8. ホットサングリアの作り方(ii)
私はいつものカウンター席の端っこに座った。
「何か、飲む? 」
カウンターの中から声がかかる。その声はいつもの慶ちゃんに戻っているようで、なんだか拍子抜けしてしまった。
「ホットサングリア 」
「それ、メニューじゃないんだけど 」
慶ちゃんは笑いを含んでそう言うと、キッチンの中へ入って行った。
ここまで来てしまった、いや、連れてこられてしまったけれど、一体、慶ちゃんは何を考えているのだろう。
そして、私のしでかしたことは慶ちゃんにどう機能したのだろうか。
程なくして戻って来た慶ちゃんは、いつものガラスのコーヒーカップではなく少し分厚めのマグカップをカウンターの上に置いた。
赤ワインと柑橘系の香りが鼻をくすぐる。キラキラと色とりどりのフルーツが浮かぶ。
その隣ではいつものナポリタンが湯気をあげている。
ただ、いつもとは違って、慶ちゃんはカウンター越しではなく私の隣の席に座った。
いつもよりも近い距離に少し戸惑いを覚える。慶ちゃんの私服姿にもまだ慣れない。
「今日は、ごめんねぇ。いきなり連れてきちゃって 」
一瞬間が空く。きょとんとした空気が二人の間を彷徨う。
「あーっ、違う、ごめん 」
慶ちゃんは、急に声色を変え自分に言い聞かせるように言った。なんだか一人ボケツッコミを見ているようだ。
慶ちゃんの心理はまだ分からないけれど、これだけは言っておかないとならない事が私にはあった。だから、一瞬の隙に滑り込ませた。
「慶ちゃん、この前のことは謝らないから」
振られるなら一思いに振って欲しい。掘り返したくはないけど、なかったことにはしたくない。少しきつめに放った口調とは裏腹に、目線は自信なさげにマグカップの中に落下した。
「別にいいよ 」
慶ちゃんは一瞬きょとんとして、その穏やかな低音ヴォイスが答える。「大したことじゃないから」と続きそうな口調に少し胸の辺りがチクリとした。
「昔、婚約していた恋人がいたんだ。幼馴染みで、しろちゃんも知ってる 」
突然始まった思い出トークに慶ちゃんへ視線を向ける。いつものおちゃめな表情とは違った顔にドキリとして、目を逸らしたくなるのを必死で堪える。
手をつけられないまま少しずつ熱を失っていくナポリタンは、食べごろを逃す私を少しだけ恨めしそうに睨んだ。
「もともとうちで働いてたんだけど、女のやっかみとかそういうやつで、うちのお客さんから嫌がらせ受けてたみたいで 」
慶ちゃんの顔が痛みに歪む。
「僕が知ったのは、彼女が駅の階段から落下した後で。誰かに押されたらしい。それからかな、彼女の方から会ってもくれなくなって、連絡も途絶えた 」
わずかばかりの沈黙のあと、慶ちゃんは意を決したかのように一気に言葉を吐き出した。
「それ以上彼女と向き合うのが怖くなって、音信不通を理由に逃げたんだ、僕は 」
以前、アルバイトでも雇ったらって言った時の慶ちゃんの顔を思い出す。今と同じ、痛そうで、悲しそうな顔をしていた。
つられて胸の辺りに痛みが走って、息が詰まりそうになる。
「この前、一緒にいたのはその彼女。もう一度やり直したいんだって 」
だから、ごめん。
頭が勝手に慶ちゃんの雰囲気を予測変換する。
「もう、自分が原因でいざこざが起きたり誰かが不幸になったりっていうのにうんざりしたから。 だから、恋愛とか特定の恋人とかはもういらないかなって 」
それが慶ちゃんの答えなのだろうか。少しずつ私の中の不安が膨らんでくる。
「それからかな、雰囲気や、言葉もわざと変えてみたり。恋愛対象になんてならなかったでしょ、最初は 」
そう言えばいつからこの気持ちは私の中に潜んでいたのだろう。
でも、きっと答えはどんなに考えても見つからないのだろう。いつの間にか、っていう答えが一番ちょうどいい。知らず知らずのうちに一番居心地のいい場所になっていた。
私の表情を確認してから慶ちゃんは続けた。
「もう誰かと向き合う勇気も自信もなかったんだ 」
私はまだ話の行方が読めないでいる。この話はどこへ向かおうとしているのだろうか。
「それなのに、ずかずか入り込んでくるから 」
慶ちゃんは、気にならないように目を逸らしてたのにと小さく呟いた。
「もしかすると、紗英への、彼女への罪悪感があって朱里に百パーセントで向き合えないかもしれない 」
不謹慎だと思いながらも、慶ちゃんの「あかり」と呼ぶ声が甘く響いてクラクラする。
「それでも、僕は朱里といたい 」
私は自分に問いかける。
他の答えなんて見つからない。そもそも、元から他の選択肢なんてなかった。
「それでもいいって言えるくらいには、気持ちはあるよ。だから、大丈夫 」
私は自分に向かって確認するように、慶ちゃんに答えた。
***
慶ちゃんは私の隣の席に座る。
二杯目のサングリアがキラキラと湯気を立てている。
「実は、うちのホットサングリアには隠し味が入ってます 」
慶ちゃんはなんちゃらクッキングっぽい感じで人差し指を立てた。
「隠し味 」
私はそれに
「ちなみに作る時、何入れた? 」
赤ワイン、オレンジ、りんご、レモン、それからパイナップルにグレープフルーツ、それからシナモンを入れて…。
私は空で自分が入れた材料を数える。色とりどりのフルーツがキラキラと宙で踊る。
「たぶん、その材料じゃあまり甘くなかったと思うんだけど 」
甘くなかったのは、熱すると赤ワインの酸味が際立ってくるかららしい。
「確かに。でも、砂糖足したよ 」
私の作ったホットサングリアは渋いというか酸っぱいというか。だから砂糖を少し足したけれどそれでもなんだか違っていた。
慶ちゃんのはもっと甘くて優しい味がする。
「砂糖じゃあからさまな甘さなんだよ。だから隠し味を入れる。ひとつは蜂蜜、」
慶ちゃんは人差し指を立てた。
それに合わせて私は頷く。
蜂蜜特有の甘みが舌の上に浮かぶ。
「そしてもうひとつは、」
慶ちゃんはそう言うと、私の頭に手を回して引き寄せ、下から覗き込むようにその形の良い唇を重ねた。
「目くらい閉じなさいよ」
私は何か呪いでもかけられてしまったのかもしれない。
クックッと笑いを堪えている慶ちゃんに、妙な色気を感じて軽く目眩がした。
気がつくと、終電の時間はとっくに過ぎてしまっている。
始発まで待とうか、タクシーを拾おうか迷うところだけど、もう少しだけ、今度は私の気持ちを話してもいいかな。
そして、私は佐伯さんからの盛大な冷やかしを覚悟した。
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オフィス街のど真ん中にあるバル
居場所を見失いそうになった時、少し立ち寄ってみてください。
見目麗しい、乙女なマスターがあなたのご来店を待ちしております。
寂しさを感じるような寒い夜には、温かく甘いサングリアをお楽しみください。ただし、くれぐれも隠し味にはご注意を。
マイ スイート ナイト 彩映香 @mame_tanuki
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