2. 彼女の居場所

 終業を知らせるチャイムが鳴る。


 切りのいいところで仕事を切り上げ、まだ頑張っている同僚たちに少し罪悪感を感じつつ、ちょうど止まったエレベーターに飛び乗った。


 すでに冬支度を終えた外の空気は、刺すような冷たさだ。とにかく早く温まりたくて小走りに先を急ぐ。


 アンティーク調の木製のドアを開けると、カランカランと軽やかにドアベルの音が頭上に響く。


「いらっしゃい 」

 中に入るとすぐに、カウンターの向こう側から、マスターのけいちゃんが語尾にハートマークが見えそうな乙女口調で迎えてくれる。


 この店が混んでくるのはもう少し遅くなってからで、今はまだ奥の三つあるテーブル席が一つ埋まってるくらいだ。


 そして私は、当然のようにいつものカウンター席の端っこへ座って、

「何にする?」

 っていう表情の慶ちゃんに、

「いつもので 」

 と、オーダーをする。


 いつもの、と言っても毎回同じものが出てくるわけじゃない。あまり、アルコールに詳しくない私に、慶ちゃんは私の好みとか、その日の雰囲気とか、天気とか?いろいろ混ぜてその日の一杯を調合してくれる。


 今日のは、サーモンピンクの色がかわいいカクテル。リキュールの甘さと柑橘系の酸味のバランスが絶妙で、後味に少しだけアルコールそのものの味が残る。今日のも、正解。


 それに合わせて慶ちゃんがチョチョイと作ってくれる、ケチャップ風味のナポリタンも絶品で頬が緩む。


 自分用に大きめのマグカップに入れたコーヒーを飲みながら、いつものように慶ちゃんが話題を振ってきた。


「しろちゃん、最近ご無沙汰だけど元気してる? 」


「しろちゃん」とは、私の上司の佐伯 史郎のことで、慶ちゃんは佐伯さんのことを愛情を込めてそう呼ぶ。

 そして、何かが込められているのかは分からないけど、私、槇原 朱里あかりのことは「ありぃちゃん」と呼ぶ。


 そもそも、佐伯さんが、取引先とトラブって落ち込んでいたというか、荒ぶっていた私をここに連れてきてくれたのが始まりで、今ではむしろ佐伯さんよりも頻繁に来ている気がする。私の癒しの場所である。


「佐伯さん、面倒なプロジェクトに入れられちゃったみたいで。今日も急遽中国出張だって 」


「できる男は大変ねぇ」

 と、くつくつ笑う。その笑い方に慶ちゃんの男性っぽい感じが一瞬見えてすぐに消えた。


「それで、ありぃちゃんは山脇くんもダメだったんでしょ? 」


 慶ちゃんは、先月自分が私に紹介した山脇さんの話題を振ってきた。できればそっとしておいてほしい。


「これで何人目だっけ? 六人め? ありぃちゃんてば理想高すぎるんじゃないの?」


 それこそ大きなお世話だ。私は上目遣いで慶ちゃんを睨む振りをする。


「せっかく紹介してもらって申し訳ないとは思うんだけど 」


「合わなかったなら、仕方ないでしょ。まぁ、また探してあげるから 」

 そう言って慶ちゃんは私の頭をポンッと叩くと、呼ばれたテーブル席の方に行ってしまった。フッとこぼれた笑いにまた男性サイドがちらついた。


 好きな仕事ができて、海外出張とかも時々行かせてもらえて、仕事に関しては充実している。

 でも、そのせいでプライベートはそれほどでもない。私もそろそろいい年だし、彼氏が欲しくないわけじゃないけど、そうそううまい話が転がっているものでもない。


 それを見かねてか、佐伯さんが慶ちゃんに誰かいい人はいないかと話を持っていったのが始まりだった。慶ちゃんは自分のネットワークを駆使してお店のお客さんとか自分の知り合いとかを私に紹介し始めたのだ。


 そして、先月紹介してもらった山脇さんとも先週別れてしまった。三週間の短いお付き合いだった。


 いつも別れの理由は私の方にある。もともと人付き合いに対してマメな方じゃないのもあるけど、仕事を理由に彼らをほったらかしにしてしまう。それで向こうが業を煮やして、毎回同じパターンで別れがくる。


 それでも私が慶ちゃんの紹介を断らないのは、次こそは本当に好きになれる人かもしれないという期待が捨てられないからだ。私のこの性格と仕事への姿勢を理解してくれる人なんてそうそういるとは思えないけれど。


 カランカランとドアベルが鳴り、続けて何組かのお客さんが入ってくる。その間をギャルソン姿の慶ちゃんが愛想を振りまきながら動き回っている。

 一度、アルバイトとか雇えばいいのにと言ったことがあるけれど、慶ちゃんは「そうだねぇ」と、なぜか少し悲しそうに笑った。


 慶ちゃんにはまだまだ謎が多い。

 私は、成瀬 慶吾という名前以外はお店にいる慶ちゃんしか知らない。

 中性的な綺麗めの顔立ちに、ライトブラウンの髪が緩やかに波を打つ。その外見に似合うといえば似合うのだけど、そのオネェ言葉というか乙女チックな喋り方にも変な違和感が残る。

 年齢は確か私より九つ上だったから、今年で三十六歳になるはずだ。好きな音楽とか最近見た映画とか、そういう話はするけれど、プライベートについては全く予想がつかない。


 あの外見でモテないはずはないんだけどなぁ。あの口調がネックなのか?いやいや、外でもそうとは限らないし、実は二、三人くらい彼女がいるのかもしれない。でも、そんなタイプにも思えない。



「何か、考え事? 」

 慶ちゃんの謎に思いを巡らせていると、いつの間にか慶ちゃんが戻って来ていた。


「ううん、何でもない 」

「そう? 何か作ろうか? 」

 私の空のグラスを指して慶ちゃんが尋ねる。


 名残惜しいけど、時計を見るとそろそろ帰るべき時間帯だ。

「もう少ししたら帰ろうかな 」

「じゃ、持ってくるから待ってて 」


 私の空になったグラスが下げられ、代わりにガラスのコーヒーカップが置かれた。

 このお店のサービスで、冬の間は慶ちゃん特製のホットサングリアを出してくれるのだ。


 赤ワインの中に、キラキラ、プカプカと色とりどりのフルーツが浮かび、ちょっと効かせたスパイスが疲れた心までも癒してくれる。


 ホットサングリアの甘く幸せな香りに、さっきまで考えていた「慶ちゃんの謎」は、もうどうでもよくなっていた。というよりも、慶ちゃんは慶ちゃんであって、幸せな場所を提供してくれる人。それ以上でもそれ以下でもない。


 店内はすでにそれなりにお客さんが入っている。

 常連らしく、慣れた感じでカウンター席に座るサラリーマン。キャンドルを挟んで見つめ合うカップル。会社帰りだろうか、話し込みながら食事を楽しむ二人組。すでに出来上がっている大学生風の男女。

 いろんな人たちがひとときの安らぎを求めてやってくる。


 もうすぐ慶ちゃんも私と話している余裕がなくなってくるだろう。だからいつも少しだけ早めに来るのだ。


「じゃ、気をつけて 」

 いつもの笑顔でドアの外まで見送ってくれた慶ちゃんに両手を振って答える。


 お腹も心も温まったし、ふわふわとほろ酔い気分が気持ちいい。師走の冷たく刺すような空気の中でも顔はぽかぽかしている。


 週末はもう目の前にある。

 あと一日がんばろう。

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