7. ホットサングリアの作り方(i)

 一週間が果てしなく長い。


 新年が明けても、仕事はむしろ忙しいし、プライベートも相変わらずだけど、木曜の夜だけはぽっかりと深い穴が空いてしまったような感じがする。


 慶ちゃんのところに行かなくなっただけで、こんなに時間が経つのが遅いなんて。それまでどうやって過ごしてきたのか不思議になる。


 あの日からもうすぐ一ヶ月。帰り際のドアベルの音と慶ちゃんの戸惑った顔が脳裏に残ったまま、いつまでたっても褪せてはくれない。



 ホットサングリアを自分で作ってみようかと思い立ったのは、そんなぽっかりと空いてしまった木曜日の会社帰りだった。


 スーパーに寄って記憶を頼りに材料を買う。


 オレンジ、りんご、レモンかな?グレープフルーツ、 パイナップルも入っていた気がする。

 それから、最後にシナモンの香りがしていたことを思い出して、シナモンスティックを買い物かごに入れた。


 赤ワインは何を選べばいいのかよく分からなかったから、自宅近くの酒屋さんで希望を伝えて選んでもらった。


 買って来たフルーツを適当な大きさに切り、とりあえず今ある一番大きなタッパーに入れる。その上から赤ワインを流し込み、最後にシナモンスティックを入れた。


 一晩漬け込んだフルーツには赤ワインが染み込み、もともとのみずみずしさは跡形もなく消えていた。きっと、赤ワインにも柑橘系の風味が溶け込んでいるのだろう。


 中のフルーツごとミルクパンの中に流し込んで弱火にかける。くつくつと小さな泡が浮かんできて、ほどなくしてワインと柑橘系の香りが溶け合った湯気がた立ち上ってきた。


 舌には上には物足りなさが残る。

 見た目は同じなのに、近いようで全く違う、そんな感じの味だった。


 慶ちゃんのホットサングリアはもっとキラキラしていた。


 慶ちゃんのホットサングリアが飲みたい。


 そして、なんだかすごく慶ちゃんに会いたくなった。


***


 二月に入っても空気は暖かくなるどころか、むしろ寒さを増している気さえしてくる。ビルの外に出ると、冷たく吹きつける北風が頰を打つ。


 私は、宙ぶらりんになった木曜の夜を今週も持て余そうとしていた。


 ずっと私の中で燻り続けていた気持ちは、小さな炎に変わり、気まずさとか照れくささとかがごちゃ混ぜになった、痛くて温かな感情となって私の胸を締め付けていた。

 とはいえ、残念ながらすぐに会いに行けるほどの神経は持ち合わせてはいなかった。


 今日の夕飯はどうしようかと考えながらビルのエントランス前の石段を下りていくと、横の植え込みにもたれかかっている人影が見えた。私の姿を認めたからか、こちらに向かって歩いてくる。


 私がその人を見間違うはずがない。

 ついに幻まで見え始めたかと自分を疑うくらいに、会いたくても会えずにいた人。


 チェスターコートに黒のスキニーめのパンツ。あの日のような慶ちゃんがそこにいた。


 会ってないのは一ヶ月足らずなのに、物凄く懐かしい気がするのはなぜだろう。なんだか涙が出そうな感覚を覚える。


 一瞬、あの日のことが脳裏を過って気まずさが蘇ったけど、慶ちゃんのいつもより少し低めの声にかき消された。


「いつもうちに来る時間帯を逆算するとこれくらいかと思ったんだけど 」

 

 慶ちゃんはもう一歩私の方に近づき、真っ直ぐな視線を向けた。


「待ちくたびれた 」


 慶ちゃんは左手はコートのポケットに突っ込んだまま、右手で私の左手をそっととった。

 それはまるで今までもそうしていたかのような、違和感を差し込む余地がないほどにごくごく自然な流れだった。


「今日は少し仕事が長引いたから 」

 と言うと、

「いや、そういう意味じゃないんだけど 」

 と、慶ちゃんはくつくつと笑った。


 男性サイドの慶ちゃんがチラついて変に胸が鳴る。


 私の手を握ったままで慶ちゃんは歩き出した。


 数センチだけ前を歩く慶ちゃんの顔を盗み見てみるけれど、その表情は薄暗がりに紛れてよく分からなかった。


 冷えた慶ちゃんの手と、まだ微かに温かい私の手の温度が混ざり合い、溶け合っていく。あまりにも自然に手を繋がれたものだから、今頃になってようやく鼓動が追いついてきた。顔が火照り、どうしようもなくなって俯いた。


 慶ちゃんは何も話さない。でも、むしろその空気が心地良かった。



 私は、慶ちゃんがどこへ向かっているのかをすでに分かっている。


 いつも私が木曜日にとおっていた道。


 そして、その先にあるのは私が木曜日にかよっていた場所。



 『closed』のプレートが掛けられたドアを開けると、ドアベルがカランカランと軽やかな音を立てた。


「とりあえず座ってて 」


 慶ちゃんが店内の照明を灯しながら、いつもの笑顔で微笑んだ。

 繋がれた手は、ごくごく自然に離されたけれど、手の中で徐々に熱が失われていっても握られていた感触はまだそこにあるようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る