第三夜 神権契約帝国イスラエル

 くしゅっとくしゃみをして、目を覚ました。少し髪の毛がひんやりとしているが、体は濡れていない。…というか、着替えさせられている。

 ああ、助かってしまったのか、と、何となく思って、ふう、と、ため息をついた。身体は軽く、風邪を引いたかのようなだるさはない。きっとよく温めてもらったのだろう。

 ―――死に損なったなぁ……。


 拾って頂いたからには、その人に報いるためにも、生きねばなるまい。

 正直、凄く苦しい。悲しくて、やりきれなくて、切なくて痛い。

 きっとこれは善意の塊で、あの氷が漣を作るかのような酷い荒海の中、命を顧みず助けてくれたのだろう。

 それが尚の事苦しい。

 何故死なせてくれなかったのか、そう問い詰めることは、相手の仏性を蔑む行為だ。文字通りの仏心をそしるわけにはいかない。

 胸の中にしまわなくてはいけない、罵声のような悲鳴、断末魔のような呼吸が、ひたすら、ひたすら、苦しくて仕方がない。


「あ…! 気づかれましたね!」


 少年の声が反響する。あれ、と、思ってよく目を凝らすと、どうやら自分は建物の中にいるわけではないらしい。

 ここはなんだ? そして自分のベッドは、アニメ『ハイジ』のような藁―――を、敷き詰めただけのものだ。自分はバナナ料理か何かなのか? 辺りを見回して混乱している中、少年の足音が近づいてくる。まず手元に、湯気が立つ鍋があり、それを握るふくふくとした子供の手。袖は白く―――。

 いや、袖ではない。というか、なんなのだ、その貫頭衣のような、妙に時代がかったような、ミケランジェロ辺りが彫刻で掘っていそうな、腰紐のないローブは。ここは日本か?

 と、思ったら、今度はその少年の顔が更に近づいて見えて、ますます仰天した。

 少年の髪は、金髪だった。ブロンドという意味ではなく、黄金色に輝きそうな、シルクの光沢のような、そんな金色。そして瞳は、およそ人間の持ちうる金の瞳―――つまりは、琥珀瞳アンバーからは遠のいて、もはや宝石のようだった。

 時代錯誤な服、人とは思えない、けれども慈愛を感じる物腰は、まるで金色の仏像さえ思い起こさせる。


「あ、あの、ここは…?」


 時代錯誤、というより、むしろこれは、自分の方こそ「時代錯誤」ではなかろうか。


「先日、天の門が開いて、空から大水が降ってきました。」


 あの海のことだろうか。


「荒れ狂い、都市を沈めるほどの大水の中、ゆっくりと、オレに受け取られるのを待つかのように、貴方が水の柱の中に現れたんです。」


 それはどんな如来なのだろうか。少なくとも経典で読んだことはない。

 こと、と、鍋が置かれる音がして、熱くなった少年の両手が、自分の片手を握り、懇願するように眉尻を下げる。


「空から降ってきた神の子、どうかこの世界を救ってください!」


 ………。かみ? かみのこ???

 自分はどちらかというと仏の子なのだが。


「貴方こそが、神とともにおられる方、預言者達の残した希望の王、―――すなわち、インマヌエルだと、オレは信じていますし、そのように告白します。」

「インマヌエル?」


 エマニュエル婦人、というのを、なんとなく思い出した。もしかして同源の名前だろうか。


「今イスラエルは、滅亡の危機に瀕しています。祭祀王の支配から、このイスラエルを救ってください!」


 イスラエル???

 確か18に建てられた新興国だったか。


 これは。もしかして。もしかしなくても。


 決してコスプレとは言えない、薄汚れたローブに裸足、そしてベッドどころかフローリングでさえなく、逆に消毒が大変そうな汚い藁布団、土鍋ではなく、素焼きのような鍋。


 これは。

 もしかして、もしかしなくても。

 というやつか???


「…ごめん、君の言っていることがよくわからないんだけど…。今、西暦何年か分かる?」

「せーえき?」

「せいれき!!!」

 疲れているんだ、こんな子供がそんな言い間違いをするわけがない。

「何のことですか?」

「暦。ああ、元号でもいいかな。君、昭和って聞いたことある? それか、太平洋戦争とか、アメリカとか、日本とか…。って、日本語喋っているんだから、君は日本人だよな。今の天皇陛下のお名前は分かる?」

「???」


 少年は全く理解できて来なかった。


「すみません、ダビデの子。オレはまだそんなに、この世界のことを知らなくて………。」

「…待って。君、俺のことを、色々な渾名で呼んでいるけど、俺のことはなんて言うべきだって、伝わってるの?」

 すると少年は、打って変わってキラキラした顔で応えた。

 エッサイのひこばえ、ダビデの子、インマヌエル、油注がれた者………。

「…うん、分かった。でも、俺は君の言う『神の子』じゃないんだ。」

「どうしてご謙遜なさるのですか? 空からくだってこられたのに。」

「いや、多分それは、ほら、あれだ。時空の裂け目だとか、そんな感じので、タイムスリップしちゃったような、タイムトラベラーのような…。」

「始まりにして終わり、時間そのものである方、つまり、神ですね!」

 聞いてくれそうにない。


 …とりあえず、叫びたい。


「待て。待て待て、待って。」

「はい、しもべは待ちます。」


「俺はこう見えても仏僧だ! キリスト教には詳しくない!!」


 きりすときょー? と、本当に何も分かっていなさそうなのが、逆に恐ろしい。


 どうやら自分は、に来てしまったらしい。

 …そんな『地獄』って、あったっけ…。

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