第七夜 我は後、他は先
いつまでも岩場にいる訳にはいかないので、翌日、日が陰ってから外へ出た。日本とは違う直射日光が辛い。
義とやらを受け取ったのはいいが、腹は減る。聞くと、市場がやっているということなので、そこへ行くことにした。
会計は全部まかせていたのだが、この国はどうも、激しい物価高のようだ。
何でもお好きなものを、と、言われたが、古代の、品種改良などがされていない食べ物の味など検討もつかないので、自分の今食べたいものを言うと、干した果物や、魚などを買ってくれた。魚は保存用に、油につけているらしい。胃もたれするかな、と、心配になったが、結構イケる。
食事のときはとても無防備なので、二人で路地裏で食べた。乞食がいるといけないから、と、慈雨に促されるがままに、大きな木の陰で食事をした。
言わずもがな、慈雨は食べないものの、期待を込めた物欲しそうな顔をしているので、自分が食べ終わったら、信仰とやらを食べさせてやろうと思っていた。
正味、自分に信仰があるとは思っていないだけに、一体慈雨が何故そんなものを欲しがるのかわからないのだが、『おいしい』なら良いだろう。
異国の地であっても、修行の時の習慣が生きている。知る一つ零さず、ありがたく頂戴する事ができた。
「ねえ、慈雨。」
「はい!」
「俺はこの後どうしたらいい?」
「どう、とは?」
善也は先日のことを思い出しながら答えた。
「慈雨、お前が俺のことを慕ってくれているのも、期待してくれているのも分かる。でもこの前の失敗っぷりを見てみな。やっぱり俺は、イエス様なんかにはなれない。」
「い、いえ…?」
「俺が知っているのは、この役目は、「イエス・キリスト」っていう人がやるんだよ。俺は代わりにはなれない。俺は―――。」
―――ホモ! 汚らしい!
―――このホモ野郎! 近づくな!!
「俺は、
「? 善也さまは最初から、
「………。」
当たり前かのように言う慈雨に、思わず絶句した。見かけで判断されたからだ。
「……どうして、そう思ったの。」
「何が不思議なんですか?
「とうちゃんが
そう言って善也は反射的に立ち上がり、上から拳を振り下ろすように怒鳴りつけた。慈雨はまるで、それこそ
「父ちゃんは立派な男だった。筋肉も体力も少ない中で、土方で食ってくだけの技術も経験もあったんだ! 棟梁はいつも言っていたよ、『お前の身体がもう少しだけでもたくましかったら』ってな! 道楽息子の兄貴の失敗を直して、なおそれでも仕事が出来たんだ! 現場で父ちゃんより目利きの優れた土方はいなかった。暖簾分けだって許された。父ちゃんが看板を潰したんじゃない、戦争で職人が徴兵されたからだ!!!」
自分は疎開先の寺で、その道を決めることになった。山の上から、あっちがお前の故郷だと言われると、子供らは皆、そちらの方を向いて父と母を読んでいた。そしてむしった雑草を、手でもみこんで食べた。どんな山奥であったとしても、食料がないことは変わりない。
ただ、自分はそのようなことは出来なかった。
疎開する直前、父が自害した。
理由は簡単で、看板を畳むことになり、ただでさえ収入がない、職人の母親たちに責められなじられたからだ。父が何故か徴兵されなかったことも、彼女たちの逆鱗に触れたのだろう。
「先に、弟子たちを待っています。あとはよろしく。」
子どもだった自分には読めない文字だったが、一番上の姉が、弟をおんぶしながら読んでくれた。
女の腐ったような男、と、父の師匠までなじられ、親方や仲間からも恥さらしと罵られた。母は、
「いいかい、お寺さんに行ったらね、お寺さんに行ったらね。お釈迦さまの前に座って、お教を読むんだよ。そうしたらね、そうしたらね、父ちゃん、お前のところに戻ってきてね、励ましてくれるから。お前も父ちゃんも、この家の子は、みんな仏の子だからね。元気でいるんだよ。元気でいられるからね!」
涙は、母のくぼんだ目元に溜まるばかりで、決して流れることはなかった。工場の仕事をしていた姉たちもその時は帰ってきていた。疎開するには、何か基準があったのだろうか。自分のすぐ上の兄は疎開しなかったが、その上の兄は疎開するのだという。自分の弟は、すぐ上の姉に掴まらせてもらいながら、何も分からず笑っている。
自分には名前を縫い付ける『ぜいたく』しか許されなかったのに、疎開するという兄は、うどんではなく、米を使ったおにぎりを2つも貰っていた。いいなあ、と、見ていると、兄は気付き、丸ごとひとつ、自分の両手には収まらないほどのおにぎりをくれた。この時ばかりは、兄に別れを告げに来てくれた近所の人たちが、突き刺すように自分を見る。怖くなっておにぎりを落としてしまうと、ついに彼らは怒鳴りだした。兄はすぐに、おにぎりをつまんで、汚れていないところだけを丸め、はいと渡した。
「兄ちゃん、ごめん…。」
「いいんだよ、ほら、兄ちゃんのはごましおだから。」
そう言って、兄は地面に触れた米を拾い、自分よりも小さなおにぎりを、美味しそうに頬張った。
「ほら、一緒に食べちゃおう。残ってたら、列車でとられちゃうぞ。」
「う、うん!」
「俺達は疎開するけど、お前たちはこれから、母ちゃんを助けて、どんぶりいっぱいのご飯を食べられるようになるんだぞ。」
意味のわかっていない下の弟以外が、涙を流すほど大笑いしていた。
兄の疎開先について知ったのは、疎開していた兄も含めて、家にいた家族皆が、死んだことを寺で聞かされたからだ。
「うちの子になるか?」
そう言って、疎開先の寺の僧侶が言った。子どもたちが帰る日、他にも生き残ってしまった何人かはいたのだが、こっそりと自分に囁いた。
「………。うん。」
「そうか。じゃあ、この後は皆とお別れして、一緒にご飯を食べよう。…今までのより、もっとひもじいかも知れないけど。」
「うん! だいじょーぶ!」
そう言って、抱きついた時、初めて家族が、文字通りの戦火に呑み込まれたことを実感し、大泣きした。
その時まだ、住職になる前だった彼は、よしよしと、頭を撫でて慰めてくれた。
精通が来た頃、彼と、死にかけの彼の父である住職は、大喜びだった。良かった、栄養が足りていた、と、泣いてくれた。一人前の男になったんだよ、と、言われ、嬉しくなった。いつでもお嫁さんをもらえる、と、言われて、その時初めて恐怖が襲った。
自分が、嫁をもらう? 女と夫婦になる?
嫌だ、と思った。ずっとこの寺にいたい。ずっとこの寺に住みたい。ずっと―――。
彼の、傍にいたい。
そう言うと、微笑ましく二人は笑った。
「そうか、なら、お前もお坊さんになるか? 僕の代にも副住職がいると、とても嬉しい。」
「うん、うん! なる、なる!」
「よし、善は急げだ。早速荷造りだ!」
―――あの時の感情は、恋心だとわかっていた。だがその感情は、決して汚いとは言われなかった。
総本山では、修行と食事と排泄以外にすることがない。疲れて寝るか、起きて修行するか、その為の最低限の食事は、元の寺よりも酷かった。
当然ながら、性欲に回す体力などないし、女性の話なんてすることがない。する暇がない。
なのに、何故。
総本山から、自分が
「…ん?」
感情のままに叫んでいた筈なのに、いつの間にか慈雨がいない。というか、景色が違う。何なら夜が更けて、空に夜明けの気配がする。
…どこだ、ここ?
もしかして、狂乱してどこかを走って来てしまったのだろうか。
「慈雨? 慈雨? ごめん、俺が悪かった。ここが何処だか分からない。出てきてくれ。」
慈雨を探すが、あまりに周りが暗い。星はものすごく多く、月も明るいのに、周りが見えない。
「じ―――。」
「反逆者だ!! 反逆者がこの辺りにいるらしい!! 大祭司の軍が来る、皆家に隠れろ!!」
そんな声が聞こえてきた。反逆者、と、言われて、何のことだ、と、ぽけっとしてしまった。が、すぐに、どうして自分がそもそも岩陰にいたのか、思い出す。
矢を射られたのは、自分ではないか!
もしや自分のことか、と、とりあえず方向が分かる日の出の方向―――東の地へ走った。他の人が巻き込まれてはいけない。
その時、善也は忘れていたのだ。
あの時、自分は一人ではなかったということを。
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