第六夜 妄起不浄のこうせつ
岩の隙間で息を整えていると、ふと、慈雨の腹がくぅ、と鳴る振動を感じた。
「慈雨、腹が減っているなら、食べておきなさい。」
「あ、いえ、これはオレのじゃなくて、ヨシュア様のだけで…。」
「俺はいいから。」
ううんと、と、慈雨は何か歯切れが悪い。申し訳無さそうに、こちらをチラチラと見上げてくる。
「その、がまん、出来なくて…。」
「だから、食べていいよ。」
「さっきから、ずっと、その、近くて…。」
「限界近いなら、尚の事食べなくちゃ。」
修行寺のことを思い出し、いざとなったら自分はああいうもので、と、思っていると、慈雨がふと、自分の下腹部に手を当てて、身を乗り出してきた。
「慈雨?」
「ヨシュアさま…。オレ、貴方のが食べたい。」
………。
「どこを!!??」
「すごく、美味しそうで、さっきから、実は口の中、涎が溜まってて…。」
船の中で、そんな感じの愛撫があったような…。
いやいやいやいや、問題はそこではない。慈雨の見かけは10歳くらいだ。赤紙に無縁ではないだろうが、学徒出陣には駆り出されていそうである。空腹をこらえ、口の端を光らせ、涙を浮かべた慈雨は、もしかしたら発育が悪く、男として育てられた、地位の高い姫なのかも知れない。
いずれにしろ。
「よくない!!! 色々と!!!」
「そ、そうですよね…。いくらいい匂いでも、吸ったらオレのお腹に入るわけだから…。」
「吸い取るのか!?」
「吸い取るなんてそんな! 少し嗅がせていただくだけで、そんな、源まで取ろうなんて思ってません!」
「逆にタチが悪い! どこで覚えた、そんな悪食!!」
自分で言うのもなんだが、正さなければ、と、思い―――止めた。
―――汚らわしいホモ!
この時代とこの国で、
―――本当の意味で、邪淫だ。
「慈雨、よく考えて。そういうことは、懸想人とすることなんだよ。」
「でも、オレはこんなに美味しそうな持ち主、出会ったことないです。」
「今まではどううやって食いつないでいたの。」
「何度か、先生達のを遠くから嗅いだことがあるくらいで…。どれも美味しくなかったです。」
そりゃそうだろう。
「オレは別に、食べなくても存在出来るから…。でも、人と同じ
「…。慈雨、お前…。やっぱり、人間じゃないのか。」
「…多分。」
慈雨の何たるかもわからないが、子どもの仏というと、思いつくものがあまりない。母と逸れた鬼子母神か、或いはこれから生まれる弥勒菩薩の中途半端な姿なのか…。
「やっぱり、だめですか?」
「…。」
「どうしても?」
「………。」
否定しなければいけないのに、よほど飢えている慈雨の眼差しが痛い。
人間ではない、というのなら、この子はきっと仏か獄卒のどちらかなのだ。いずれにしろ、すべき行動に正解が見いだせない。
しかし、だ。
どうせ自分が地獄に落ちるのに、この幼い子どもの姿の
「俺以外にやらないって約束するなら、いいよ。」
「はい!!」
即答され、ばふっと慈雨は自分の喉に鼻を寄せてきた。嬉しそうに身じろぎするが、自分は動かないほうがよさそうだ。
慈雨が知らないことを、わざわざ教えなくてもいい。
「ふ…すん…すぅ…。あー………。おいしい…。すっ…ふ…っ。」
………。
あの、これは。
「………。慈雨。」
「も、もう少し…。」
「いや、いいんだけど。君が「食べたい」って言っているのって、具体的に、何?」
「あとで…。今は、たべさせて…。」
口付けられている気配すらないので、聞いてみるが、慈雨は呼吸も粗く、自分の項に顔を埋めている。確かに涎のようなものが袈裟の襟に染みているようなので、飢えは満たされているらしい。
くんくん、すんすん、などという犬のような可愛いものではなく、それこそ、婦人の谷間に顔を埋める男か何かのように、延々と鼻を擦り付けてくる。
「ふ…は………。おなか、いっぱい…。」
「お粗末様でした…なのか?。…ああ、もう、ぐしゃぐしゃじゃないか。」
顔を離した慈雨の顔は、それはもう蕩けていて、美酒を一献飲みきったかのように酔っていた。口に溜まっていたという涎は、途中で我慢できなかったらしく、つう、と、糸を引いて、自分の袈裟と繋がる。裾で拭ってやると、裾の下の手のひらに鼻を擦り付けてきた。
慈雨のその顔は、性欲が満たされた顔でも、食欲が満たされた顔でもなかった。
どちらかというと、それは酩酊に近かった。
「慈雨、俺の何を食べたら、そんなんになるの?」
「ええとぉ…。…んこ、を…いただきました…。『本物』だったから…。おなかいっぱいです…。」
「あ、こら!」
そのまま慈雨は、幸せそうな顔を浮かべながら、自分の腹に座り、胸に顔を埋めて眠ってしまった。こころなしか、眠っている間にも、すっ、すっと鼻がヒクヒクしている気がした。
外が不気味なほど静かになり、善也はまだ目覚めない慈雨の体が冷えないように腕を回し、少し仮眠を取った。昼と夜の寒暖差が激しく、本格的に眠れそうにないからだ。慈雨が今までになく、温かく感じる。余程強く抱きしめてしまったらしく、もぞりと慈雨が動いた。
「ヨシュア様、お寒いですか?」
「ものすごく。」
「じゃあ、さっき食べさせてくださいましたから、お礼に分けてあげますね。」
そう言って、慈雨は自分の腹の上でごそごそと動いた。
「ああ、ありがとう。」
………。
いや何を!?
ハッと目を覚ますと、慈雨は何やら、手の中に小さな火を浮かべていた。奇術の類ではなさそうだが、妙にも不思議にも見える。
「…はい。食べてください。」
「慈雨、俺人間だから、火は食べられないよ。」
確かに火を飲み込む苦行はあったらしいが、それは釈迦が悟ってからはやっていない。
「火???」
「違うの?」
「…火?」
もしかして、この文化圏においては、何か違う言葉を使うのだろうか。
「慈雨、それ、何ていうの?」
「これは、『義』です。」
「………。どんな味するの?」
「心が暖かくなって、体に活力がみなぎるものです。」
「………。どうやって食べるの? 丸呑み?」
「噛み砕いた方がきっと良いです。」
「………。それ、硬い?」
「食べにくいということはないはずです。…あの、すみません。ヨシュア様は別のもの―――あ! お弁当!」
「い、いやいい! いただくよ! ただ食べ方がわからないんだ!」
慈雨がせっかくの手作りを受け取ってもらえない子どものような顔したので、慌てて否定した。食べ方? と、よく分かっていない慈雨に、とりあえず口を開ける。
「俺は人間だから、慈雨みたいに鼻から食べ物食べたりできないの。だから口に入れて。」
「はい。」
そう言って、慈雨はその火をそっと善也の口元に持っていった。眼前でキラキラと光る炎は、まばゆくはなく、しかしろうそくよりも力強い。
「い、いただきます。」
腹をくくってそう言うと、火は自分から口の中に飛び込んでいき、舌も喉も通らず、直接胃袋に突っ込んでいった。
なんだか、胸の淀みのような凝りのようなものが、ほぐれたような気がする。無駄な、認識出来ない不安なんかが、取り除かれたような。
「…どうですか?」
「うん……。味はわからないけど…。うん、いいね。」
「良かった! ヨシュア様が本物だったから造れたんですよ。」
「さっきから気になっているんだけど、慈雨が昼間、俺から食べたのって、何?」
すると慈雨は、乙女のように微笑んで言った。
「信仰です。この国のどこでも
よくわからないが、健全だった。自分の勘違いが恥ずかしいが、これは流石に許してもらいたい。
ただ、もし食べたのが『薫り』だというのなら、もしかすると慈雨は、自分の身体に染み付いた苦しみの毒を浄化してくれたのかもしれない。
香は、不浄を流すという説があるからだ。
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