンスだった。質問というより懇願のそれ。頼むからしてくれるなという無言の圧。

 彼女の小さな体では相応のものでしかなかったけれど。

「どうだろう。正直、確約はしかねる」

「それは……困りますね」

「困るんだ」

「はい、とても」

 眉尻を下げて声を落とす。あまりにもはっきりと顔に出すぎていて逆にわざとらしくない表情に見えた。

「そもそもさ、どうして君は僕を呼び止めたの」

「それは、屋上に出てみたらいまにも飛び降りそうな人がいたので。そこは誰だって思わず呼び止めると思いますけど」

「飛び降りようとする理由も知らないのに?」

「理由とか理屈じゃないんですよ。体が勝手に動いちゃうというか。ほらあれ、アプリオリってやつです」

 それは微妙に違うと思うけど、さておき。

「でも、僕に飛び降りる気がないとしても困るんでしょ?」

「え。ああ……それはその、見てるだけで危なっかしいじゃないですか。落ちたらどうしようって。不安になるのでやめてほしい、みたいな」

 いかにもたったいま思いつきましたといった感じのそれっぽい理由付け。それは、おそらくは無意識に『困る』という語の選択をした心のはたらきから離れたところにある気がした。端的に言うと、この子なにか隠してるんだな、と思った。

 わざわざ暴き立てる理由もないし、問い質したりするつもりもないが。

「そもそもを言うなら、危ないことはしちゃいけませんって教わると思うんですけど。小っちゃいころに。火遊びしちゃいけませんとか、池で泳いじゃいけませんとか。教わりませんでした?」

「屋上のフェンスを越えてはいけませんと教わったことはないかな」

「じゃあ追加します! いま!」

「でも僕、火で遊んだことも池で泳いだこともあるし」

「見かけによらずヤンキーでしたか……」

「ヤンキーの認定がゆるい」

「……じゃあもう、見張るしかないですか」

「見張る」

 耳慣れない言葉が飛び出してきた。

「先輩もさすがに人の目があったら危ないことしませんよね。現に、私の説得に応じてこっちに戻ってきてくれたわけですし。ですので、先輩が屋上にいるときは私が見張ることにします。これならどうでしょう?」

「どうでしょうって言われても。……それ、君には僕が屋上に来るタイミング分からなくない?」

「教えてくれません?」

「気は進まないかな」

「それなら、なるべく居座るようにします」

「僕、授業中でもちょくちょく来るかもしれないけど。いまだってそうだし」

 合っていた目がさらに上に逃げた。ほとんど天を仰ぐような姿勢だ。

「……善処します」

「まあ、君がどう行動するにしても僕に止める権利はないし、好きに頑張って。もちろん頑張らなくてもいいし」

「はい。それでは、先輩がここで危ないことをしでかさないよう、これからきっちり監視させていただきますので……あっ、すみません」

 ふと、なにかに気付いたように頭を下げて。

「私、笹森日向って言います。二年生です。すみません、名乗るのが遅くなりました。先輩は……いまさらですけど先輩ですよね?」

「うん、三年生。須藤大地」

「須藤先輩、ですね。あらためて、よろしくお願いします」

 いまさらの名乗りあいをして、腰からの深い一礼。顔を上げた彼女――笹森は、くっきりと大きな目を開いてにこりと笑った。こちらを逃さんとするかのような、自然さの奥に意志の強さを感じさせる笑顔だった。

 こうして僕は、僕が危ないことをしないように見張るという後輩、笹森日向と出会った。

 彼女がここから飛び降りる一か月前のことだ。


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