6. キモチのユクエ(ii)

 散らばっていた意識が次第に集まってくる。


 一体私はどこにいるのだろう。


 記憶を辿ろうとするけどうまくいかない。


 確か、カフェでお酒を飲んでて……。

 なんだかいつもより酔いが回るのが早くて……。


 そうだ、慶ちゃんがいた。

 女の人を連れてて。

 とても綺麗な人でお似合いで。

 ただの知り合いには見えなかった。


 目が合ってしまった気がしたけど……。


 瞼を開くくらいの意識は戻ってきた。けれど、ゆっくり瞼を開けてもまだ自分の位置情報は確定しない。


 明るさを押さえた柔らかい照明。

 なんとなく見覚えのある天井に、壁際に見えるコレクションケース。


 やがて、意識が位置情報の検索を止めた。


 私は、バル『callejuelaカジェフエラ』にいた。テーブル席のソファの上で眠っていたようだ。暖房が効いているのか、頰が少し火照る。


 まだ少し重たさの残る頭を持ち上げると、カウンターテーブルの向こう側で、丸椅子に座り、後ろの食器棚に背中を預けて、腕組みをしながら眠っている慶ちゃんが見えた。


 私にかけてあった大きめのコートは慶ちゃんのものだろう。そのコートからはいつもはつけていないはずの香水の匂いが微かにして、等身大の男性の輪郭が浮かび上がり胸がキュッとなる。


 カウンター越しに慶ちゃんを眺める。柔らかそうな前髪が顔にかかり、寝息とともにその長い睫毛もわずかに動く。


 少し手を伸ばせば触れられそうなその距離に、カウンターから身を乗り出して、興味本位に手を伸ばしてみる。

 もう少しで届くというところで、慶ちゃんが目を覚ましそうになったので急いで手を引っ込めた。



 慶ちゃんが少し身動きをし、意識が覚めそうになったタイミングで声をかけた。


「慶ちゃん 」


「ん、あ? ああ 」


 しばらく微睡んでいた慶ちゃんの意識が焦点を合わせた。


「なんか、酔いで意識飛んじゃったみたいだから連れてきたんだけど。気持ち悪くない? 」

 髪をかきあげながら慶ちゃんが真っ直ぐな視線を寄越してきた。


 私は頷いた。恥ずかしさとか、迷惑をかけた申し訳なさとか、そういうものがごちゃ混ぜになって言葉が喉につっかえる。


「なら良かった。家、分からなかったし、僕のとこに連れて帰る訳にもいかないしねぇ 」 


 そう言って、慶ちゃんは軽く笑った。


 やっぱり、あの時気づいてたんだ

 あの、目が合ったような気がした時。

 きっと、私のお会計も慶ちゃんが払ったんだろうと思い至り、恥ずかしさやら申し訳なさが込み上げてくる。


「ごめん、お会計は後でお返します 」


「いいんじゃない? クリスマスプレゼントってことで 」


「そうだ、何か飲む? 」


 胸の気持ち悪さはもうほとんどなかったけれど、アルコールのせいかひどく喉が渇いていた。

 私が頷くと、慶ちゃんは冷蔵庫から紙パックのグレープフルーツジュースを出して、グラスに注いで出してくれた。そして、自分の分のアイスコーヒーの入ったグラスを片手に私の正面に座った。


「それで、今日は有川さんと会うって言ってなかった? 」

 

「今回もダメでした 」

 私は少しやけ気味にそのままの事を伝える。


「だから呑んだくれてたのねぇ。それにしてもあんなに、いい雰囲気だったのに 」

 慶ちゃんが心底驚いたという風に言う。


 私は何も言い返せない。


 いい雰囲気を作れていたとしたら、それは有川さんの優しさだ。

 そして、そのいい雰囲気を壊したのは紛れもなく私。


「なかなかうまくいかないものねぇ 」

 慶ちゃんは一つ溜め息をついて、残りのコーヒーを一息に飲み干した。



 会話が途切れて、私はさっきから胸にひっかかっていた事を聞く。


「一緒にいた彼女は? 」


「へ? ああ、先に帰ってもらったけど 」

 さらっと答える。やっぱり恋人とかではないのだろうか。


「だ、誰? 」


「ありぃちゃんには関係ない人、かな 」

 と、感情の読めない顔でにっこりと笑う。

 一息に、思いっきり線を引かれた。

 ここから先には入って来るなとでも言うかのように。


 胸の辺りに冷たく乾いたものが広がる。

 

「まぁ、僕の事はいいから。

 ありぃちゃんにはまた誰か、探してあげなきゃねぇ 」

 彼女の話題を断ち切るように、慶ちゃんが能天気に言って、また私の頭をポンポンとはたいた。


 きっと、今日ほどこの人の乙女口調にイラついたことはない。そして、そのお子様扱いにも。


 自分の感情がどくどくと堰を切ったように溢れてくるのが分かる。


「もう、紹介なんてしてくれなくていいよ 」


 自分が出した声の大きさに少し驚く。

 でも、多分もう自分でも私を止められない。すでに何かが外れてしまっている。


 私は、カウンターに手をついて、もう片方の手で慶ちゃんの肘をついている方の腕を掴んだ。


 慶ちゃんに後ずさる隙を与える前に、カウンターから身を乗り出してそのまま唇を近づける。


 触れた部分から慶ちゃんの動揺が伝わってくるようで、でも、どうやって離れたらいいのかも分からない。


 私の肩を掴んで押し戻しながら、先に離れたのは慶ちゃんだった。すごく複雑な顔をしている。慶ちゃんにどう思われたのかを知るのがひどく怖い。むしろ知りたくない。


 倒したグラスが空で良かったとか、もうここには来れないのかな、なんてことは後になって思ったことで、今は、自分がしでかしたことに脳内パニックが起こっていた。


 冷めた感覚が、必死に私を取り戻そうと働きかける。でも、私を引き戻したのは慶ちゃんの少し掠れた声だった。


「ごめん…… 」


 何に対しての「ごめん 」なのか。


 タイプじゃないから「ごめん 」。

 そういう対象じゃないから「ごめん 」。

 他に好きな子がいるから「ごめん 」。


 でも、どういう理由にしても、受け入れられないからの「ごめん 」なのだろう。


「そろそろ帰るね。今日はありがとう 」

 できれば泣き顔は見せたくない。


 私は、カバンとコートを持ってほとんど逃げ出すようにお店を後にした。


 ドアベルがカランカランと軽やかな音を立てる。

 その音が耳の奥に引っかかって耳鳴りのようにずっと響いていた。

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