第一夜 澍法雨(じゅほうう)の始まり
「さあ来い―――ドスケベエロ神父!!!」
森から飛び出し、崖に飛び出した女は、そう叫んだ。腰巻を朱に濡らしながら、天に向かって一矢、放ったのだ。その矢は曇天に吸い込まれて行き、行方が分からなくなる。遠すぎて、矢が刺さったのかどうかが分からない。念のため、と、最後の一本を番え、引き絞った時、後頭部を掠めて、矢枕が吹き飛んだ。四本の指で弓を構えたまま、もう一本の矢を放とうとして―――矢を引き絞っていた肘が吹き飛び、矢は中途半端な軌道を描いて、へろへろと落ちて行った。
「―――まだ分からんのか、あの子どもは。どんなに分身を産んでも、我らが祭司王猊下の治世は変わらないということが。」
森の中から、女の親指と肘を落とした武器を構えた祭司たちが歩いてくる。彼らの手にあったのは、弩だった。女がその崖を駆け下りて逃げようとしたので、別の祭司が後ろから、その細首を掴み、持ち上げて、地面にたたきつける。女はハクハクと呼吸を繰り返しており、逃げる道中の傷で、背中と胸と腹は白と紫とが染みついていて、とてもじゃないが欲情は出来なさそうだ。
だが、それよりも祭司たちは、この死にかけの女が気に入らず、蹴とばして転がした。
「何がおかしい! 売女が!」
「くくく……くくくく………。」
女はくっきりとした目で祭司たちを睨み、口角を吊り上げ、―――そして、言った。
「成し遂げた」
そう言って、女は糸が切れた操り人形か何かのように、力が抜け、白目を剥いた。
なんのことだ、と、祭司が顔を見合わせると、突然、雲が裂けた。雲が動いたのではない、裂けたのだ。そしてその上から、天井の水が、大量に漏れてくる。
「な、なんだなんだ!? 大洪水の再来か!?」
「急いで祭司王猊下に報告を!!」
「
悲鳴を上げて去っていく祭司たちの背中で、次々と天の割れ目は広がっていき、雨というよりも、瀑布のような凄まじい量の洪水が降ってくる。
女の白目は見ていた。その中に、この国を―――イスラエルを滅ぼし、真の救世の教えを齎す、一人の聖職者が、大量の水の中に紛れて、文字通り、天から下ってきたのを。
そして、聖都イスラエルに聳える大神殿、その最奥に座す祭司王も、閉じた瞳で、その様子を見ていた。
「……どうやら、お前の企みは最後の最後で成功したようだが―――。どうするつもりだ? アレは包茎でこそないが、イスラエル人でもないぞ。」
壁に貼り付けられた奴隷のような男は、衣も髪も、朱は紫に染まり変わり、今にも暗闇に溶けてしまいそうだった。
祭司王の両目を隠した布をずらし、その長いまつげを見せると、男を張り付けていた幾重もの鎖がはじけ飛び、死体のような体が吹き飛んで、祭司王の足元に転がった。
「なぜまだ形を保っていられる。お前の信奉者はいないぞ。ユダ族は滅び、ガマリエル一門も滅ぼした。我が国はローマを滅ぼし、この地中海全てを約束の土地に変えた。お前が生まれる条件は、すべて潰したぞ。」
「………。」
男は答えない。祭司王のつま先が、転がったまま、伏せられていた顔を持ち上げると―――。
「…!!!」
その顔は、どろどろに溶けて、骨すら溶け、筋肉が見えていた。
「………。いいだろう。」
祭司王が瞼まで眼帯を持ち上げると、その躯体は、はじけ飛んで消えた。祭司王は眼帯を戻し、椅子の裏にある自室を抜け、窓を開いた。外では、空が砕け散り、多くの町が沈んで逆巻いている。祭司王が手袋を外し、両手を天に掲げると、その瞬間、天の裂け目は瞬く間に塞がり、巨大な虹を作った。
「さあ、来るがいい!!
先ほどの大雨が嘘のように、突き抜ける碧空に磔にされた虹は、祭司王を祝福する。眼下の町並みは、祭司王の厄災を払う「瞳」によって、何事もなかったかのように水が引いていた。
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